二
ふっと目が覚めると、一面が光に包まれていた。薄い暗闇から一気に迫るまぶしさに、私は眉根を寄せて目を眇める。柔らかい春の日差しが障子を通して部屋に降り注いでいる。
清々しい、春の朝だ。
――そう、朝。
「……寝坊…!!」
がばりと身を起こすと、夜には分からなかった寝室の様子がよく分かる。懐かしい匂いのする襖、少し色あせた畳。朝日を受ける鏡台は、嫁入り道具として母が持たせてくれたものだ。
ふと見下ろせば、何ということだろう、私は風呂にも入らず単衣姿のまま寝入っていたらしい。花嫁衣裳を脱いで気楽な着物だったとはいえ、おろしたての古着でなく新品のそれがしわくちゃだった。
ちなみに隣はもぬけのからだった。
どうしよう、と思いつつも素早く別の着物に着替え、蒲団を上げる。まさかしわくちゃの着物のまま、誰かの前に出れる訳があるまい。
そして障子を開け放って空気の入れ替えをして、急いで台所へと向かう。
居間を抜けて、土間へと続く木戸を開けると、そこには藍染の着流しを着た雫槻さんが――
襷掛けをして包丁片手に菜っ葉を刻んでいるところだった。
釜は、しゅんしゅんと白い湯気を蒸かしている。
「やだ、雫槻さん、ごめんなさい…!」
私の悲鳴のような声に、雫槻さんが振り向いた。安心させるように微笑んで、「お早うございます」と言う。
「よく、眠られていたようですから」
「そんな…起してくださったら良かったのに」
たっぷりと睡眠をむさぼった私とは正反対に、雫槻さんは少し顔色が悪いようだ。途中生あくびまで漏らしながらも私に微笑んでみせる。はて、と小首を傾げたが、そんな悠長な考えをしている暇もない。私は急いで下したままの髪の毛を三つ編みにして、土間に下りた。雫槻さんと交代して、包丁を無理やり奪って持つ。かわりに、雫槻さんが釜を見てくれる。
時折竹筒で空気を送りつつ、手が空けば桶に手漕ぎポンプで水まで汲んでくれる。
私は母と二人暮らしだったため、自然と台所に立つことも多かった。それと比べても雫槻さんの動作は無駄がない。
――と、そう言い訳をしても。
結婚した最初の朝の日に、旦那様に家事をさせるなんて、最悪だ。嫁失格どころか、これは女としてどうなのだろうと思いながら、刻んだ菜を鍋に入れた。こんな調子で大丈夫だろうかと、ふと桶の中の水面を見つめた。
そこに映るのは、頼りなく眉を下げた私の顔。醜くゆがむ様を見たくなくて、ふいと目をそらした。
私たちの新居となったこの家は、最近になって雫槻さんが一人で住んでいた一軒家だ。実家からは一つ町を隔てていて、場所は知っていても中に入ったことは勿論一度もなかった。
雫槻さんの職業は小説家だ。私が解すのには少々難がある、物語を書いていらっしゃる。そんな仕事柄、十人の大家族が住まうご実家では、なかなか作業も進まなかったのだろう。
二年ほど前、渋るお義父様とお義母様を説得して、ここへ移られたのだ。そこへ、私が嫁として転がり込んだ。出来るだけ早く、朗報を持ってこいという母の言葉を持って。
先が長くない母の為に。
私は朝餉を作る手を止めてぼんやりと物思いにふけった。
――昨夜。
昨夜は属に言う、夫婦二人で初めて過ごす初夜だった。初めて、契りを交わすはずだった夜。けれど、私は風呂に入る機会を逸して、更にうやむやのうちに拒んでしまった。絶対あってはならないことなのに。雫槻さんは、私に怒っていいはずだった。
怒らずとも、もっと表情や態度に不快な気持ちが出てもいいはずなのに。
けれど、雫槻さんは何も言わずに私の上から退いて、泣きそうな私を抱きしめてくれた。優しい掌は凝り固まった私を慰めてくれた。そして、あろうことか、私はそれに甘えて眠りこけてしまったのだ。あまつさえ朝餉の用意までさせて。
それでも雫槻さんは怒らない。亭主関白で、すぐに怒っていた私の父とは大違いだ。雫槻さんは、優しすぎるのだ。そんな雫槻さんに応えられるような、きちんとした大人になりたいのに、私はまだまだ幼い。
そして、思い知ってしまうのだ。
