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櫻姫  作者:
昭和十二年
6/28


低い青空の中を、一筋の煙がたなびき、上へ上へと上っていく。暦の上では立秋もとうに過ぎているのに、汗ばむほどの陽気だった。

十月の温かい日和の、その日。


私の母は亡くなった。一筋の煙となって、空を上っていった。


***


「…狭衣。あなた、いくつになったんだっけねぇ」


障子を通して入り込む真昼の光をまぶしそうに見つめながら、母はそうぽつりとつぶやいた。寝台に伏す母は、落ち窪んだ瞳を私に向けた。手を動かすことすらやっとの状態で、私がその手を取って布団の中へ戻してやらねばならないほどに弱り切っていた。

あまりにも憔悴したその顔を見ていられなくて、私はわざと声を上げて元気に笑った。


「十九よ。もう、娘の年齢も忘れちゃったの?」

「十九…もう、そんなに大きくなったの」

「そうよ。もう子供ではないのよ。お嫁に行ってからは、もう二年も経ったわ」


早いわねぇと、小さな声でそう応える母に、ふふ、と僅かに唇の端を上げて見せた。私が笑えば、まだ母は目を見て笑ってくれる。どんなにやつれても、笑ってくれているから、私は少しだけ安心する。

濡れた手拭いで母の首筋を拭いてやり、桶に浸した。そっと母の手を布団の中に戻し、その胸元をとんとんと叩いてやる。

もう母は自分で立ち上がることも物を食べることもできなくなっており、この頃には自宅から離れた空気の綺麗な場所にある結核療養所で療養を余儀なくされていた。私は主婦業をこなしつつ汽車に乗って月に二・三度は療養所に通い、母の様子を看る日常だった。


「疲れた?もう少しだけ寝てて」

「いいえ…今日は…そうね、今日はとても気分がいいのよ」


だから、まだ平気よ。目元に皺を寄せて、久しぶりに落ち着いた表情を見せてくれる。私は皺の増えた母の顔を見ながら、笑顔を返す。逆光になって、泣きそうな笑顔だったことは、おそらく、ばれてはいなかっただろう。

実家のお店の方は、今年の春に店じまいをしていた。母の体調はいよいよ悪くなり、起き上がることもできない毎日に、とても商売どころではない。私ももう雫槻さんにお嫁に行った身だから、そう易々と店番も出来ない。最後まで店を閉めることを渋ったのは、もちろん母だ。


『いやよ。まだできる。あの人と約束したの。ここを守るって』


あのお店は、お父さんとの思い出の店なのだと言って。それを言われると、私はとても無理強いなどできなかった。でも、母の体調面を考慮するようにも雫槻さんに言われて、私が何とか説得した。


『私も店のことは本当に大切だけど、今のお母さんの方がもっと大切だわ』


その言葉に母はとうとう諦めた。寝かされた布団の端を握りしめ、悔しげに俯く姿を今でも覚えている。それから、もう既に半年経とうとしている。店を閉めてから、ぷつりと糸が切れたように母の体調は坂道を転がるように悪化していった。ついに今月からは寝たきりの状態になってしまった。

お風呂に入ることも、食事をすることも、起き上がることすら。私は出来うる限り母の元へ通い、こうして看病している。汽車賃も馬鹿にならないけれど、その出費は必要な出費だと旦那様が認めてくれた。雫槻さんが、そうしなさいと快く言ってくれたから、私は気兼ねなくここに来ることができる。

桶の水を変えて、ついでにマスクも付け替えようと思って立ち上がると、不意に母が呟いた。


「とうとう…孫の顔は見れなかったねぇ」


きっと、何気なくつぶやかれた一言。けれど、ついびくりとしてしまって、私はつい母の顔を凝視してしまった。

母も私を見ている。その瞳に映っているものは何なのか、もう既に私は分からなくなっている。

震える息を吐き出して、唇をついて出てきた言葉は謝罪だった。


「―…ごめん、なさい。ごめんなさい、お母さん」


俯く私に、母は緩く首を振った。かさかさした指先を、震える指先を、私に伸ばす。笑う顔は、本当に気分が良さそうで、心なしか顔色も良い。もうすぐ死期を迎える人の顔には、どうしても見えなかった。母が弱々しく手招きするので、それに従ってもう一度腰を枕辺落とした。


