秋穂の空 二
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僕は学校帰りに行きつけの本屋に寄って、きょう発表されたばかりの文芸誌を手に取った。店で馴染みのおじさんは「ここで読まなくても家にあるんじゃないか?」と言う。自称反抗期中の僕には素直に父さんに向かって見せてほしいと言う勇気はない。照れくさいのもそうだが、感想を求められるのも嫌だ。
おじさんの質問は無視して、分厚い雑誌を手に取った。
父さんは執筆名を「櫻井夏樹」としている。その明朝体が堂々と表紙にに載っていた。
ということは、巻頭。これまでにない破格の扱いだ。僕はごくりと息をのみこんで、最初のページをめくった。父さんが、思い悩み、筆が進まなかった、あの頃の話だ。
――『とある獄中』と名付けられたそれは、兵役生活を獄中になぞらえて進められるものだった。
『――その昔、中国は支那と呼ばれ、決着のつかなかった日中戦争の只中に僕は放り込まれた。今だから言えることだが、日本軍は無意味な虐殺や演習を繰り返し、ともすれば人を殺すことも、隣人が殺されることも、僕の中では普通になりつつあった。今でもそのことを思い出すと、全身に怖気が走る――』
限界の状況で、現実に踏みとどまれたのは、妻の手紙と家族の写真だったとその中では語られている。妻が伝える愛娘の成長、新しく育まれた命のこと、微笑む写真。だから生きて帰ることができたのだという。「会いたい」というその思いがなければ、自ら命を絶っていたに違いないと。
比律賓に向かってからは、尚。そこら中に死体の山が築かれ、銃撃戦の中を潜り抜け、死の行軍をし。周りは毎日誰かが命を絶っていたという。
人が死ぬのが当たり前。そんな中、父さんは終戦直前に脚気にかかったという。戦地ではありがちなビタミン不足で起こる病気だけれど、放っておけば死に至る病だ。
野営地ではいつ戦闘が起こるか分からない。毎日休まるはずもなく、誰かの背に負われて戦いを続ける。死の淵を彷徨いながら、きちんと療養できたのは皮肉なことに米軍の捕虜テントだという。米軍の捕虜となり、復員できたのは結局半年あまり経った時。ようやく回復できた時に、日本軍が負け、東京が火の海になったことを知った。いや、理解できたというほうが正しいのだろう。
けれど父さんは、不思議と家族が生きていると直感したらしい。東京に降り立ち、一番に向かったのは我が家。そこは再建途中で家族は夫の実家に仮住まいをしているという。
――そして、可愛い子ども達との再会。何よりも愛おしい妻との再会。桜の木の下での再会だった。
『生きていることの、なんと素晴らしいことか。戦の最中は、正に獄中だった。生きながらにして、死の中にいた。何度命を絶とうと思ったか、計り知れない。それでもそうしなかったのは―そうできなかったのは、大切な人たちが生きていたからだ。これから生まれてくる新しい命に回り逢いたかったからだ。
その選択は正解だった。今、家族に囲まれて、世代を繋いで。僕は、そんな想いを知れたという点では、戦争に行って良かったのかもしれない。
この記憶をまた、多くの人に知ってもらえる。文字にすれば、例え同人誌であろうとも日記であろうとも変わらない。誰かに、この想いを伝えたいと思ったから僕はこれからも何かしら文字を綴り続けるのであろう――』
茫然とする思いで、僕は冊子を閉じた。何かを思おうとしても無理だった。「毎度あり」という店主の声を聴いて、僕は本屋を後にした。とぼとぼという音を背負いながら、家路を辿る。
僕が生まれたのは、戦後だ。当時の話は聞くことには聞くが、それが父さんの口から話されたことはなかったように思う。わか姉か、母さんか。いつも父さんは傍で穏やかな顔をして、佇んでいるだけだった。
その時は少し、遠い目をしていたように思う。そして僕を抱き上げて言うものだった。
『陽海は幸せだよ。人がばたばた死んでいくところなど、見なくてもいいんだ。僕一人で十分だよ』
その負い目を被ったのは、父さんだった。経験するのは自分一人でいいと。自分の役目はそれを伝えていくことにあるのだと。そんな父さんでも、今回はなかなか話に手を出せなかった。
それは、家族が苦しむからだ。
僕は門柱までたどり着いて足を止めた。『櫻井』と掲げられた表札を見てふと思う。
実のところ、我が家で一番強いのは母さんかもしれない。父さんが苦しいとき、いつも母さんは地に足がついていて、いつも父さんを支えていた。