私は我がままを通してしまう、ただの子どものまま。
「――どうしたんです、手を切ったんですか?!」
ふと、視界が波のように揺れて、その途端大きな声が耳を突いた。慌てふためく雫槻さんが、涙の膜の外に見える。ぼんやりと、そのまま涙が零れて、私の頬を崩れ落ちる。生温かく、しょっぱい水が唇の端まで流れ着いた。
私はゆるゆると首を振った。それしかできなかった。手は固まったまま、包丁を握りしめている。
不意にその手が、ぬくもりに包まれた。昨夜、私を撫でてくれた掌。そのぬくもりが、一本、一本と固くなった指を解いていって、私の手から包丁を取り外した。
温かい、雫槻さんの手も少しだけ震えながら私に触れる。今まで火の傍にいたせいか、少し汗ばんでいた。
「狭衣さん」
意外と近くで響いた雫槻さんの声に、私は驚いたけれど、少しも動けなかった。
動いてはいけないような気がした。包丁という凶器を離した私の手を、雫槻さんは握ったまま引き寄せる。おでこがことりと雫槻さんの肩についた。
涙を止めることが出来ない。私は何を泣いているのだろう。己の不甲斐なさか、それとも固めたはずの覚悟が全く役に立っていないことか。後悔はないと思っていたのに、実はずっと胸の奥に解決していない蟠りがあったのかもしれない。
嗚咽もなく、静かに涙をこぼす私を、雫槻さんは抱きしめた。簡素だが、しっかりとした布地の着物がわたしのそれで濡れる。申し訳ないと思うけれども、私はやっぱり動けなかった。
「…狭衣さん」
困ったような、慌てたような。私の名を噛みしめるように呼ぶ彼の声が優しい。
それでも雫槻さんは落ち着いている。けれど、その後をついて出た雫槻さんの言葉に、私は心の臓まで凍りついた。
「実家に、お帰りなさい」
「……え?」
「ひどく乱暴に扱われた、と。まだ十七歳のあなたなら、あるいは家に帰ることを許されるかもしれない」
「…でも、そんな…」
この時代、嫁いだ女が新婚翌日に実家に出戻るなど聞いたこともない。
まつ毛を震わせて瞬く私に、雫槻さんの残酷ともいえる言葉が注がれた。
「それが無理なら、寝室を分けるだけでもした方がいい。僕は…あなたを泣かせてまで、無理強いはできませんから」
く、とのどが詰まった。
雫槻さんは、恐らく分かっている。私がこの婚姻に未だ戸惑ったままで、なおかつ男の人と――雫槻さんと触れ合うことに怯えていることを。恋すらしたことがなかった私が、男の人を急に目の前にして、怯えていることを。
息ができない。思わず、彼の着流しの袂を掴んだ。目を見開いて固まる私に、雫槻さんは頭を撫で続けている。
「辛かったでしょう」
「……っ」
「僕は、まだ何も分かっておらずに神酒を飲むあなたを見て、とても辛かった。無垢なあなたを傷つけて、泣かせてしまう事が何より怖い」
「なつき、さ…」
「言ったでしょう?僕は、この結婚に嫌悪はありませんよ。あなたが、大切ですから。だから…」
泣かせたくないんです。
あなたがそんな思いまでして、一緒にいる必要はないんです。
そう、とても静かな声で雫槻さんは言った。そんなことを平気そうに言って、私から離れようとする。僕は大丈夫だからと。私を泣かせたくないからと。大切だからと。
けれど私も同時に分かってしまった。私の肩に回る雫槻さんの手もまだ震えている。私の耳の近くにある雫槻さんの心臓は早駆けした後のように鐘を打っている。ちらりと見えた、彼が唇を噛みしめる姿。
だからだろうか。するり、と手からぬくもりが抜け落ちた瞬間、私は叫んでいた。
「…や、…いやです…!!」
縋る様にぬくもりを追う。私の頭を撫でてくれた、手を握ってくれたぬくもり。胸の中に飛び込んだ私を、雫槻さんは危なげもなく受け止めた。
昨夜も感じた、とてもしっかりとした胸だ。ざらついた袂に、更に涙でぬれた頬を押しつける。自分からこんなことをするのはもちろん初めてで、はしたないとか、恥ずかしいとか思う自分もいるけれど、それでも今この手を放してはいけないと思った。
