終章
「それじゃあ、母さまはお家の様子を見てきますからね。三人とも、いい子で待ってるんですよ?」
玄関先で見送る子どもたちにそう言うと、三人とも「はぁい」と声を揃えて返事をした。私はよし、と頷いて手を振った。ガラガラと滑りの少し悪い引き戸を開けて外に出ると、爽やかな櫻色の風が吹き抜けていく。空を見上げると少しだけ曇っていて、視線の先が霞んで見える。
春の空気だった。
「それじゃあ、行ってきますね」
「いってらっしゃあい!」
その声を背に、小走りで竹林を抜けた。頬に感じる風は、いつの間にかすっかりと温んだものになっている。それでも多少の肌寒さはあるが、空気は張り詰めた冬を見送り、どこか緩んでいて気が抜けてしまいそうだった。
す、と一度だけ深呼吸をして私は再び道を辿った。
今日は再建が始まった我が家の様子を見て、ついでに大工さんたちに差し入れをしようと出かけるのだ。手には朝から気合いを入れて握ったおにぎり。ちょっと無理をして、白米を手に入れることができた。それを麦や雑穀と混ぜ合わせたのだ。本当は梅干しでもつけられたら良かったのだが、今は塩を振るだけで精一杯だった。物資も労働力も少ない中請け負ってくれたのだから、きちんと労いたかったのだけれど。
もうその家も土台ができ始めている。きちんと出来上がるまでには、この先半年ほどかかるだろう。義実家は「実家」というものを失くしてしまった私にとって意外なほどに居心地のよいものだったのだが、いつまでもそれに甘えるわけにはいかない。私自身が立ち直り、一人の足で立つためには、親子「五人」で住むための家が必要だった。
子どもたちは今日はお留守番だ。連れて行ってしまうと、工事現場で遊びだして危険だし、大工さんの邪魔になる。お義母さまや深槻ちゃんには申し訳ないけれど、今日は預かってもらった。
埃っぽい町の中を歩いていると、随分と元通りになってきた部分が多くなっていることに気づく。
この半年ほどで、周囲は敗戦の痛手から徐々に明るさを取り戻してきている。まだ完璧とは言えないけれど、空襲で灰になった町も徐々に復興してきている。空気の中に新しい材木やニスの匂いが立ち込めて、日常が戻りつつあった。
人間とは、本当に逞しい生き物だと、最近特にそう思う。
私は新しい木の香りを感じながら、小走りで家路を辿った。急いでこれを届けないと、冷めてしまうと思って。
けれど、不意に目に入ったものに息をのんだ。小道の奥、視界の先に淡い色を認め、思わず足を止めてしまった。考えてあのは一瞬だった。ちょっとだけと思って横道に逸れた。その道は町の中心を流れる小川へと繋がっているのだ。
河川敷に出てみると、視界に広がる色に目を細めた。
「うわぁ…もう満開ね」
今年は例年よりも寒く、雪が深かったので春が来るのが随分と遅れていた。だからか、桜が咲くのも遅くなっていたのだ。その分、子どもたちは存分に雪遊びができたようで、ご満悦だったけれど。今は雪解けから二ヶ月ほど過ぎた四月の半ばになっている。
足は自然と連なる桜並木の方へと向いていた。川に沿って桜の木が等間隔に植えられている。大きなものもあれば、植樹されたばかりなのだろう、小さな苗木もある。大きいものも、小さいものも皆一様に淡い色の花をつけていた。辺りは桜色に染まっている。
空気までも、どこか淡い色に染まっているようだった。
「きれい…」
うっとりと呟いて、足は一本の木へと近づいた。並んでいる中でも特に立派な木だ。ところどころ傷ついてはいるが、どの木よりもたくさんの花をつけている。地中深くに根を生やして、水を、養分を取り込みながら毎年花を咲かせているのだ。たとえ傷ついても。
そう、空襲の火で家は燃やすことができても、この木だけは燃やせなかった。私が憧れる、強い桜の木。
近づいて、一番大きなその木肌に触れる。傷だらけでも、思ったよりしっかりしていて、温かい。
私はそこに額をつけた。脈々と流れる何かを感じ取るように、そっと目を閉じた。