「違うのよ、責めてるんじゃないわ」

「…うん」

「ただ、天国あっちに行ったときに、お父さんに教えてあげたかった」

「おかあさん…」

「私の娘は素晴らしい人のもとに嫁いで、こんなに可愛らしい孫も生まれたって」


こういう時、私はとんでもない親不孝者だと思ってしまう。お母さんは、いつも言っていた。

孫の顔が早く見たいと。死ぬまでに、抱っこがしたい。

私も、その願いは叶えてやりたかった。でも、天からの授かりものは、自分では決められない。私自身、結婚してもう二年と半分経っていると言うのに、いまだに子を授からないことに悩むことは多い。

悩んだ私を掬い上げてくれたのは、当然雫槻さんだった。月のものが来てしょんぼり肩を落とす私を見て、優しい体温で包んでくれる。


『孫の顔を見せてやることも親孝行ですけど。子は、授かりもの。私たちの元に降りてくるのを、まだ待っているんですよ、きっと』


二十四歳になっている雫槻さんも、子を心待ちにしていることに変わりはない。なんせ、彼のご実家の義父母は、雫槻さんを十代の頃にもうけておられるのだ。雫槻さんの下には弟妹が五人もいて、彼自身赤子の世話は手慣れたもので子ども好きでもあった。

そんな雫槻さんは「気にするな。時機を待とう」と言ってくれている。それからは、力まずに日々を過ごしていられる。

母の願いは、いつかきちんと叶えられるとそう思うようにした。それを思い出して、私は母の手を握りしめる。


「見るんでしょ?」

「…さい」

「私たちの子どもの顔、見るんでしょう?」

「…ええ、そうね」

「じゃあ、まだ大丈夫だよ」

「――…」

「ちゃんと見て、お父さんに伝えて。自分の孫のこと」


涙ぐんで言う話じゃないかもしれない。結局、泣き笑いみたいになってしまった。未だきちんと笑えない、半分子どもの私。まだきちんとした大人になりきれてない私。

それでも、嬉しそうに母は笑ってくれた。

「そうね。ちゃんと見て、お父さんに教えてあげないと」とか細い声ながらも、目を輝かせていたのに。


その翌々日、母は息を引き取った。良く晴れた、秋の日よりだった。

お昼に療養所からの電報でそれを受け取った瞬間、目の前が真っ暗になった。

咄嗟に思ったことは「ああ、とうとう来てしまったか」という悲しみでも苦しみでもない、不思議なものだった。

けれど、涙は、どうしてだろうか。出なかった。


「…狭衣さん?」


玄関の三和土に座り込んだまま、紙を見つめて微動だにしない私を雫槻さんが見つけて呼びかけるまで、どのくらいの時間そうしていたのだろう。固く冷たい床板が私の尻を痛めつけるくらいの時間はそうしていたのかもしれない。でも、ほんの数分の時間なのかもしれない。間隔が分からないほどに茫然としていたことは確かだった。


「どうしんたんです、そんな所で――」

「母、が」

「え?」

「母が、逝ってしまったそう、です」


これが母を亡くした娘の声なのかというくらい、硬く冷たいものが出てきた。それに私が吃驚してしまい、思わず電報を取り落してしまった。カサリと紙が玄関に落ちる音の余韻が数秒。雫槻さんは目を細めて未だ動けない私の傍に来て、電報を拾い上げ、私よりも余程落ち着きなく何度も目を通して文を読み込んでいるようだった。

そこに書いてある言葉は変わりない。ただ冷淡に「オノダミツ ミメイニ シス」と記されているだけだ。私の母の死はたったそれだけの言葉でしか表されなかった。

五回は読み通したのであろう、雫槻さんもようやくそれが真実だと悟った。深く深く、肺腑から息を吐き出して、私の手を取り立ち上がらせた。


「行きますよ」

「え…?」

「何をぼんやりしているんですか。今から、病院へ行くのですよ」

「今から?」

「ええ。今から」


母上を引き取りに行かねばならないでしょう。きちんと荼毘に付す準備をしなければならないでしょう。

どこか上の空で雫槻さんを見上げていた私は、その言葉に初めて呼吸を思い出した。ひゅっと息を吸いこみ、じわりじわりと得体の知れない冷たさが私の胸を満たしていく。

「嫌だ」と咄嗟に思ってしまった私は親不孝な娘なのだろう。けれど、冷たくなった、血の通っていない、息をしていない母を見ることが怖くて堪らなかった。父が死んだ時は、確かに悲しかったけれどこんなにも怖いとは思わなかったのに。


