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櫻姫  作者:
昭和十年
4/28

海の中を漂っている。不思議と息苦しさはなく、見上げると水面に映る陽光が深く水中まで届いていた。

これは夢だと分かると同時に、届く光に手を伸ばしてみた。手が届く瞬間、海の中の陽光はぱちんと弾けてあぶくになった。

――それがこの手に届くのは、もう少し先なのだとそう感じた。



***


目を覚ますと、目の前の障子戸は傾きかけた日差しに染められていた。夕暮れ前特有の、どこかの家で煮炊きをしている匂いがする。鼻の奥に良い出汁の香りを吸いこんでため息をつく。

目の前には、白い夜着から除く肌色がある。何度か瞬きをしながら目線を上げると、とがった顎と少し長い前髪に隠れた薄い瞼と、緩んだ眉間が見える。


「……あ」


眠っている雫槻さんを見て、急激に頬に熱が上った。彼の腕は私の背中に緩く回され、私の鼻先は温かい首元に押し付けられていた。雫槻さんの懐からは、当然だが彼の素肌の匂いがする。懐かしく、少しだけ汗の匂いも混じる、とても魅惑的なそれ。飯炊きの匂いは遠ざかり、雫槻さんの匂いに支配されると、先ほどまでの行為をまざまざと思い出す。


私を一人の女性として求めると言った雫槻さんに、嘘はなかった。恥ずかしげに押し隠す私の全てを優しく、けれど有無を言わせず押し開いて、熱い掌で組み伏せた。「待って」の言葉も、「嫌ですか?」の一言で封じられる。

「嫌」ではない。恥じらいを捨てきれないだけ。それを彼も分かっているのだろう、言葉なく首を振る私を安堵の目で見て、唇を重ねるのだ。

痛いかと言われると、確かに痛かった。だって初めての経験なのだから。けれどそれ以上に熱くて仕方なかった。雫槻さんの眼差しや掌や力強さが、やけに熱くて、死んでしまうのではないかと思った。実際死にはしないのだけれど、行為の終わりと同時に眠りこけてしまう程に疲れ果てていた。きっとそれは雫槻さんも同じなのだろう。

今は目の前で穏やかに寝息を立てている。


私は彼を起こさないようにそっと身を起こし、傍に散らかっている肌襦袢を引き寄せた。夕刻間近と言えど、まだ夜着を着たままでいるにはおかしな時間だった。

少しだけ身震いしながら襦袢を着て紐で縛る。無造作に置かれた単衣も拾い上げて袷を確認して――


「あれ、帯締め…」


母からもらった緋色の帯締め。今日確かに身に着けていて、雫槻さんが丁寧に解いていたそれが見当たらない。あれあれときょろきょろ辺りを見回していると、


「これですか」


と目の前に探し物が差し出された。いつの間に起き出したのだろう、雫槻さんも緩く単衣を纏い、後ろから私を抱きかかえるようにして帯締めを私の手に握らせた。


「…起きていたんですか」

「ええ」

「どこから見ていたんですか?」

「狭衣さんの綺麗な背中が襦袢に隠れるところから」


全く最初の方から、私の着替えは見られていたらしい。頬に血を上らせる私を横目に、雫槻さんは「やっぱり僕が結びましょう」と私から帯締めを取り上げて甲斐甲斐しく着替えの仕上げを行おうとする。下に弟妹が何人もいる雫槻さんは、手慣れているのか丁度良い力加減で帯締めを結んでくれた。


「と言ってももう夕餉の準備時ですね」

「…ええ、私たち、朝餉も昼餉も食べていませんよ」

「お腹、空きましたか」


その問いには、私のお腹が小さな音を立てて答えてくれた。今日は一体何度頬を赤くすればいいのだろう。その内憤死してしまうのかもしれない。

項垂れて身を小さくする私、静寂の空間に、巣に帰るカラスの鳴き声が木霊した。その瞬間、後ろからはくつくつと我慢ならないような押し殺した笑い声が聞こえてくる。


「…もう!雫槻さん、ひどい!」

「いや、すみません…」


謝りながらも笑いは収まらないようで、しばらく雫槻さんは後ろから私を抱きしめつつ、私の項に額を預けて声を殺して震えていた。恥ずかしさともちょっとした怒りとも似た感情をもてあまし、私は腰に回されている腕を冗談交じりに叩いてみせたりもした。

