君を好きな理由
「――ねえ、なつにぃ。なつにぃはなんで、さぁちゃんと結婚したの?」
五つ年下の幼馴染であった狭衣さんと結婚して、五年。その年の春には待望の第一子が生まれ、ようやく落ち着いてきた初夏の頃の話だ。あまり寄りつかなかった実家に、偶々顔を出した時のこと。
末っ子で、じつに僕と十六も年が離れている妹の深槻――みぃが、急に思い立ったように切り出した。
なぜ、自分は狭衣さんと結婚したのか?と。いつも、実家に来る時は狭衣さんも一緒に来るのだが、今日はたまたまいない。
その偶然が今日であったことに、僕はほっと安堵のため息をついた。まさか本人が居る前で、結婚への紆余曲折を語ることほど恥かしいことはない。
その時、僕がどんな気持であったか。どのくらい、君を好きでいたかなど、簡単に話せる度胸など、その時の僕には微塵もなかったのだ。
「さぁ…どうしてだろうね」
結果。妹がまだ小さいことを理由に、卑怯な逃げ口上を切り上げる。卓袱台に置いてある茶を啜って、明後日の方向を見た。しかし、末っ子の上女の子だからと父親から多量な愛情を注がれ、少々我儘…というか甘やかされて育ったみぃは、当然納得がいかない。
「ええー!なんでえー?」
『なんでえー?』と言われても。勿論、恥かしいからである。くつろいでいる居間には、僕とみぃだけが居るわけじゃない。
初孫の若櫻とみぃを溺愛している父親。隅っこで昼寝している四男の紗槻。やたらとこの類の話に目が無い長女の歌槻。深槻の隣で卓袱台に腕をつきながら、一緒になって「なんでえー?」と叫んでいる。果たして、この面々の中で自分の妻の「好きなところ」を惚気られようか。
応えは言うまでもない。否、である。
「雫槻兄。そんなこと出し惜しみしちゃ、いい小説家になんてなれないわよ?」
「別段出し惜しみしてるわけじゃない」
「じゃあ、どうしておしえてくれないの!」
女とは本当に怖い。みぃなど、僕が口を割らないからと言って、もう責め立てる口調ではないか。僕はその頭を宥めるように撫でてから、溜息をついた。実家なのに、まるで心休まらない。
人が多すぎるのだ、ここは。狭衣さんは一人っ子であるから、ここの賑やかさが好きだと言うけれども、僕はあの小さな庭がある小さな家が、やはり一番落ち着くようだ。酒を呷るように茶を飲み干すと、僕は卓袱台に手をついて立ちあがった。
「さて。ゆっくりできたし、そろそろ帰るとしよう」
「なつにぃ。まだ来て三十分もたってないよー」
若干さびしそうな表情をして、みぃがこちらを見上げる。
「雫槻。深槻が寂しがってるじゃないか」
もう少しいたらどうだ、と今まで口を挟まなかった父親が言いだした。愛娘のこととなると、本当にこの父親は甘くなる。いや、娘を持つ父親とは、誰でもそうなのだろうか。
僕も人のことを言えないくらい、自分の娘を溺愛している――と、狭衣さんは言う。
「雫槻兄。逃げるなんて卑怯よー」と言う歌槻の笑い混じりの声は無視するとして。僕はまだ着物の裾を握って離さないみぃの頭に、そっと手を置いた。見上げてくる目に、そっと髪の毛を梳いてやる。
ふっと息を吐き出して一言。
「みぃ。僕はね、帰る家に大好きな人が迎え出てくれて、『おかえりなさい』と言って欲しかったんだよ」
「…?」
「『おかえりなさい』と、狭衣さんに言って欲しかった。これだけで十分な理由になるだろう?」
深槻は、小首を傾げている。分からないのだろう。今はそれでもいい。
いずれ、分かる日が深槻にも来るだろうから。そのあとは、言い逃げも同然だった。
「やー、雫槻兄が惚気たぁー」と歌槻が言うのを無視し。
「歌槻、うるさい。寝れない」と寝起き最悪の弟の横をそそくさと通り過ぎて。