そうだ、あの時は母がいた。これから家を、店を背負って立たなければならない母は気丈だった。その母に支えられて私は幼心に安心していた。

でも、あんなに気丈だった母は、あっという間に萎んで消えてしまった。血のつながった家族は、私一人になってしまった――


「狭衣さん」


ぴしゃりと両頬を叩かれる。はっとしてようやく目の焦点が合った。じっと雫槻さんは私を見続けていた。そして叱るように諭すように言い聞かせた。


「しっかりしてください。母上のたった一人の娘御でしょう、あなたは。母上は、今もあなたを待っていますよ。迎えに行って差し上げないのですか」

「…でも」

「大丈夫です。僕が一緒ですから」


家族でしょう、僕たちは。

そう言いながら抱きしめられた。力強く背中を擦られた瞬間、この人は全部見抜いているのだな、とそう感じた。雫槻さんは、きっと私が心に穴を空けて何も考えられなくなっていることも、本能的に肉親の死を拒否していることも見抜いている。

弱って尻込みする私を叱咤している。けれど、一人で耐えなくてもいいとも言ってくれているのだ。


家族となった彼がいる。

支えてくれる人が近くにいることを、忘れそうになっていた。


震える唇を噛みしめる。零れ落ちそうになる何かを必死に食い止めて、雫槻さんの肩を押した。

もう自失しないという決意を雫槻さんには見せておかなければならない。じっと彼の目を見つめ、噛みしめた唇を解いて「出る、準備をします」とだけ言った。

それをきちんと受け止めてくれることを、私は知っている。二年の間に雫槻さんとの間に生まれたものは、目に見えないものだけでもたくさんあるのだ。

私は彼を信頼している。そして雫槻さんも私の駄目なところを知った上で、こうして支えようとしてくれる。信頼してくれている。

私の頬を包んだまま数秒、雫槻さんは私を見つめた。


そして、安心したように口元を緩めて言った。


「そんな悲壮な顔をして迎えに行ったら母上が吃驚しますよ。やっと家に帰ることが出来るんです。『家に帰ろう』と、そう言ってあげたらいいんですよ」


***


急ぎ汽車の切符を買って来てくれた雫槻さんと共に、私は母を迎えに行った。秋の心地よい日和は、死した人を迎えに行くには少しばかり私にとって恨めしい。

そしてようやく療養所で見た母の顔は、吃驚するくらい穏やかで、今にも起き出すのではないかと私は思わず訝しんだ。

けれどその頬は冷たく、硬く組まれた指に触れて、ようやくもう母の身体に血は通わないのだと思い知る。この数か月で一気に老け込んでいたはずの母の顔は、死して逆に艶めいて見えた。

あんなに怖いと思っていたのに、私の胸はいやに静かに落ち着いていた。きっと近くで雫槻さんが見守ってくれていたからだろう。

十分すぎる最期の時間を共に、二人きりで過ごして、療養所近くの火葬場で荼毘に付してもらった。連れ帰る母は、小さな骨壺に収まった母だ。こんなに小さくなってしまった。

大切に大切にそれを抱える私の肩を、雫槻さんはずっと抱き寄せてくれていた。秋の夕暮れの色はとてつもなく赤く綺麗で、車窓からぼんやりと眺めながらこれからのことを考えた。

母の葬儀のことだとか、義父母や親戚筋に知らせることだとか、父が既に入っている墓のことだとか――

唯一の子であった私には、これからやらねばならないことが、山ほどある。

でも、山ほどあってよかったのかもしれない。


何かを懸命にこなしていなければ、気が抜ける。気が抜けた時が更に怖いのだと、この時の私は自ずと分かっていたのかも知れなかった。



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