暫くそんなふざけ合いを掛けあいつつ、けれど次第に雫槻さんは無防備な私の項に噛り付き、時に優しく吸い付き、折角結んでくれた帯締めをまた解こうとしてしまう。


「な、つきさ…」

「はい」

「夕餉が…」

「うん、もう少し」


腹の虫は押さえておいてください。

そんな無茶な。その言葉は言えず仕舞いになった。優しいのに、雫槻さんはやっぱり優しくない。でも、私を扱う手つきはどんな繊細な硝子を触る時よりも慎重に感じた。私を大切にしたい思いと湧き出す欲とのせめぎ合い。そしてそれは、私の中にも或るのだ。

完全に帯は畳に逆戻りし、私も褥に逆戻りした。上から圧し掛かられるけれども、決して私に苦しいとは思わせない。唇を熱いそれで塞がれても、一緒だった。この人に大切に扱われて、熱く求められて、私は海に抱かれる心地になる。安心するのだ。

ちょっと前まで苦しくて喘いでいたことが嘘のようだった。深い懐に抱かれて初めて、私はその心地よさを知った。


これが、この人に堕ちているということなのか。


兄の様だと思っていた人が、男になって、夫になって、最初に感じていた戸惑いは徐々に薄まっていた。目の前の人が目を細めて笑うと、胸がどきどきした。優しくされると、そして意地悪くされても、この人から目が離せない。手を伸ばしたくなる。私に触れる雫槻さんの腕にすがり、指先は少しだけざらついた顎を辿る。

本物の恋がどんなものか分からない私が、この時自ずと実感したのだ。


この人と――雫槻さんと、一緒に居たいと。

出来れば、長い時間。


***


私が結婚したからと言って、日々はそう大きく変わるものでもなかった。実家を出た私は家業の商店を手伝うこともなくなり、週に3、4日母の様子を見に行ったり買い物に出かける以外は嫁ぎ先の家で黙々と家事をこなしている。

主人の雫槻さんは小説家であるため、一日のほとんどを書斎で過ごしている。筆が進んでいる時は声をかけても返事がないこともある。

今日も昼時になってもなかなか書斎から出て来なかったので、握り飯とお味噌汁をそっと部屋の入口近くに置いて辞してきたところだ。春の日和、柔らかい風が気持ちよさそうだったので、今日は縁側で食べようかと私も自分の昼餉をせっせと用意した。


この界隈は住宅が集まっているが比較的静かな地域である。家の周りには柴垣が張り巡らされているので、縁側で座ってのんびりすることも、大きな口を開けて握り飯にかぶりつくこともできるのである。午前に掃除と洗濯をして疲れたからか、大きな握り飯をあっという間に平らげて湯呑の番茶も飲み干してようやく一息つけた。

その時風にはためいて目に入ったのは、真白い敷布。今日、くみ上げた冷たい井戸水と強情な洗濯板で私が洗い上げたものだ。雫槻さんと祝言を挙げ、あの敷布の上に身を沈めてから十日程。昼間は書斎に籠りきりって万年筆で小説を書いている雫槻さんの指先は、夜になると私の頬を、肩を、胸元を辿る。

初夜の――正確に言えば初夜となるはずだった夜が明けた翌日だが――の熱さは、いまだに私の身を焦がし続けている。普段冷静にされているから、私は彼の熱さに戸惑うしかない。でも、戸惑いだけでは雫槻さんはもう止まらなかった。