夕暮れに向かいつつある帰路を急ぐ。少し顔を出すつもりだったのに。育児に疲れている狭衣さんの代わりに、買い物に言っただけであったのに。同じく買い物途中の母親とみぃに出会ったのが運のつき。こんなに恥かしい想いをさせられようとは、まさか思わなかった。妙に火照る頬を初夏の涼しい風で冷ましながら、下駄を鳴らして歩く。早く会いたいと、自然に思った。
いつも一緒にいて、「おはよう」と「おやすみ」を言いあう仲であるというのに。いつでも、君に会いたくて仕方ないのだ。
***
ようやく家に帰り着き「ただいま」と玄関の引き戸を開けるが、いつもの「おかえりなさい」の声がなかった。どうしたのだろうと居間に顔を出すと、その理由がすぐに分かった。
縁側の戸を開け放って、赤子用の小さな布団に寄り添うように、寝そべる姿。
近づいて、思わず頬が緩んだ。二十二にもなろうというのに、あどけない子どものような寝顔をした妻。
若櫻は滅多に夜泣きをしないできた娘だが、初めての子育てに疲れも溜まっているのだろう。昼寝の時間はとうに過ぎているのに、狭衣さんは寝息を立てて熟睡している。その妻の横で、眠りから覚めていた娘――若櫻が妻の頬をたしたしと叩いている。
僕が入って来たのに気付くと、最近覚えたハイハイで僕の元まで這って来る。「あー、んうー」とおしゃべりも達者になった若櫻を腕を広げて抱きとめた。涎をつけられても、鼻水をつけられても、それでもまるで苦にならないくらいに愛おしい。その子を生みだしてくれたのが、自分の愛している人であれば尚更。
若櫻を抱いて、狭衣さんの傍に腰を下ろした。
狭衣さんはよく「わかちゃんは私よりもお父さまの方が好きなのよね」などと言っているが。
娘は母を見つけた途端、その腕に身を寄せようと必死で足をバタつかせる。
苦笑して若櫻を降ろすと、すぐに這って行ってまた腕を叩こうとする。それでも狭衣さんは起きない。昔から朝が苦手な子だったから。起きない時は本当に起きない。
――まあ、いいか。
まだ夕飯の時間には早いだろうし。僕も彼女を真似て、畳に寝転んだ。両親が二人ともすぐそばに居るのが嬉しいのか、若櫻は僕と狭衣さんの間に身をねじ込んできた。
指を吸いながらまたうとうとし始めた娘の頭を撫でて、僕は狭衣さんの額に唇を落とした。
自分も目を閉ざしながら、柄にもなく思う。幸せだなあと。
一人でこの家に居た時も、自分の好きなように小説が書けて幸せだと、確かにそう思っていた。けれど、今のこの瞬間の方が何倍も何十倍も幸せだとそう思う。
なんでだろうな、と沈む意識の底で自分の問いかけながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
なぜ、彼女と結婚したのだろう。彼女のどこが好きなのだろう。
そう問われれば、自分でもどう答えていいのか分からない。けれど、確かに言えることは、彼女の全てを好ましいと思うのだ。どこが、というそんな問題でもない。
ただ狭衣さんといて、日々を過ごして、「おかえりなさい」と言ってもらえて。
最初は、狭衣さんの母上に頼まれた結婚だった。突然の申し出に吃驚しなかったと言えば嘘になる。けれど、なぜだか考える前に自分の中で答えはでていたのだ。
君と一緒にいたいと。桜のような君と一緒に老いていきたいと、自然にそう思った。
君を好きになったのは、まだまだ君が幼かった頃。君を愛おしいと思うようになったのは、君が三つ編を解いて、僕に抱きしめさせてくれた頃。
好きになった理由――恐らく、数え切れないほどあるだろうから、僕に度胸がついたその時は、小説にでも書いて教えてあげよう。
薄暮が迫る中、狭衣さんが先に目を覚まし、僕と若櫻が全く同じ格好で寝ているのを見て微笑んだことは、また別の話。
了




