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櫻姫  作者:
昭和十四年
9/28


最近、よく夢を見るようになった。

海にいる夢だ。薄い浴衣姿で、足元は裸足で。そばに誰かいるわけでもない。

緩い波が打ち寄せる波打ち際で、ただ一人佇んでいる。遠くの方で、空の青と海の青が溶け合って境界が分からない。雲ひとつさえないのだ。

私は思い切って浴衣の裾をから上げて、海に足をつける。籠った熱に、打ち寄せる海の水はひんやりと冷たい。そのまま無意識のままどんどん前へと進む。

水がふくらはぎを超えても、腰まできても不思議と怖さはない。還るように、海へと向かっていく。

海の向こうから、きゃはきゃはと誰かが笑う声がするから。それに導かれるように、私はどんどん深くまで潜っていく。


――こっちだよ、と。


小さな子の声で呼ばれているような気がしたから。


***


「…狭衣さん!」


大きな声で呼ばれて、はっと目を開ける。ぼやけた視界が、だんだんとはっきりしてきて、私は瞬きをした。

目の前には、心配そうに私を覗きこんでいる雫槻さん。眉間に少しだけ皺をよせて、手は私の額にかかっている。その時初めて気づいたのだが、私は前髪が濡れるくらいに汗をかいていて、ぺとりとそれが額に張り付いている。

私の前髪を雫槻さんはかきやって、気持ちのいい冷たい手を私の額に押しつけた。


「大丈夫ですか?ものすごい汗ですよ」


起き上がるのを手伝ってもらい身を起こすけれど、それだけでふらふらと目が回った。そうなれば、しばらくじっとしているほかない。雫槻さんの肩に額を押し付けて、しばらくぎゅっと目を瞑った。

ようやく目眩がとれた頃、水でしぼられた手拭いを渡されて、ふらふらしながらも首筋を拭った。見れば浴衣の胸元までじっとりと濡れていて気持ち悪い。眉根をよせながらも、今はそれをどうしようという気も今は起きなかった。

諦めにも似た溜息をつくと、雫槻さんは私を引き寄せた。


「…ごめんなさい。大丈夫」

「――とは、とても見えないです。いい加減一度医者に診てもらった方がいいのではないですか」


そう聞いて私は思わずうんざりしてしまった。私はお医者やお薬というものが大嫌いなのだ。

開け放たれた障子を見れば、その向こうはもう陽がさんさんと照っている。時刻で言えば、まだ朝の七時くらいだろう。時期で言えば、八月半ば。

私が一年の内で一番苦手な時期だ。重たいため息をついて、私は雫槻さんを見上げた。


「…暑気あたりくらいでお医者様に診てもらうなんて」

「けれど、今年の症状はさすがにひどいですよ」

「それは…でも、水分を取って滋養のあるものをいただいていれば、それなりに持ち直しますし」


それなり、という言葉を聞いて、雫槻さんは眉をしかめて私の肩を上下にそっと摩った。まるで「それなり」では到底看過できないのだとでも言いたげだった。四年も共に過ごしていると、視線一つで雫槻さんの言いたいことが分かる様になってのだから、私も大したものだと思う。

そもそも雫槻さんが私にこんなに神経を尖らしているのには、理由があった。毎年毎年夏が来るたびに、私は決まって暑気あたりを起こすのだ。

私は寒さに弱いが、暑さにはもっと弱い。初夏ならともかく、八月の一番暑い季節になると、家の中でも一番奥まった涼しい部屋で午睡を取らねばやっていけない。

身体はそう弱くないはずだけど、外出は日傘が欠かせなかった。高価なものだからと、私がいくら断っても雫槻さんは外に出る時は絶対と言って、私に買ってくださった日傘。

必需品になっていることは、言うまでもない。


しばらくじっとしていると、気分は大分楽になってきた。その間中もずっと、雫槻さんは私の背やら肩やらを摩ってくれていた。

深く息を吐いて、動き続ける雫槻さんの腕をそっと抑えた。


「もう、大丈夫です。雫槻さん」

「今日は寝ていた方が良くないですか」


雫槻さんのお小言に私はそっと身をすくめる。本当に、雫槻さんは父親のように過保護だ。無理やり寝床に戻そうとした手を、私は掴んだ。こんなに暑いのに、雫槻さんの手は冷たいまま。