その時、ざあっと強い風が吹いて桜の花びらを散らしていく。空色に淡い桜色が川のように流れていった。
上を見上げ、ふと思った。
ーーこれは雫槻さんかしら、と。
雫槻さんが春の風になって会いに来てくれたのかしら、と。
そう思えば、どこかであの人の声が聞こえそうな気がするのだ。暖かく優しい風が頬を撫でていく。私の結髪から解れてしまった毛を持ち上げて、さらさらと流していく。まるであの人が私の頬を、髪を撫でていてくれるようだ。
私は俯いて、ぎゅっと手のひらを握りしめた。その手で顔を覆い零れ落ちる吐息を押し殺そうといた。けれど、そのままずるずると崩れるように地面に座り込んでしまう。春になると、どうしても雫槻さんのことを思い出すときが多くなってしまう。
あの人と一緒になったのも、若櫻が産まれたのも、戦地へ行ってしまったのも、春のことだった。春は、嬉しいことも辛いこともたくさんあった。冬の間は双子が誕生した時の喜びや感動を思い起こして、この子どもたちに恵まれた自分の幸福を噛み締めていた。そうしながら私は焦がれるように春を待ち続けていたのだ。
空気が流れ出すこの季節がくれば何か変わると思って。
(…けれど)
駄目、駄目だと思っても熱い涙は自然に溢れかえってくる。ざらり、と足下で砂利が擦れる音がした。足袋の中に砂が入り込んでも、それを厭う余裕すらない。どさりとせっかく作ったおにぎりが地面に転がってしまった。私は桜の木に縋るように座り込んだ。
信じたい、耐えたいと思う気持ちがある反面、ふとした瞬間にどうしても隙間風が入ってきてしまう。
恋しい。会いたい。
ねえ、雫槻さん、と自然に呼びかけてしまう。
(雫槻さん、本当にもう、駄目なのでしょうか?本当にもう、いくらあなたを待っても帰ってこない?信じても、もう無理なのでしょうか?もう、諦めたほうがいい?)
否、そんなことは無理に決まっている。そんな葛藤ばかりが続く。
私は馬鹿みたいに何度でもこの名を呼び続けているのに。呼ぶのを止めると何かが終わる気がして、呼びかけ続けることを止められないのだ。
性懲りもなく名を呼び、嗚咽が漏れでそうになったその瞬間。
「かあさまぁ!!」
後ろから、元気な声が響いた。聞き間違いようのない、若櫻の――娘の声だ。その横できゃらきゃらと笑う雪成と雪花の声も聞こえてきた。
はっとなって、私は急いで拳で涙を拭う。いけない、また感傷に浸ってしまっていた、と。無理矢理にでも笑顔を作って、振り向く準備をする。
だって、子どもたちにもう泣き顔を見せないと決めたのだから。おにぎりが入った風呂敷を拾い、立ち上がって、唇の両端を上げる。頬をこすった跡が赤くなってしまっていることは、どうか見逃してもらおう。
〝もう、ついて来てしまったの?おじいさまのお家にいなさいと言ったでしょう〟
〝仕方ないわね、大工さんの邪魔はしちゃ駄目よ。大人しくしてなさい〟
そんな小言を言うつもりで、後ろを振り返った。その瞬間、また、ざぁっと桜色の風が流れていく。
と、その色が溢れる視界の中に、子どもたちとは違う細長い影を認めて。
「―――………」
きゅっと、息が詰まった。瞬間、全ての音が消えて全ての神経がその人に向けられた。
近づいてくるその人影は、寛ぐように着流しを纏っている。
ああ、その深藍の着流しを、何度も箪笥から出しては広げて眺めていた。何してるの、と不思議がる子ども達に、「虫干しして、いつでもお父様が着れるようにね」と言って。本当は、懐かしい雫槻さんの匂いを確かめたかったものを。
段々と人影は目の前まで近付く。近付くにつれて、はっきりと面差しが見えた。少し痩せてしまって、それでも変わらない穏やかで優しい笑顔がある。
その腕で子どもたちを抱いて欲しいと、あれほど、願っていた。痩せても逞しい腕が、両腕に双子を抱いて、若櫻を肩車している。子どもたちは余程嬉しいのか、きゃっきゃとはしゃいでいる。
そう、双子は、あの人の腕の中を、背の高さを知らないから。そう、若櫻は久しぶりの視界に広さを思い切り楽しんでいるから。この一年、私だけの力ではあそこまで笑顔にはさせられなかったというのに。逆に、子どもたちに励まされる毎日だったというのに。