今、この手を放すと今まで以上に後悔する。怯えて身体を預ける以上に悔いることになると、自然にそう思ったのだ。手を放しては駄目だ。私は唇を噛んで沈黙をやり過ごした。
その静けさが痛いけれど、雫槻さんは何も言わなかった。
昨日のように、先ほどのようには、抱きしめてはくれない。困っているような気配が、ひたひたと私の胸の内を侵していく。
けれど、わたしはそれを甘んじて受けなければならないのだ。私は、まだ何も分かっていない甘えたの子供で、そのせいで雫槻さんを困らせて、そしてその上優しさに甘えようとしている。私が雫槻さんと祝言を挙げたときにはもう、受け身でいる時期はとうに終わっていたのだ。
私は、本当に大人にならなければならない。きちんとした、大人に。だから雫槻さんの優しさに甘えて、実家に帰ったり、部屋を分けたりするとを受け入れてはならないのだ。
恐る恐る、もう既に夫である人の背に手を回した。きゅっと着物を掴んで、震えを止めようと力を入れた。
怖がるな。何が原因かも分からない怖いという感情を、表に出しては駄目だ。
―突き放されてしまうことを思えば、そんなもの。
「…ご、めんなさい。私、弱くて、何も考えていなくて。あなたに嫁ぐこと、本当に嫌だなんて思っていません。確かに、雫槻さんは私の兄のようで、あの、旦那様になるなんて考えてもみませんでした。私は…まだまだ子供で。何も分かっていなくて。雫槻さんを困らせて、妻らしくなんて、ちっともなれなくて…」
一気にしゃべると、力が抜けてくる。けれど、嗚咽を押し込んで私は喋り続けた。
「…ごめんなさい、私、本当にどうしようもない甘えたの子供ですけれど、それでも家には帰りません。帰りたくありません。私は、後悔なんて―」
絶対にしません。口から声となって出る前だった。
「狭衣さん」
言い切る前に、そっと抱え込まれた。無反応だった手が、抱きしめ返す感触。途端、息が吹き返る心地がした。
――ああ。
安堵がどっと押し寄せて、私はようやくその胸に身を委ねることができた。ただ、雫槻さんの腕の力は、もう兄のようなものとは言えなかった。背に触れている腕が、うなじに触れている指先が、そして額の生え際にかかると息が、熱い。
そうして、額に口づけられていることに気づく。あ、と思った瞬間には、それは涙の残る眦に、鼻先に、頬に落とされたいた。
「狭衣さん」
何度も名を呼ばれる。私が一等大切だとも言いたげに、名を呼ばれる度に抱き寄せる力が強くなる。その場に私を縛りつけようとする声だった。
「…は、い…」
力無い返事しかできない。全てが囚われるような感覚。それに、酔う。
ああ、私の目の前にいる人は大人の男の人で。私の夫、なのだ。婚姻の儀式では全くなかった実感が、この時初めて私の身の内を満たした。
「…多分、僕はもう止まれません。兄にもなれません。あなたを―一人の女性として、妻として求めても…いいのですか」
きっと、これが最後なのだろう。私が迷うのは、もう最後。きっとこれから始まる第二の人生の中で、私はこの人以外目に入らないのだろう。そして、真摯に問うてくる瞳に、私は「是」という答えしか持っていない。先ほどまであったはずの蟠りは、彼の名を呼ぶ声で簡単に解け去ってしまった。
「はい」
今度は、はっきりそう口にした。その瞬間熱い何かが唇に触れる。
編み上げた三つ編みが、解かれる感触。その心地よさに、私は自ら身を委ねた。昨夜抱えた不安は皮肉なことにこれっぽっちも残っていなかった。
そこからの記憶は、ひどく曖昧になった。
初めてのくちづけに翻弄されて、頭の中がくらくらしたかと思えば男の人の力で抱え上げられ、布団を上げたはずの閨に逆戻りしてしまったことは覚えている。
おぼろげにも「窯の火が…」と口に出すと、いつもは穏やかな雫槻さんが珍しく眉根を寄せて舌打ちした姿も。
私を丁寧に下して足音を荒げて土間に戻って数分、すぐに戻ってきた雫槻さんはまた私を抱え上げて今度こそ彼の本懐を遂げたのであった。