この家をもう一度建てようとしたは母さんだった。複雑な想いを引きずりながら、門扉に手をかける。すると、
「――おかえり、ひろ」
思いもよらぬ方向から声がかかる。びくりとなってそちらを見ると、縁側に腰掛けている母さんがいた。腕には伊織を抱き、その膝には昼寝をしている伊澄。
「珍しいね。二人とも母さんのところにいるなんて。わか姉は?買い物?」
すると母さんは少しだけ困った顔をして中を指差した。
「まあ…見たら分かるわ」
僕は小首を傾げて引き戸を開けて中に入った。廊下をギシギシといわせて歩いていくと、ふと居間に気を取られた。いつも誰かがいる居間。今日も、そこに人はいた。ただし、いつもと様子は違う。そこには、わか姉と父さんがいた。わか姉は子どものように父さんの膝に突っ伏して、肩を震わせて泣いていた。
声を殺すように。けれど、嗚咽は止まらないようであった。父さんはただただ穏やかにわか姉の背中を撫でている。
二人のそばには、僕が今まで本屋で立ち読みしていた文芸誌。父さんは僕に気が付くと、しぃっと人差し指を口に当てた。皺が増えた手ででわか姉の背を撫でる。
「…若櫻」
低く、渋みのある声で呼ぶ。わか姉はそれに応えるようにひとつ肩を震わせた。
「それ程、辛いかい?」
「――わた、わたし…、知らなくて!父様が…死のうと、思っていたなんて、死にかけていたなんて、知らなくて…!」
「知らなくて良かったんだ。その時は」
「なのに、私…!私、母様を泣かせて帰ってこない父様を、一瞬でも…恨みそうになって…!!」
ひぃっく、という嗚咽が居間に響いた。
「…そうだね。連絡は、出来たのにしなかった。もし助からなかったら、戦死したことにしてくれと、頼んでいた」
「ど、して…」
「だって、馬鹿みたいじゃないか。決死の覚悟で戦場に行って、闘ったのは病気や自分の弱さだったなんて。情けなく思ったんだよ…『その時』は」
「でも…死のうと思ったんでしょう?」
死のうとした。その言葉に僕はビクリと肩を震わせた。父さんは戦場での現実に思い悩み、死を図ろうとしたと、小説には書いてあった。
「そうだ…だが、しなかった。できなかったんだよ。母さんとの――狭衣さんとの約束があったから」
「やく、そく…」
「『死の淵にあっても、せめて生きたいと思え』と、そう約束させられた。若櫻がまだ一歳のときかな」
だから、生きていられた。生きて帰ってくることができて、今の幸せがある。そして今、あの時のことを伝えることができる。
「確かに、僕は人を殺した。確かに、日本は敗れた。確かに、周りの人々は死んでいった。でも、僕は帰ってくることができた。だから書き残すことが僕の義務だと思うんだ」
父さんはそう言って僕を見た。そしてふっと優しく微笑んでくれる。
「君たちに悲しく苦しい思いをさせることが嫌で、今まで『こういうこと』は書いてこなかった…だが」
整ったハンカチでわか姉の涙を拭う。
「若櫻が子を産んだり、雪成や雪花が独り立ちをしたり、陽海が反抗期になったり…そうか、君たちはこんなにも大きくなったんだと知ったんだ」
少し見くびっていたね。
そうやって、静かに穏やかに僕を見て笑うから、自然と頬を涙が伝った。地を張って、冷たく接していた自分が馬鹿に見える。こんなにも、父さんは僕達を愛情で包んでくれていたというのに。
カヨが憧れるのも、分かった気がする。いつもいつも、父さんは家族の拠り所で、安心できるところ。
それを今更感じて、馬鹿みたいに涙が溢れて止まらなかった。
***
その夜、僕は意を決して父さんの書斎を訪ねた。障子戸を通して柔らかな光が中から漏れ出している。父さんは、書くことを休まない。日々何かしらを書き記している。それは仕事であったり、他愛ない日記だったりもする。今日も中からは原稿用紙に何かを記す音が聞こえてくる。
僕はそっと息をのんで中に声をかけた。
「――父さん。今、いい?」
しばしの沈黙の後。
「陽海かい?入りなさい」と応える声が返ってきた。滑らかな障子戸を開けて中に一歩入り――僕は思わず目を瞬かせた。
「…なんで、母さんがここにいるの」
狭い四畳半ほどの部屋には、父さんの文机と本棚が並んでいる。それだけで結構狭いのに、今日はそこに母さんまでいた。文机に向かう父さんの横に蹲って、穏やかな寝息を立てているのだ。父さんは苦笑して、人差し指を唇に添えた。
「狭衣さんは今日、甘えたい日なんだ」
「なんだそれ」
「ん?先に寝ててもいいですよ、って言っても聞かないで、僕の横で眠りこけちゃう日」
