三
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「…さぁちゃん?」
近くで聞こえる声に、すうっと意識が浮上した。目覚めは、やけにすっきりとしていた。一つ咳き込んで声の方へ目を向けると、深槻ちゃんが心配げな顔で私の方を覗き込んでいた。ぼぅっとその表情を見て、出会った頃は抱っこをせがむ幼な子だったのに、随分大人になったものだと感慨にふけった。
そして、長い年月が経ってしまったとふと思った。十七で結婚した年から、今年でもう十年になるのだ。随分と私も年を取ってしまった。一度きつく目をつむり、息を吐き出して起き上がる。
「大丈夫?まだ寝てた方が…」
「ううん…平気」
けれど、急に身を起こしたからか目の前がぐるぐると回った。目眩に耐えきれずに、私は力無くもう一度布団に倒れ伏した。
「わ、さぁちゃん…駄目だよ。脱水症状起こしかけてたのに…」
「脱水…子どもたちは?」
「大丈夫。わかもゆきも、せつも疲れて寝てるけれど、何ともないよ」
その言葉に安堵が押し寄せる。ああ、とため息をついて被せていた腕をぎゅっと瞼に押しつけた。
「深槻ちゃんは…?何ともなかった?」
「うん。家は、何とか無事。お父さんもお母さんも、兄ちゃんや姉ちゃんも」
「そう…よかった…」
私が寝かされているところは、雫槻さんのご実家だった。私が倒れてしまった後、何と柴田さんがここまで走って下さって、男手を呼んでくれたらしい。私が運ばれている間も子どもたちをおぶって、ついてきてくれた。
今はもう、外に出て行ってはぐれた子どもを捜しているらしい。どこに向かうかを聞いておけば良かった、と漏らすと深槻ちゃんは困ったような顔をした。
「…あんまり、意味がないかも」
「え…?」
その声に眉根を寄せる。深槻ちゃんは唇を震わせて力無く首を左右に振った。
「…さぁちゃんも、見たら分かると思う」
その言葉に、嘘はなかった。何とか起き上がって眠っている子ども達の様子を見て、私は外へ出た。
そして私の目に映ったもの。
「…なに、これ…」
頭に浮かぶ言葉はそれしかなかった。見渡す限り、広がっているのは荒涼とした焦土だけだ。毎日見ていた風景なんて、一つも残っていない。
家も、お寺や神社、学校、木や柴垣、電信柱、その全て。無事に建っている家など、ここも含めて片手で事足りる。それすら、焼け焦げてしまい、家としての機能を果たしているとは言えない。
雫槻さんのご実家は、奥まった竹林の中に立っているから全壊だけは免れていた。それでも、母屋は半分以上焼き尽くされている。私が寝かされていたのは、離れの一室だった。
私が間抜けに倒れこんでいる中の必死の防空活動で、何とかここで食い止めたのだろう。
竹林を出て道を歩き始めると、焼け焦げた嫌な臭いが鼻を突く。子どもたちはまだ眠っているから、お義父さまの家に置いてきた。すぐ戻るからと言って、深槻ちゃんにあとを任せた。
道端には、倒れ伏している人の山。まだ息を辛うじてしている者もあれば、既にぴくりとも動かない者もいる。煤にまみれて路頭に迷う人々。怪我を負って動けない人。泣き叫ぶ子ども。
食料の奪い合いすら起こっている。
この中にいて、とても正気でいられると思えない。私はわざと目を逸らして、道なき道を進んだ。助けの手を差し伸べたいとは思う。けれど、全ての人にそれは出来ない。今の私の家族の命を繋ぎ止めるだけでも必死なのに。そんな中、助けてくださった柴田さんにはきっと、一生頭が上がらない。
苦しく思いながらも、私はよろよろと歩を進める。
道すがら、柴田さんの姿を探しては見たけれど、やはりとても見つけだせなかった。ここまで焼き尽くされてしまえば、住所など意味を成さない。彼女とはもしかすると、一生会えないのかもしれない。
一時間程そうして歩き回って、これ以上は無理だろうと諦め、私はおぼつかない足取りで次の目的地へと向かうことにした。私たち家族の家の方へ。目印となる建物が無ければ、自分が今どこを歩いているのかも分からない。間隔だけで足を進め、ようやく見知った河原まで出ることが出来た。
小走りに最後の角を曲がる。
正直、期待はしていなかった。あの空襲の激しさで、木造の家が無事だとは思えなかった。周りの様子を見ても分かり切っていることだった。
そして、目にしたものはやはり何もない土地だけ。
雫槻さんと暮らした家。
子どもたちが元気に遊び回っていた庭。
非常事態に備えて苦労して耕した畑。
そのすべてが土に還り、灰と化していた。
「……っ」
ぎゅっと唇を噛みしめる。口の中にぱっと鉄の味が散った。人の生活の、何とあっけないことだろう。あれだけ苦労して築き上げたものも、一瞬にして崩れ去ってしまう。
――分かっては、いた。