一歩、一歩と私の方に近づいてくるその姿を見て不意におかしな動悸が全身を駆け巡る。
夢ではないだろうか、幻ではないだろうか。触れたら、消えてしまわないだろうか。
狂おしいほどの激情が、私の中を迸る。吐息だけで、その人の名を紡ぐ。あんなに呼びかけていたのに唇が震えて、うまく呼べなかった。
その人は私の目の前まで来ると、まず双子を地面に降ろして、若櫻も肩から降ろした。一人ずつ頭を撫でてやって、その次に漆黒の瞳が私を捕らえる。
「…ただいま帰りました、狭衣さん」
「…あ…」
「すみません、事後処理や何やらで、すっかり遅くなってしまいました」
すっと近づいてきて、私を見下ろす。思わず私は彼の全身を上から下まで眺めてしまった。足はあるし、透けてもいないから幽霊ではないのだな、とあまりの衝撃に頓珍漢な感想を抱いて、再度彼の瞳を見つめた。
彼の瞳も、何かを耐えるように潤んでいる。そして、静かに両腕を広げた。
「とりあえず、抱きしめさせてもらえますか」
その言葉を聞いて、衝撃で固まっていた体と思考は開放された。何も考えられずに衝動的にぶつかっていく。そうできるのは、この人に揺るぎのない信頼を置いているからに他ならない。
もう、言葉などいらなかった。何もいらなかった。一気に視界がぼやけて何も見えなくなる。
私は、涙を散らしてその腕の中に飛び込んだ。その瞬間、懐かしい匂いが私を包んで、今までの辛さや苦しみ、悔しさ、もどかしさが吹き飛んでいく心地がした。
その温度を確かめられるだけで、良かったのだ。触っても、消えたりなんかしない。
春の風ではない。霞のように消えたりしない。生身の腕で、ありったけの力で、全てで、私を抱きしめてくれる。
その感触を確かめてようやく確信が持てた。これは。夢でもない、幻でもなかった。ずっと待っていた、信じて待っていたあなただった。
「……おか、えりなさい…雫槻さん…」
嗚咽混じりにそう言うと、一層力を込めて抱きしめられた。私の耳に口づけが振り、私の涙に柔らかい唇が当てられた。そうして、くい、と頬が持ち上げられる。見上げる先には、優しく目を細める雫槻さんが、震える手で私に触れている。こつりと額が合わされて、「ああ」と言葉にならない感嘆の息が彼の口から漏れる。声にならないのはこの人も同じなのだ。
すぐそばには、風に流されて舞い散る桜があって、それを追って走り回る子どもたちがいる。
本当にもう、何もいらない。まさに、口から出る言葉など、いらないのだ。安堵としあわせが、ごちゃ混ぜになった吐息だけでいい。雫槻さんがいて、子どもたちがいて、一緒にこれからの道のりを歩んでいけるなら、何も。
手を携えて、ずっと、あなたとこの道を歩んでいくのだ。あなたと、死に終えるまで。
それが私の人生なのだ。
「――ただいま、狭衣」
雫槻さんは、そうぽつりと零して、もう一度、私をかき抱いた。
「おかえり、なさい」
軋むほどの胸の中で、ずっとずっと言いたかった言葉を、もう一度私は零した。縋り付くように藍色の着流しを握り締めて。
***
ーー目が覚める。どうやら、縁側で少しばかりうたた寝をしてしまっていたようだった。
昔の夢をみていた。苦しくも、幸せで、日々「生きるために」生きていた。夢の中では若かったあの人は、年月と、そして私と一緒に年老い、ひと月前に本当に手の届かないところへ行ってしまった。
――次の世でも、夫婦であろうと、そんな約束を交わして。
真白い壺に収められた、真白い欠片を抱きしめて、私はどこかで安堵していた。もしもあの時、あの人が帰らないことがあったら。本当に春の風になってしまっていたら。私はああして、彼の骸を抱きしめることすらできなかったのだ。この国には、それすら叶わなかった人たちが、本当にたくさんいた。
今も遥か遠い国の、土に、海に還った人たちは、本当なら愛する人にこうして抱きしめられたかったに違いない。愛する人たちと共に老いたかったに違いない。
