二
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母の四十九日の法要が終わる頃には、私の周囲はすっかり秋の装いになっていた。日に日に風が冷たくなり、日が落ちる時間が早くなり、庭の木々の葉も紅く色づいている。
母が亡くなってから、菩提寺の住職様への連絡やら、数少ない親族への電報やら、初七日その他の法要やらで目が回りそうなほど忙しかった。そもそも私がとりしきらなければならない家族の死はこれが初めてであり、雫槻さんと雫槻さんのご実家の助けがなければ乗り越えられなかっただろう。
お作法から香典返し、更にはお墓のことに至るまで、知識のない私は大家族を切り盛りする櫻井家に助けてもらって、何とか一連の行事を終えられたのだ。
全てが終わると、いつのまにか暦は霜月へと入っていた。
納骨まで終えた秋のある日。夕方になる前、縁側に座って洗濯ものを畳んでいた私に、一仕事終えていた雫槻さんはこう言った。
「狭衣さん。紅葉狩り、行きませんか」
「え、紅葉狩りですか」
「近所の裏山、覚えますか?小さい頃、よく狭衣さんと弟たちを連れて、行った山です」
そう言われて、「ああ」と合点が行く。
よく覚えている。あそこは、小さい頃から絶好の遊び場だった。
春には山桜、夏には虫とり、秋には紅葉、そして冬には寒椿。よく近所の子ども達みんなであそこに遊びに行っていた。学校が無い日は、それこそ一日中。
そんな時、夕暮れになれば母が迎えに来てくれた。夕御飯だと言って。
物思いから覚め、雫槻さんを見上げると優しい瞳をして私の頭をそっと撫でてくれた。途端にきゅう、と胸が苦しくなる。とても見続けられなくて、思わず目を伏せた。
雫槻さんはきっと知っているのだ。
私が母を想っても泣きはしないこと。涙が出ないのではなくて、出せないこと。
雫槻さんは、知っている。そして、私に「泣いてもいい」とは決して言わないのだ。ただひたすら、じっと見守っていてくれる。
けれど、雫槻さんは知っている。
私が、本当は泣きたいのだという事。
「あまり遅くなっては冷えてきてしまいますね」
早く行きましょうと、手を差し伸べてくれた。ちょっと今日の雫槻さんはせっかちなのかもしれない。まだお洗濯を全部畳みきっていないのに、早くと私の手を取るのだ。
でも、たまにはそんな日もいいのかもしれない。私は、ふふっと笑ってその手を握りしめた。
水仕事でカサついた肌を、雫槻さんも愛しむように握りしめてくれた。
ペンを握って、硬くなってしまった、その指で。
外に出ると、時折冷たい風がぴゅうっと肌に吹きつけられる。思わず首を竦めると、雫槻さんは自分がしていた襟巻を私に巻きつけてくれた。
「え、雫槻さんいいですよ。雫槻さんが風邪ひいてしまいます」
「まあ、これでも男ですから」
そう言って、私が返すことを許してくれないので、仕方なく私はそれを巻きなおす。私が結婚して最初の冬に縫った藍色の襟巻である。相も変わらずお裁縫は上達していない。
ところどころほつれが見えて、繕い直さないと、と思った。
あげたのは結婚した年の冬なのに、雫槻さんはほつれが出てしまうまで頻繁に、そして大事にこれを使ってくれる。そういうところも、いちいち私の胸を締め付ける。
母が亡くなった今、雫槻さんは私の一番近くにいる家族であり、旦那様であり、恋人でもある。私は、私に向けてくれる雫槻さんの笑顔が、何より大好きになっていた。
***
山道は、幼い頃思っていたよりも随分楽な行程だった。それは、きっと私が大きくなったからで、前に居る雫槻さんが手を引いてくれるからだ。木の根が飛び出た道があればそれを押さえつけ、着物の裾のせいで登れない段差があれば抱き上げてくれる。
小さな頃は泥だらけになりながら、顔に小さな傷を作って上った山道だったのに。おかげで私は何の苦もなく山道を登ることができた。
まるで雫槻さんは過保護な父親みたいだ。
でも無条件に与えられるその想いが恥ずかしくてくすぐったくて、私は黙って身を任せていた。
「ごめんなさい、重くないかしら」
「――妹と登ればさがしくもあらず」
「え?なんて?」
「古い歌ですよ――ああほら、見えてきました」
前を行く雫槻さんがそう言って、私も顔を上げた。
「…わ」
思わず感嘆の吐息を漏らす。そこには、真っ赤とはまだ言い難いけれど確かに色づく紅葉。群れてはいないけれど、ところどころにある紅葉が、景色の中に映える。
赤、橙、榛。風が吹けばはらりはらりと舞い落ちる。
「きれい…」
呟く私を見て、雫槻さんは私を木の方まで連れて行った。丁度その時風に吹かれて私の下まで落ちてくる落ち葉があった。手を出して受け止めると、小さな紅葉がカサリと手の中で鳴る。
そっと開けば、赤に染まるそれがちょこりと顔を出す。
その形は、まるで――
「赤子の、手のようですね」
「…え?」
すぐ横で声がかかって、私は目を上げた。私の手の中を覗きこんで、雫槻さんが言う。
「紅葉の葉とは、まるで赤子の掌のようですね」
私の掌をそっと冷たく固い指で包み込んで、愛おしむように撫ででくれる。水仕事でカサカサになってしまっても、綺麗な手だと言ってくれたこともある。一生懸命働いて、生きている人の手だと言って。