この風景が目の前に迫るであろうことは、覚悟していた。それでも、それは「していたつもり」でしかないのだ。どれだけ唇を噛みしめても拳を握りしめて耐えようとしても、ふらふらとその場にしゃがみ込んでしまう。雫槻さんとの思い出すら、もう戻ってこない気がして。
それすらもう何も、残っていない気がして。
この家の縁側で雫槻さんとお茶を飲んだ。
この家の狭い寝室で雫槻さんに抱かれた。
この家の庭に雪が積もった時には、足跡を残して遊んだ。
この家の書斎で雫槻さんの小説に涙した。
この家で、子どもたちを産んだ。三人もの子宝に恵まれた。
皆可愛くて、愛おしくて、私と雫槻さんの宝物。
そんな思い出すら、無に還ってしまったかのようで、悔しくてならなかった。
どうして、どうして、どうして。と、そんな想いばかりが胸を刺す。
どうして、私たちがこんな目に遭わなければいけなかったのか。
どうして、雫槻さんは行ってしまったのか。
どうして、返事をくれないのか。
答えは分かっている。でも、決して認めたくない。辛い苦しい想いばかりが溢れだして、地面に爪を立てる。
これまで堪えたものが、喉から溢れ叫びとなった。
「ああぁ…!」
ぼたぼたと、滂沱の涙が乾いた土に染みを作る。本当は、ずっと泣き叫びたかった。雫槻さんに行かないで下さい、私の側にいて下さいと。
泣いてすがって、我が儘を死ぬほど言いたかった。それが出来たら、どれだけ私は幸せだっただろう。
けれど、出来なかったのだ。もう、子どもではいられなかった。雫槻さんと結婚したあの日、私は心に決めていた。きちんとした大人になろうと。あの人と対等でいたかった。
私は、母にすらなった。だから、雫槻さんが安心できるくらい、しっかりした女性に、妻になりたかった。
それを、今後悔しても何の意味もないけれど。否、後悔をしている暇は私にはない。
私達の家が建っていたであろうその地の土を握りしめる。ふと、その中にきらりと光るものが目に付いた。拾い上げて、土を払うと、そこから出てきたのは割れた陶器の欠片だった。
よく見知った模様がついている。それは、雫槻さんが使っていたお茶碗の割れた欠片だった。大事に戸棚に仕舞っていたお茶碗は、火と爆風で割れて外まで弾き飛ばされたらしかった。
それでも、火に焼かれて土にまみれても、私の前に姿を現してくれた。先の尖りが指先に食い込んで血が流れても、私はそれを握りしめた。
どこかで、雫槻さんが私を叱っているような気がした。
何を泣いているんだ、早く立ち上がれと言われているような。
待っているてしょう。あの子たちは、母を待っているんですよ。そう、怒った声が聞こえてくる。
そうだ、と目を見開いた。奇跡的にも守られた命が、私を待っているのだ。
あの子達を守ると約束した。懸命に空襲に耐えた命を、これ以上悲しませてはいけない。
茶碗の欠片は、手放した。ここには雫槻さんはいない。土にまみれた手で頬を何度も拭った。焼けた土と木の匂いが鼻をついて、今ある現実を私は真正面から見つめることが出来た。
ここにあった家はなくなってしまった。私には何が出来るだろう。
そんなことを考えながら、踵を返した。あの子達が待っている家に帰ろうと、足を速めた。空襲が明けて初めての日が終わろうとしている。
これから待ち受けるものがどんなものなのか、今の私には分からない。そもそもこの国はどうなってしまうのだろう。
こんな状況の中で戦い続けることなどできないのではないだろうか。
戦争で勝ち続ける国など、とうに私たちは望んでいない。だた望むのは、大切な命が生き続けられる世であることだけだ。国が守ってくれないのであれば、大切な家族は私が守るしかない。
そしてきっと、雫槻さんも遠い地で私達家族を守ってくれているだろう。
その時、風が吹いた。
早春の少し冷たい風が、灰の匂いを含んでいる。その風の中に、彼はいない気がした。立ち止まって夕焼けに染まり始めた空を見上げた。
大丈夫、まだ頑張れると励まして、唇を噛みしめた。
『-雫槻さんへ。
今日は、少し我が儘を言ってもいいでしょうか。
会いたいです。帰ってきて欲しいです。お家は、もう無くなってしまいましたけど。
でも、無くなったならばもう一度やり直せばいい。死んでしまっては、それすら出来なかった。
私は、子どもたちは、戦火を生き抜いて生きています。
あなたの帰りを待っています。ずっと今も祈っています。あなたから返事が来ないことは、死ぬほど辛いですけれど。一度は挫けそうになってしまいましたけれど。
それでもまだ、私は信じていますし、約束を守り続けます。
桜のように、強く生きたいです。
けれど、もうそろそろあなたに会わないと寂しくて死んでしまいそうです。これくらいの我が儘、許して下さいね。
昭和二十年五月三日 狭衣』
届かないその手紙を書いた三ヶ月後。
日本は敗戦した。
暑い、真夏の日だった。
予約投稿は一旦ここまでです。




