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櫻姫  作者:
番外編
24/28

果て先に君ありて、世界は美しい

数話雫槻さん視点の番外編を投稿していきます。

視界の端に、妻を見つめることが好きである。


十七の歳で僕に嫁いだ妻は、日を追う毎に美しくなり、時折、はっとさせられるような表情を見せるようになった。そんな彼女は、店に出て働く母御の代わりに家事を担っていたせいか、よく動く働き者の娘だ。

今も、視界の端でちゃぶ台の上を拭き、土間の水瓶から水を汲み、食器を拭き、戸棚に仕舞う作業を素早くも丁寧にこなしている。

紺の絣の着物を襷がけにし、そこから覗く真白く柔らかなそうな二の腕を、意味もなく見つめる。


視界の端で捉えるだけでよかった。密かに、可愛らしい動きをする妻をいつも視界の端に認識できることが、彼女と共に住むようになってからの仄かな幸せであった。けれど、最近はそれも上手くゆかない。

いつの頃からか、僕は妻から目が離せなくなっている。

視界の端に留めておくつもりが、堂々と、そしてじっと見つめるものだから、当然彼女は僕の視線に気づいた。


「なんですか」

「…いや」

「変な雫槻さん」


ふふ、と唇を綻ばせる妻は結い髪からほつれた一筋を撫でつけながら僕を流し見る。それに、不意にどきりとさせられる。今まで、そんな表情ひとつ、見せなかったのに。

十七の少女は、十九になり、細かった身体に女性らしい柔らかみが出て、急速に彼女は――妻の狭衣は女っぽくなった。上品に茶を啜る姿、繕いものをする時に俯く横顔、目があったときの笑み。そして、閨で僕に縋る腕。


はた、とそれらを思い出している自分に気づき、「馬鹿か」とひとりごちる。これでは、初めての恋に逆上せ上る少年と同じではないか。いい年をした大人が、五つも年下の少女に惚れ、結婚から二年も経って、妻から目が離せなくなっているなど。


そこまで思い至って、更に唖然とする。こんなにも自分は大人げなく、あさましい欲を持つ、卑しい男だったのかと。

この想いは決して美しくない。純で清らかな空気を纏う彼女に向けてはならない、熱く、火傷しそうなほどにどろどろとしたもの。


誰の目にも触れさせたくない。

閉じ込めておいてしまいたい。

そんな、邪な想い。


よもや、妻は僕がこんな思いを拗らせていることなど、露ほども思っていないだろう。急激に己が恥ずかしくなり、僕は文字など全く読んでいなかった新聞紙に目を落とした。変に端の方がよれて、粗末な紙は簡単に文字を潰してしまう。それがまた、余計に自分を情けなく思う。雑に新聞を畳んでちゃぶ台に放り投げた時、ふと、暖かな温もりが手に触れた。


「どうしました?」


狭衣さんが、傍らに膝をついて僕を覗き込んでいた。小首を傾げて窺うように僕を見る。朝餉の後の時間、陽は障子戸を通して部屋の中を明るく染め上げている。

その光を背負って、妻はおもむろに手を伸ばし、僕の額に触れる。そうして、瞬時に目を丸くさせた。


「…雫槻さん、お熱がありますよ」

「熱…?」

「随分熱いです。昨日、寒いのに徹夜で執筆なさっていたでしょう」


お風邪を召されているのですよ。そう言いながら、狭衣さんは両手で額やら首筋やらを触れて、眉をしかめている。

僕は、何と言っていいか詰まってしまった。

風邪などではないだろう。寒いと言っても、炭櫃を備えて綿入れを着ていれば、然程でもない。喉も頭も痛くない。

熱いのには自覚がある。何せ、妻を見つめて、その美しさに清純さに打ちのめされて、羞恥していただけなのだから。

――などと、妻に言えるはずもない。

朝っぱらから既に深い仲である妻に、初めて懸想した少年のような目を向けていたなど、なんと浅ましいことか。


「風邪ではないですよ」

「え、でも…」

「見とれていただけです」

「え」

「急に、狭衣さんが綺麗になるから」


それが一体どう「熱い」に繋がるのか。妻は不思議そうに眉根を寄せるばかりである。綺麗になったのに、不意にこんな少女のような表情も見せる。それもまた、彼女の魅力の一つなのだ。そんな彼女に、僕は、自分でも呆れかえるほど恋をしている。


「狭衣さんが僕の目の前に、傍にいると、景色が違うんです」

「はあ」

「世界は、美しいと」


華奢な肩に両手を乗せて、引き寄せた。簡単に狭衣さんは僕の懐に身を寄せてくれる。ほんのりと色づいている耳朶に、口づけた。


「…大げさです」


私、そんなに綺麗ではないわ。もっと早く、大人っぽくなりたいけれど、なかなか叶わないんです。

目を潤ませながら、そんなことを言う。自分のことは、自分が一番分からないのかもしれない。そんな彼女が、可愛らしく、愛おしく、焦がれて仕方がない。


こんな苦しい想い、君は知らなくていい。僕だけでいい。

大事に大切に、健やかに、この腕の中の娘をもっと綺麗にしていくのは己の特権だ。


「――君ありて、世界は美しい」


それは、君がいるからこそなのだ。

照れた顔で妻は笑った。きっとこれからも、視界の端で妻を捉えながら、僕は想いを募らせる。

君のいる美しい世界で、生きていきたいと。










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