なんて出来た人なんだろう。私とたった五歳しか違わないのに、十歳も二十歳も上の大人の人に見えてしまう。そう思えば、自然涙が膨れ上がって来て一筋だけ私の頬を滑り落ちた。
あれだけ、泣けないと思っていたのに。すんなりと涙は私の心の淵から溢れだしてくる。
ようやく、雫槻さんが私に何を言いたいのか分かった気がした。この人は、きっと私が母の死を迎える前から言いたかったに違いない。
「甘えてもいいのだ」と。
「…おかあ、さんに…」
「――…」
「おかあさんに、みせたかった、のに…」
「ええ」
「――あかちゃんのかお、はやく、みせてあげたかった…!!」
頭が引き寄せられて、雫槻さんの首元に顔を埋めた。小さな赤ちゃんの手のような紅葉を握りしめたまま、ごめんなさい、とお母さんに謝った。
思えば、我儘ばかり言って育ってきた気がする。
あまりお手伝いもせずに、遊んでばかりだったり。いたずらをしてみたり。なんでお父さんはいなくなっちゃったのと、泣き叫んだり。
でも。
早くに父を亡くして、女手一つで私をお嫁にいけるまで育て上げてくれた。そんな母を亡くした実感が、今になって溢れ出る。荼毘に伏す時も、法要をする時も、納骨の時も泣けなかったのに。
病気だと分かった時、母の皮肉な自嘲に腹が立った時もあった。ある日突然、雫槻さんとの結婚話を持って来て、唖然とさせられた日もあった。でも、どんな時でも私の成長を一番傍で見て、笑ってくれていたのは、母だ。
たった一人の私の母だ。
孫の顔が早く見たいという彼女の願いを、叶えてやりたかった。でも、もうそれは手遅れで。もう、私の近くに母はいなくて。
「きっと、大丈夫ですよ」
「な、つき、さ…」
「いつか、きっと。その紅葉みたいに可愛らしい手をした赤子が、僕たちの下へ来てくれます」
涙が溢れる私の目頭に、柔らかい唇が降った。それは鼻筋に移って、頬にも触れてくる。
「そうしたら、またお父上とお母上に報告に行きましょう」
ああ、どうして。
また一つ、恋をする。私はどれだけこの人に恋をするのだろう。毎日毎日、この人をどんどん好きになって。私はどれほど恵まれているのだろう。知らない間にこんなにも大事に想われていたことを、泣きながら実感するなんて。
私は、父や母の命を知って、また新しい命も知っていくのだろう。まだ見ぬ、新しい命を。
雫槻さんは、嗚咽を漏らす私の頭を撫でながら「あんまり泣くと天国でゆっくりお休みになられませんよ。心配を掛けてしまいますよ」と、わざと声を明るくして言ってくれる。
懸命に目頭を擦りながら、私はもう涙を流さないように無理やり空を見上げてそれを止めて見せた。空にいる父と母に、安心してもらいたいのは私も一緒だ。
大丈夫だと、言いたかった。私は、心底幸せ者だと。私の横にいてくれるこの人と、一緒になれて、こんなにも幸せなのだ。
そう思うだけで、唇の端は上がる。私は、笑うことが出来ている。それは雫槻さんを好きになったからに他ならないのだ。
***
「そういえば、あの時、なんて言ったんです?」
「あの時?」
「山を登っている時です。雫槻さん、古い歌とか言っていましたよね」
「ああ。あれ」
夜道を辿りながら、雫槻さんはさらりと私の前髪を撫ぜた。山道を降りる時にどこかでつけてきてしまったのだろう、その手には小さな紅葉が。
「妹は、古語で妻や恋人。険しくもあらずは――まあ、言葉通りの意味です」
そこまで聞けば、いくら馬鹿な私でもだいたいの意味は分かる。雫槻さんは意地悪い笑みを浮かべて、真っ赤になる私に追い打ちをかけた。
「どんなに険しい山道でも、妻であるあなたと一緒に登れば、決して険しくはありません」
「……」
「僕は、あなたと一緒になって、いつもそう思いながら生きていますよ」
この先どんな険しい道が待ち受けていようと。
共にあろうと。
手を握れば、同じ力で握り返される。そういう存在に巡り合えたこともまた、幸いなのだと思いながら、私はついと顔を上げた。遠い空にいる父と母に決意を告げるかのように。
ふと、手の中に残る紅葉を見る。二人の関係が始まった時には、まさかこれ程この人への気持ちが育っていくとは思ってもみなかった。それこそ周囲に「子はまだか」と言われて、悔しくて、申し訳なくて涙が出るほどに。私はこの人に家族を与えてあげたい。そうやって焦ってしまう私を、雫槻さんはいつも穏やかに見守ってくれている。
『まだ十九歳でしょう。身体も心も出来上がっていないんです』
無理せずとも、大丈夫ですよ。きっと、その時になればやって来てくれる。先ほどもそう言ってくれた。雫槻さんは、まだもう少し二人でいたいとからかってまで(勿論わざとだ)、私の心を軽くしようとしてくれた。そんな言葉をくれる人に、私は何を返せるだろう。
出来ることなど限られている。大切に、手の中の紅葉を包みなおした。
私があなたに出来ることは、ただ傍にあること。
どんな時も笑っていること。もし雫槻さんが苦しくなる時が来たら、今度は私が支えてあげること。
そして、たくさんたくさん家族を増やしてあげたい。
その時が訪れるのは、もう少し先の話。