だから、こうして生を全うできた彼は、幸せだった。だから私も、今は幸せだ。幸せだったのは、あれ以来、大きく争わなかったからだろう。
「ただいま」と「おかえりなさい」の言葉を交わしてから、長い長い年月が経った。終戦から五年後には末の息子――陽海が生まれて、若櫻がお嫁に行って、雪成と雪花は絵をかきながら全国を飛び回って。
外の国では、争い事もたくさん起こってはいたけれど。孫に、ひ孫に囲まれて、年月が経つとはそういうことなのだろうと最近はそう実感できている。増えた皺の分だけ、私たちは幸せだった。
だからあの頃のように、あの人が旅立ったとしても、私は泣かなかった。悲しくはなかったのだ。ただただ、愛おしい日々を十分に懐かしんだ。
――春の日差しはいよいよ温かくなり、真綿のように私を包む。
ふと、目を上げると、その日差しの中、目を細めて縁側に座って私の髪を撫でている人がいる。
藍の着流し姿、髪が黒い、若い頃の彼――
「…雫槻さん…」
ぽろりと唇から滑り出す私の声も、若かった。嫁いだあの頃のような、娘の私。差し出す手は、皺も消えて、白く柔らかい手だった。
『来てくださったの』
『君があまりにも、つまらなさそうだから』
『あら、何で分かったのかしら』
『…いや、本当は僕の方が、やはりひとりでは駄目なんだ』
一緒でなければ駄目なのだという。それならば、私はこの人の手を取る以外の選択肢などない。
微笑んで、喜んで、私はこの人の手を取る。
光があふれる春の日差しの中、私はそっと目を閉じた。
その瞬間包まれたのは、懐かしい雫槻さんの香り。やっぱり、離れてなどいられなかったのだ。心が途端に安らかになった。
あなたと共に生きた私は、桜のようであれただろうか。強くあれただろうか。
手を取りあって桜並木の道を進む中、そう尋ねた。振り返る雫槻さんは、静かに微笑んだ。
『桜のような、貴女だ』
私も、春の日差しの中微笑む。
綻ぶ、桜のように。
***
終戦から数年後、櫻井雫槻は彼の妻に一冊の物語を贈っている。かつて、戦時中に遺書のように残していった彼の妻への恋文。遺書のままにはしておけないと、それを下敷きに加筆を加えたものだった。
文芸として出版したものではない。正真正銘、妻のためだけに書いた物語を製本し、結婚記念日に贈ったのだという。妻は、一つ一つの頁を愛おしむかのようにめくり、その本は娘や息子、孫に見せてとせがまれても、決して見せなかったという。
これは、お父様からお母様への恋文だからと言って。
彼らの死後、遺品の整理をしていた長女は、母の長持ちの中からこの本を見つけている。つい興味を抑えられずに頁をめくった中で、一番に印象に残っている箇所は、終戦から一年近く経って父と母が再会した頃のところだった。
『ーー私が久方ぶりに貴女を目にした時、貴女は、随分と必死で生きているように見えた。何かに縋りつかないと、立っていられないほどに。一見、触れれば崩れそうに脆いような。
けれど、私の姿を目にして、涙を零す貴女を、私は心底美しいと思った。聞けば、東京も凄まじい戦火に見舞われ、多くの人が儚くなったことを聞いた。
そんな中で、貴女はどんな瞳をして、子ども達を守ったのであろう。私はその場面を見てはいない。けれど、容易に想像はできる。
きっと、そうだ。貴女は、灰色の大地に炎を背にして、両足でしっかりと立っていたに違いない。それは、まるで、すっくと伸びる櫻のように。 』
長女は、あの日のこと思い出す。熱く干からびそうになった空襲の日。
母は確かにあの時、言ったのだ。
「父さまに会えるまで死ねない」と。その意志を貫く母は長女にとってとても尊い存在だった。強く、しなやかで時に可愛らしい母を、子ども達も孫達も誇りに思っている。
今頃は天国で父と一緒に桜並木を散歩していることであろう。
瞳の奥に今までの年月を思い起こし、長女は綴られた物語をそっと閉じたのであった。
了
時間が経ってしまいましたが、これにて一旦締めさせていただきます。
番外編もこの後投稿予定です。