それが気持ちよくて、私は雫槻さんの手を頬に持って行って唇の端を上げた。


「平気です。やること、たくさんありますし」

「…ですが」

「じゃあ、明日も何も変わらないようならお医者様に診てもらいます。それで、いいでしょう?」


半ば押し切るように雫槻さんを見上げると、雫槻さんは諦めたようにため息をついた。


「無理は」

「絶対しません」

「…それなら」



渋々、と言った感じでようやく首を縦に振ってくれる。私の勝ちだ。ふふ、と笑って私は布団から抜け出した。

一度、気分の悪さを切り抜けてしまえば、それほど普段の生活が苦になる訳でもない。私はさっさと着替えて、雫槻さんが着流しに袖を通すのを手伝って、朝餉の支度にとりかかった。


***


「ああ。そう言えば、母が今日ここに来るそうですよ」


朝餉の味噌汁を啜りながら、雫槻さんは今思い出したというようにぽそりと言った。その途端、握っていたしゃもじを取り落とす。


「え…ええっ!」


気持ちの悪さも吹っ飛んでしまうほどに私は驚いた。そんなこと一言も聞いていないと文句を言っても、言い忘れていたとけろりとされると、雫槻さんに弱い私はもう何も言えないのだ。卓袱台から身を乗り出した私を見て、雫槻さんは小首を傾げる。


「そんなに驚くほどのことですか?」

「え、だって!」


だって、というところで顔をひきつらせた。


「だって、お掃除まだきちんとできていません!お義母さまが来るなら、昼餉も召し上がるだろうし…ああ!お茶菓子も!」


ひとしきり慌てていると、雫槻さんはくすくすと笑って、落ち着きなさい、と言った。


「来るのは昼過ぎです。掃除もまだ間に合います。昼はあっちで食べてくるでしょう。食べざかりが何人もいますし」


私の疑問にいっぺんに答えた雫槻さんは、いつもと変わらずお茶碗のご飯粒を最後まで綺麗に食べ終えた。箸置きの上に箸を戻して、「御馳走様」と両手を合わせ、呑気にお茶をすすっている。


「そう緊張することもないでしょう?何度も会っているのに。母は狭衣さんのこと、とても気に入っていますよ」


雫槻さんの言いように、私はとりあえず落ち着こうと頷いてみる。けれど、雫槻さんには、妻にとって姑へのいつまで経っても存在する緊張感というものを理解できないだろう。

嫌われるようなことしてしまわないだろうか、とか。鬱陶しいと思われないだろうか、とか。もっといい印象を与えたい、とか。

いつの時代でも、嫁が姑に対して思うことだろう。私も決して例外ではない。

特に雫槻さんのお義母さまは小さい頃からよく見知っているから、余計に粗相をしないか不安なのだ。

お義母様は、母を亡くしてしまった私にとって、唯一「母」と呼べる人。雫槻さんの次に近しい「家族」だ。この時代二世帯で一つの家に住むことが慣例であるのに、長男の嫁にあたる私はそのならいから外れ、この小さな家に雫槻さんと二人きりで住んでいる。

義父母の世話も嫁の私の仕事の一つである。しかし、義父母は「こんな騒がしい家じゃあ狭衣さんも落ち着かないでしょう。もし私達に何かあったその時に助けてくれればいいから」と、自ら二人暮らしを勧めてくれたのだ。確かに雫槻さんのご実家は義祖父母に義父母、五人の弟妹と賑やかな家庭ではあるが。そんな厚意を示してくれたその人から好かれたいと思う私は、多分間違っていないはず。


――そうとなれば、自然と気合いが入って私は着物の袖をたすき掛けにして掃除に取りかかった。

日よけにと手拭いを頭に巻き、庭の掃除をして、廊下を雑巾がけして居間の埃も箒で払う。時折立ちくらみを起して休んでいると、「また無理をして」と覗きにきた雫槻さんに怒られた。