私が怯えていないか、慎重に確かめて、そうでないと分かると安心したように微笑んで私に口づける。


そこまで思い出して、勝手に赤くなる頬を冷たい指先で押さえた。真昼間に何てことを思い出しているのか。私は痴女ではないはずだ。夏はまだ遠いのに、かっかと火照り気味になり手で顔を仰いでいると、不意に戸口の木戸がかたりと鳴る音がした。自然と目がそちらに行く。

縁側と庭、そして戸口は一直線で繋がっている。木戸を押しあけて入って来た人を見て、私は素早く立ち上がった。


「…こんにちは、お久しぶりです」


帽子を取って軽く会釈をした男性。


「紀江さん…」


その人は、つい先日の祝言の席で、下座から私に鋭い視線を送ってきた、その人であった。


***


閉じられた障子戸の前で膝をつく。ふっと一回息を吐き出してから、私は声をかけた。


「…雫槻さん?」


すぐに、戸の向こうから「はい」という返事が返ってきた。すっと戸を横に滑らすと、部屋の中に居る雫槻さんは、小休止なのか左手に湯呑を持っていた。

文机の上には書きかけの原稿用紙、畳の上には反古にした原稿用紙が散らばっている。その光景が目に入ると同時にインクの匂いがツンと鼻を衝く。

それは、優しい雫槻さんの匂いでもあると、十日程共に過ごした私の中に定着しつつあった。


「――狭衣さん?」


何も言わない私を怪訝に思ったのか、雫槻さんは首をかしげて私を見つめた。

はっとして口を開く。


「…あの。少し出かけてきたいのですが、大丈夫ですか」

「ああ。買い物ですか?」

「え、ええ。そうです。あと、母の様子を少し」


そう言うと、心得たというように雫槻さんは頷いた。


「僕は大丈夫ですよ。今日詰めてしまう予定でしたし」


きっと夜中までかかってしまうでしょうね、と。窓から優しい光が差し込んで、柔らかく雫槻さんを彩っている。儚くて、優しくて、私は目を細めた。


「気兼ねせずに。気をつけて行ってきなさい」


優しく、そう言ってくれる。途端に罪悪感に駆られて、私は思わず俯いてしまった。けれど、雫槻さんがおかしく思ってしまうからまたすぐに顔を上げた。


「―すぐ。すぐに戻りますから」


待っていてください。言葉には出さなかったけれど、どうしてだか、雫槻さんには通じているような気がした。

きゅっと拳を握り締めて、真っ直ぐ雫槻さんを見つめる、そんな私に、雫槻さんはただただ優しく「いってらっしゃい」と声をかけてくれた。

買い物に行くと言い出した手前、お財布を持って出ないとおかしい。私は戸棚から巾着袋を取り出して、玄関に向かった。下駄に履き替え、玄関の戸を横に滑らす。


「…お待たせいたしました」



玄関の外に立っていたのは白い長袖のシャツに、くすんだ茶色のズボン、頭には帽子を被った紀江さんだ。振り向いた顔つきは、年頃の青年らしく精悍なものだった。私が声をかけると、その人は首を緩く振る。


「行きましょうか。すぐそこまででいいんです」


雫槻さんよりかは幾分高い声音でそう言ってくる。震える唇を噛みしめ、私は頷いた。


五月の頭と言えど、もう空気は初夏のようだった。近くの河原まで出てくると、桜並木はすっかり葉桜になっているのが分かる。時折風が吹けば、ひらひらと散り残った桜が地面に舞い降りてくる。私はそれをぼぅっと見つめながら、前を行く紀江さんに着き従った。何か話そうと口を開くけれども、出てくるのは言いようもないため息ばかりだ。

結局口を開いたのは 、紀江さんの方からだった。


「こうして出かけるのは、初めてかもしれませんね」


前を向いたまま、紀江さんは小さくそう呟いた。伏せていた目を上げると、自身を嘲笑うかのような笑顔がこちらを向いている。その表情は私がよく見知っているこの人の笑顔ではないと思い知らされた。そんな表情をさせているのは私自身だという自覚は勿論ある。