よく意味が分からなかったので、僕はあえてその話題から離れることにした。この夫婦の物差しにはいまだ着いて行けないところが多々ある。僕は眠る母さんを起こさないように、父さんを正面にして正座をした。
「で、今日は一体どうしたの」
そっと母さんの頬に指を滑らせて問いかける父さんに僕は持っていたものを突き出した。
「……これ」
「何だい――『春桜』?」
それは、僕の在籍する文芸部が月に一回発行している文芸誌だった。一丁前な題名をつけて、執筆から刷り上げまで全て自分たちでやっているもの。僕はようやくこれを父さんに見せる決心がついた。自尊心が邪魔して、素直になれなかった僕の小説を父さんに読んでもらおうと。僕の瞳から何かを受け取ったのか、父さんは雑誌を受け取ってパラパラとめくり始めた。
特にどれを書いたのかは、口にしていない。けれど、父さんはとある頁でめくるのを止めた。「夏」という筆名で書かれた短編小説。僕が書いた小説だった。
暫くその頁をじっと見つめると、ふと父さんは口元を緩ませた。
「…ああ、陽海の文章に、カヨちゃんの挿絵だね」
やはり、直感で分かるらしい。父さんは決して長くはないその小説と絵を、じっくりじっくり時間をかけて読みこんだ。正に、「読み込んだ」と表現するのが一番相応しい。それくらい、言葉も発さずにゆるりと瞬きを繰り返して、僕の小説を読んでいた。
どれ程時間が経っただろうか。父さんは、不意にパタリと雑誌を閉じた。目が合うと、急き込むように僕は尋ねた。
「それを読んで、どう思う」と。
すると父さんは、雑誌を畳に置き、横で眠る母さんの頬にかかる前髪を一筋耳にかけてやった。
「父さん」
焦れると、優しげなまなざしが僕に贈られた。
「陽海は、いくつになったんだっけ」
「十五、だ」
「はは、まだそんなに若いのにこんな渋い爺さんみたいな文章を書くことはない。あまりにも出来が良すぎて、怖いくらいだ」
「……」
「お前は、よく書いていると思うよ。でも、お前にしか書けない文章ではないね。まだ」
「でも」
「何にも囚われずに。もっと書くことは自由であっていいはずだよ」
そう言い終えて、そっと僕の頭に手を置いた。先刻、母さんの前髪を掬っていた手だ。今日、わか姉の背を撫でていた手だ。いつも伊澄を負ぶう手だ。伊織を慈しむ手だ。ハル君の肩をたたく手だ。
そして、僕を認めてくれる手だった。
物語を生み出す手だった。
その手に刻まれた皺の分だけ優しさと慈しみで溢れていることを、僕はよく知っているはずだった。
「そうか、陽海は小説家を目指すか」
まだそんなことは一言も言っていないのに、もう父さんはその気になっている。そして、心底嬉しそうに笑うのだ。僕がそれを目指していることを、誇りに思うかのように。
「父さん」
「ん?」
「僕の夢、今決まったよ」
「それは父さんが聞いてもいいのかな」
「父さんを超える小説家になって、カヨと子どもを食わしていくんだ」
そう言い切ると、父さんは少し目を見開いてから、「そうか」とまた微笑む。また泣きそうになってしまったことは、僕だけの秘密だ。
***
秋の夕暮は大地の全てを橙色に染め上げていた。河原沿いをカヨとゆっくり歩きながら、僕はその夕暮を見送っている。
「ひろちゃん、見て見て。鴨がいるよ」
背後からは、カヨののんびりとした声が追ってくる。学校帰り、カヨの庭球部が終わるのを待って家路を辿った。僕は学生鞄をぶらぶらさせて、カヨが追い付いてくるのを待つ。
「――…」
川を見つめながら目を細めるカヨを見て、不意にどうしようもない幸せが、胸の奥底から溢れ出てくる。
そして、思うのだ。この光景を、ずっとずっと見ていたいと。カヨの隣で、できれば老いて死ぬまで。
父さんと母さんがそんな夫婦だから。橙に染まる空を見上げて、狂おしい想いを飲み込み、全身に行き渡らせる。
ああ。
吐き出すのは、どうしようもなく色濃い、喜びの溜息。
「どしたの、ひろちゃん。空なんか見上げて」
ようやく追い付いてきたカヨが、不思議そうに僕を見上げる。そのきょとんとした瞳に、僕は苦笑を漏らした。
僕の好きなカヨ。父さんを素敵だと言って、憧れているカヨ。
いつか、僕の隣で笑ってくれるのだろうか。けれど、今はまだ。
「――秘密、だ」
了
作中、最後に名前しか登場しなかった櫻井家の末っ子陽海から見たその後の櫻井家です。
若櫻が春で双子が冬なので、彼は夏生まれです。夏といえば太陽と海だという姉たちの意見を汲んで「陽海」としています。
というところで番外編も締めさせていただきます。お読みくださりありがとうございました。