どうやら明日はついにお医者様に診てもらう羽目になりそうだと、私は掃除しながらそう思った。


午前中いっぱいかけて掃除をし終えると、もうそろそろ昼時になる。近くにお饅頭のおいしい小店があるから出かけようとしていると、さすがに雫槻さんに止められた。


「僕が買って来ますから。狭衣さんはじっとしてて下さい」


休んでいてください、ではなく、じっとしていてくださいと。柳眉を吊り上げてそう言うのだから、私は小さくなって頷くしかない。


「でも、雫槻さんお仕事が」

という抵抗も、

「締切までは大分あるから大丈夫です。もう、頼むから倒れたりしないで下さいよ」

といなされてしまった。残念だが今回は負けらしい。


私から巾着をかっさらうと、雫槻さんはさっさと下駄を履いて玄関を出て行ってしまった。そんな雫槻さんを私はぽかんと見送るしか出来なかった。

本当、どこまで過保護なんだろう。さすがにまだ妹として見ているとは私も思わないけれど。

お義母さまに笑われたりしないかしら。

仕方なく私は履いていた下駄を脱いで、昼餉の準備に取り掛かることにしたのだった。

二十分もしない内に雫槻さんは出来たての御饅頭を買って来てくれたのだけれど、どうしてか私はその御饅頭を進んで食べたいと思えず、小首を傾げたのだった。


そうこうしているうちに昼餉を食べ終えて片付けていると、ガラガラと玄関が開く音が聞こえてきた。


「こんにちはー」


私はその声を聞きつけるやいなや急いで立ち上がって、ぱたぱたと玄関まで走っていった。

後ろで雫槻さんが溜息をついているのは、もうこの際気にしないことにする。玄関まで行くと、とても四十代半ばを過ぎた女性とは思えない溌剌とした笑顔のお義母さまがいた。


「こんにちは、狭衣さん」


その横には、雫槻さんの五番目の妹――末っ子の深槻みつきちゃんもいる。今年八歳になる、とても可愛らしい女の子だ。私もこの子が赤ちゃんの時はよくお世話をしたものだ。


「お義母さま、深槻ちゃんも。暑い中ありがとうございます」


白いハンカチで深槻ちゃんの汗を拭っているお義母さまは私に笑いかけた。


「狭衣さん、お久しぶりね。もう、今年は特に暑いわ」


ね、と隣の深槻ちゃんに同意を求めるように目線を合わせた。けれど声は全く疲れていないのだから、やはりこの人はこの先歳をとっても元気で居続けるのだろうと、簡単に予想できる。その元気が半分でも今の私にあればいいのだが。


「さぁちゃん!!」


そして義妹となる深槻ちゃんは元気一杯に靴を脱ぎすてて、玄関から上がると私に抱きついてきた。おかっぱに切りそろえられた黒髪が動きに合わせて元気よく跳ねている。お出かけに合わせてか、今日は真白のブラウスにスカート。手にはお気に入りなのだろう、着物姿のお人形が握られていた。

私は膝をついて汗に濡れた深槻ちゃんの髪を撫でてやった。


「こんにちは、深槻ちゃん。暑かった?」

「んーん!みーちゃん、平気だよ!」


元気が有り余っているらしい。こんなに暑くても、けろりと平気そうな顔をしている。こちらにも元気を分けてほしいくらいだった。深槻ちゃんは、こら、とお義母さまに怒られるまで元気に飛び跳ねていた。

深槻ちゃんが生まれた時は、私もまだ十二歳かそこらで、よく抱かせてくれとせがんだものだ。一人っ子だった私に、櫻井家の大所帯は憧れでもあったのだ。そしてあんな小さかった深槻ちゃんも、もう抱き上げると重たい。すん、と小さい子特有の芳しい匂いをかいで、私は唇の端を上げた。


「もう、深槻ったらもう大きくなったのに、いまだに甘えん坊で困るわ」


ごめんなさいね、とお義母さまが言うので、私は慌てて首を振った。


「いいえ、いいんです。私、雫槻さんのご家族に好かれることは、とても嬉しいんです」


もう血の繋がった家族を失ってしまった私にとって。そうわざわざ口にせずとも、この目の前の人は分かってくれているらしい。私がそう言うと、お義母さまも嬉しそうに微笑んでくださった。