あの頃からもう随分時が経ってしまったと、そっと唇を噛んだ。本当はもっと早くにこの人と話しておかなければならなかったのだ。


「店で…うちの店ばかりでしたから…お会いするのは」

「そうですね」


豊かな川の流れの水際まで降りて行って、紀江さんはそこに腰を下ろした。私に横に来るように勧めてきたけれど、私は首を横に振ることでそれに答えた。どうして嫁いでしまった身でそんなことができるだろう。

暫く、辺りを沈黙が満たした。息苦しさに、少し身じろぎする。風が吹けば、爽やかな五月の匂いがして、まるで雫槻さんが傍に居てくれるみたいだった。


「…あなたに言いたいことは、たくさんあります」

「…はい」


先に言葉を発したのは、紀江さんの方だった。前を向いたまま、あの人よりかは低くない声で唐突に話し始める。


「何故、何も言わずに結婚してしまったのかとか、僕の気持ちを考えたのかとか、それよりもどうして僕はもっと早くに動かなかったのだろうとかー」

「…き、紀江さん…!」

「―あなたを、今でも好きだとか」


その言葉にひゅっと喉が鳴った。落ち着いた、けれども焔をたたえた切れ長の目が私を捉える。何も言えなくて、胸が苦しくて、でもこれは私が負うべき苦しみだと拳を握る。


「…今、あなたに幸せですかと問うのは、野暮ですか」


近づく気配に、私は薄く張った涙をこらえ、一歩紀江さんが近づく毎に、私は後ずさった。縮まらない距離に苛立ったように、紀江さんは一気に間をつめて、私の腕を取った。


「…紀江さん…!」

「放せと言うんですか?」


私が困ったように眉を顰めると、更に腕を強く握りしめる。


「無理です。狭衣さん。僕は…」

「駄目です!やめてください」


無謀な非力で紀江さんの腕を押す。この人の力は予想していた通り、堅い。雫槻さんの身体なんて、初めて閨を共にするまで、想像すら出来なかったのに。

彼は容赦なかった。なおも私を引き寄せようとする力にとうとう強く抗い、叫んだ。


「…私は、あの人の妻なのです!もう契を交わしたのです!あの人の傍に―いると、決めたんです!私は…」


びくり、と紀江さんの手の力が弱くなったのを見計らって、私は逃れた。ひりひりする手首を押えて、うつむき――けれどすぐに目をあげる。逸らしてはいけないと、そう思った。


「ごめんなさい…謝っても、謝りきれぬこと、存じています。紀江さんは、本当に優しくして下さって――私も母もどれ程救われたか分りません」

「なら…どうして」

「でも…本当にごめんなさい。私は、今自分にとってなくてはならないものが、よく分かっています。最初は、確かに私の意に沿ったものではありませんでした…。けれど、あの人は決して無理強いはしないんです。いつもいつも自分のことは後回しで。私を不幸にしたいわけではないからと…」


乾いている唇を湿して震えを押し留めた。そうだ、私ももうただの少女ではなくなってしまった。無垢な生娘ではない。

妻なのだ。雫槻さんの、妻となった。他の何でもない、私はもう既にあの人のもの。


「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。こんな私を好いて下さって。でも、応えかねます…私は」


どんなに酷なことをしているかは、自分でもよく分かっている。けれど、これは代償なのだと思う。この痛みの何十倍も酷いものを、きっと紀江さんは抱えている。


「私は、私なりのやり方であの人を愛していきたい…」


暫く重い沈黙が辺りを飲み込んでいた。時折視界を舞う桜の花びら以外動くものもない。それを破ったのは、紀江さんのため息だった。びくりとして目を上げると、またしても自嘲するような彼がいる。かつて、私を真剣に見つめてくれていた瞳。