「――随分遅いと思ったら。玄関で立ち話ですか?」

「あ!なつにぃ!!」


後ろから雫槻さんが玄関に出てくると、深槻ちゃんは再びばたばたと暴れ出した。腕から降ろしてやると、一直線に今度は雫槻さんに抱きつきに行く。櫻井家の末っ子は皆に可愛がられているからか、少しばかり赤ちゃん気質が抜けないらしかった。それでも、太陽のような笑顔で私も含め周囲の大人は骨抜きにされている。

雫槻さんは久しぶりに会った妹が「抱っこ」とせがむのにほんの少し頬を緩ませて、お願い通りにひょいと抱き上げてやる。私と違って妹が何歳になろうとも、重さはあまり関係ないらしい。深槻ちゃんは目線が高くなったからか、余計にきゃっきゃとはしゃいでいる。


「あなたが中々こっちに顔出さないからよ。まったく」


積もる話もあるんだから、とお義母さまは眉根を寄せた。「その積もる話に付き合うと長いから…」という雫槻さんのぼやきは華麗に無視だ。そしてすぐに相好を崩して、私に笑いかける。


「今日はね、狭衣さんのために色々持って来たのよ」


お義母さまと深槻ちゃんを居間に通して、私は氷室で冷たく冷やしておいた麦茶をいれた。切り出した氷は今朝氷屋さんから買ったもの。高くて頻繁には買えないが、夏の贅沢だ。

「おいしー!」と言って深槻ちゃんが私の膝の上で飲み干すのを見届けると、お義母さまが口を開いた。


「狭衣さん、今年は特に暑いからきっと参ってるだろうと思ってね」


お義母さまが持って来た風呂敷から取り出したのは、種々の野菜だ。何が入っているのかと気になっていたが、中からは枝豆、青菜、胡瓜、大豆がごろごろとたくさん出てくる。その他に梅干しも。

およそ暑気あたりに良さそうな食べ物ばかりだ。

私が毎年夏に体調を崩すことは、ご近所だったお義母さまがよく知るところだったのだろう。隣で雫槻さんも次から次へと出てくる野菜に目を丸くしている。


「うちの畑で採れた新鮮なものばかりよ。胡瓜や枝豆なら食べやすいでしょう」

「こんなにたくさん…有難うございます…」


驚きで目を見開いていると、お義母さまは得意そうに笑った。


「うちの大事な娘さんですからね。健康でいてもらわなきゃ」


娘。その言葉に、つい目を丸くしてしまった。

お義母様はこう言ったのだ。嫁でもなく、息子の妻でもなく、娘と。父を、母を亡くした私に、優しい人はそう言った。


「あれー?さぁちゃん、お母さんの子どもなの?」


当然の疑問に深槻ちゃんが私を見上げてくる。私は何だか泣きそうになって、深槻ちゃんにも曖昧にしか笑えない。今出てくる声は、きっと涙声になってしまう。

そんな私を見て、雫槻さんはそっと背を撫でてくれた。お義母さまは、麦茶を飲んで深槻ちゃんに一言。


「そうよぉ。うちの家に入った人はみーんな、お母さんの子ども達よ!」


この人は、いつでも笑顔を絶やさない。辛いことがあっても、笑顔で前向きに生きている人。

だから、いつまで経っても若々しくて元気でいられるんだろう。だから、櫻井さんの家の子ども達は皆とても逞しく優しいのだろう。雫槻さんや深槻ちゃんだけではない。

他の兄妹たちも皆、個性豊かで、優しくて、元気で。私がずっと夢に思い描いていた、大きく温かな家族。私が欲しくて、憧れてたまらなかったもの。

私は小さい事にいちいちくよくよしてしまう性格だから、お義母さまを見習おうと過去に何度か雫槻さんにそう言ったこともある。雫槻さんは口元を引き攣らせながら、「狭衣さんは狭衣さんのままでいいんですよ」と励ましてくれたが。

私は、隣にいる雫槻さんとあんな家族を築けたらいいとずっと夢見ている。


「…有難うございます。これだけで私、元気になれます」


ようやく疲れが滲まない笑顔が出せたと思う。隣で雫槻さんが優しげに目を細めるのが分かった。


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