「…こんなに短い間にも…女性は、美しくなるものなんですね」

「…あ…」


紀江さんは脱いでいた帽子をかぶり直した。その表情はここからはどうしたって見えない。踵を返す姿を黙って見ていた。何か言おうともしたが、これ以上言えることは何もないと気づく。


「本当に…あなたのことを好きだったんですよ。僕の気持ちがついに通じることはなかったですけれど」


だから、どうぞお幸せに、と聞こえるか聞こえないかくらいの声が私に届く。


「幸せになっていただかないと、僕に未練が残りますから」


それだけ言葉を残して、紀江さんは一歩一歩遠ざかっていく。私は、その後ろ姿に深く深く頭を下げて見送った。かなり長い時間、そうしていた。視界の端で、葉桜が揺れている。

思い出すのは、彼と初めて会った時のこと。想いを告げられた時のこと。

そしてー馬鹿みたいに、雫槻さんの名ばかり心の中で呼んでいた。


***


紀江さんは、師範学校に通っていらっしゃる、私よりも七つ年上の学生さんだ。私の実家の商店は、いわゆる何でも屋で、紀江さんは二年ほど前から勉強に使うノートや鉛筆などをよく買い求めて下さった。時折、ご実家の日用品の買い物にもうちの店を愛顧してくれた。

だから、店番だった私と自然に面識は出来ていった。十四・五歳の頃と言えば、雫槻さんが隣町で一人暮らしを始めた頃で、私の周りにいる男性は必然的に紀江さん位だった。師範学校に行くくらい頭が良かった紀江さんの話は、新たな発見に満ちていて、とても楽しかった。それに何かと母子二人きりの暮らしをしてる私たちを気にかけてくださった。

優しい人。学制帽がよく似合って、笑うとちらりと見える八重歯が印象的な人だった。雫槻さんとの婚姻の話さえ持ち上がらなかったら、私はきっと紀江さんを好きになっていただろう。

―そう、紀江さんから想いを告げられた時に。


『―僕は、狭衣さんのことを好きなんだけれど、お母上に承諾を頂けるでしょうか』


突然、そう言われたのは昨年の初冬だった。いつものように、鉛筆ひと箱とついでに牛乳ひとビンを買って下さった時に。買い物か何かのついでのように言うものだから、一瞬なにかの聞き間違えかと思ってしまった。けれど、その顔は緊張して真っ赤になっていて。

私はぽかんとしてしまって、『あ、』やら『え、』やら意味のわからない言葉ばかり紡いだ結果、一度聞いてみますという何とも間抜けた返事をしてしまった。

恋のいろはもよく分らずに、この人を好きになるのかという自覚すらも芽生えていなかった。それでも、何かが始まりそうな予感に心が震えなかったと言えば嘘になる。

しかし。その半月後、私の祝言が決まってしまった。雫槻さんと夫婦になるという約束。紀江さんとのことは、結局母に言いだすことが出来なかった。そして、あろうことか母は祝言の席に紀江さんを招いてしまった。

下座から送られる紀江さんの痛い視線に、私はひたすら耐えていた。本来なら、きちんと私の口からお断りを何よりもまずしておくべきだったのに。

紀江さんは、師範学校を出ると、そのまま支那(中国)へ渡るとおっしゃっていた。前途洋々の方に私なんかは似合わない、と告白を受けた後ずっとそう考えていたのも確かだ。けれど、そんなことは紀江さんにとっては言い逃れにしか聞こえないのだろう。

だから私は最低なのだ。

人ひとりの気持ちを踏みにじっておいて、自分は今の幸せを掴もうとしている。合わす顔がないと、ずっとそう思っていた。まさか、紀江さん自ら会いに来られるなんて夢にも思わなかった。


***


随分長い間、河原に座り込んでその水の流れを眺めていた。いつの間にか日は傾いて、水面を朱色に染め上げている。


「――冷えますよ」


ばさりと肩に羽織が掛けられて初めて、もう夕暮れなのだということに気付いた。はっとして顔を上げ振り向くと、後ろから雫槻さんが優しい瞳で私を覗きこんでいる。


「もう皐月といっても、この時間は日が暮れればまだ寒いでしょう?」


目が合うと、ふと笑みをこぼして私の頬を指先で撫でた。ずっと筆をとっていたからだろうか、心なしか少し硬い。私は、その指先をきゅっと握りしめた。雫槻さんの指も、どうしてだろう、心なしか冷たいような気がした。


「ごめんなさい…お夕飯…」

「大丈夫ですよ。今日は疲れたでしょうから、多少は遅くなってもかまいません」


はっとなって、私はゆっくりと身を起こした。雫槻さんの顔を探るけれど、落ち着き払っていて陰の一つも見当たらない。

ふいに泣きたくなってしまった。でも、泣いて迷惑をかけるのも、自己嫌悪に囚われたままでいるのも、もう嫌だったから、眉間に力を入れて耐えた。自分でも嫌になる位つくづく私は卑怯な女だ。だから、誤魔化すように早口で言い募る。


「雫槻さん」

「はい、何ですか」

「…お夕飯、何がいいですか」


薄暮が迫り、辺りはどんどん暗くなる。そろそろ灯りをつける時間。そんな中、私は闇の中に隠れつつある雫槻さんを見つめたまま尋ねた。


「お夕飯、ですか」

「はい、お夕飯です」


ふむ、と考え込むように雫槻さんは顎をさすった。伏せた目が、なぜだかとても真摯で、訳もなく戸惑ってしまう。自分の夫であるのに。


「決まりましたか」


目が合ったので答えを聞いた。雫槻さんはついと小首を傾げて、目線を上げる。そして、唇の端に微笑が灯るのを認めた。


「…狭衣さんの、お味噌汁がいいですね」

「え?」

「好きなんです。狭衣さんの作るお味噌汁。出汁が美味しくて。いいでしょう?」

「え、ええ…でも」


もっと何かあるだろう。私は味噌汁しか作れないわけでもない。煮物とか、和え物とか――


「おかずは僕が作りましょう。丁度、お隣からもらった大根があったはずです。だから――」


一緒に夕飯を作りましょう。実を言うと、狭衣さんに包丁を持たせるのは肝が冷えるんです。見ていないと不安で。いつ指を切り落とすのだろうと。だからあなたは、お味噌汁。

ずっとずっと変わらない優しい声と笑顔でそう言う。ここは、私が怒ってもいいはずの場面だ。

包丁くらい一人で扱えます。もう一人前でもいい年ごろなのだから、と。

けれど、零れたのは笑みだった。自分でもよく分らない内にくすくすと笑っていた。手で口元を隠しながら、なかなか収まらないそれと戦う。心の中に広がっているのは途方もない安堵だった。


「ええ…ええ、そうですね。作りましょう、一緒に。その方が早いですものね」


下腹部がひくひくするのを押えて、そう言った。

雫槻さん、実はご飯もまだ炊けていないんです。ごめんなさい、駄目な妻で。ごめんなさい、ふらふらとしてしまって。かなり遅めの夕食になってしまいますね。ずっとお仕事をしていて、お腹が空いているでしょうから早くしましょうね。二人で、一緒に。

雫槻さんは、私のくすくす笑いを収めるように、私を抱きしめた。雫槻さんと結婚出来た私は幸せ者だと思った。自分の中に幸せと悔恨はまだせめぎ合っているけれど。

でも、私はこの人を好きになって、心底、愛したいとこの時初めてそう思えた。この人が愛おしいと。

十七の春だった。雫槻さんと結婚して、ここから恋を知らなかった私の恋路は始まったのだった。

この瞬間から、二人の生が尽きるまでの、長い長い恋路。そう、正にこれは何よりも代えがたい恋だったのだ。きっと、一生変わることのないもの。


私と雫槻さんは手を取り合って、夕暮れの家路を辿った。

私の作った味噌汁を嬉しそうに飲んでいる旦那様を見て、またひとつ好きが増えたのだった。


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