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櫻姫  作者:
昭和二十年
20/28

山の中腹まで登って眼下を見下ろした時、思わず息をのんだ。


「燃えてる…」


単なる一つの家屋だけが燃えているのではない。町全体、東京という都市全体が燃えていた。そこから吹き付けてくる熱風は、余計に喉を熱くさせた。手にも足にもピリピリとした痛みが走る。

途端に途方もないほどの疲労を思い出し、私はきつく目を瞑った。けれど、じっとしている暇はないと、私は木々にすがりつきながら山を登り続けた。この山が標的にされなかったのは、奇跡に近い。

幸い火災や倒壊の中心からは外れていたのだろう。けれど同時に、もうこれ以上私は動けないとも思った。本当に、気力だけで、あの約束だけで立っている。

死ねない、まだ死ねないのだ。簡単に諦められない。一歩進むごとに雫槻さんのことを思い出した。


雫槻さんの声。

雫槻さんの笑顔。

雫槻さんの熱。

あの人と過ごした時の全て。

そして、返ってこない手紙のことも。


でも、私はまだ諦めてはいない。あの人のきちんとした生死が分かるまで、決して諦めない。

木の根っこに足がかかり、思わず転びかけて地面に手をついた。その途端、思い出したように息が切れる。土を掴む指先は、泥にまみれて、火傷したのか小石で切ってしまったのかびりびりと痛んだ。

もう、ここには手を差し伸べてくれる人はいない。でも私は止まることを己に許していない。

自分の力だけで、泥にまみれようとも、血が滲もうとも、歩き続けなければならないのだ。

ここで足を止めてはいけない。

だって、止まっていては死んでしまう。熱波は否応なく私の背中を焼こうと、じりじりとにじり寄って来ている。

唇をかみしめて、両手をついて立ち上がる。

――私は、あの人に逢えるまで、きっと何度も何度でも立ち上がる。


たどり着いた樫の木は、爆弾などに負けないようにすっくと真っ直ぐ立っている。その冷たい木肌に額をつけて息を整える。喉に乾いた唾が張り付いて苦しい。木肌に爪を立てて一度大きく息を吐き出した。

もうちょっと。もう少し。自分にそう言い聞かせて、よろよろと立ち上がる。裏手に回ると、確かにそこには小さな岩屋のような洞があった。誰かが作ったのか、自然に出来たのか定かではない。今の私にとって、そんなことは最早どうでもよかった。

倒れるようにしてその中に入り込んだ。地面に身体を投げ出して、大きく息を整える。

はっと思い出して鞄の中を探った。小さな水筒を見つけ出して引きずり出し、栓を開ける。貪るようにして飲んだその水は、正に命の源だった。

極限まで喉が渇くなんて経験は、今まで一度もなかった。今日初めて、いつも当たり前にある水の有り難さを知った。

井戸から水が汲める、それを使って粟だろうが稗だろうが麦だろうが、何でも炊いて食べることが出来る。ひもじい思いはしても、それでもまだ恵まれている。

それに気づくと、我慢していた涙が溢れかえった。せっかく取り込んだ水分が流れてしまうのに。

でも、もう止めようがなく、それははらはらとこめかみを伝った。

もう、一歩も動けない。それでも、私は痛みを感じながら今生きている。死と隣り合わせになって、初めて生きている幸せを噛みしめている。


遠くの方で全てが燃える音や壊れる音を聞きながら、私は鞄の中に手をやった。力の入らない右手で、中をかき分ける。指が確かめたのは、滑らかな紙の感触だ。随分苦労しながらそれを鞄の中から引きずり出した。

目の前に持ってきて、震える指でそっとその紙の束を開く。


「…なつき、さん…」


それは雫槻さんが私にくれた、あの最高の恋文だ。それと、今までやり取りした手紙の束。

これだけは、どうしても家の中に置いて来ることができなかった。あの家は恐らく、焼き尽くされて原型も留めてはいないだろう。

荷物になっても構わない。焼かれて灰になるよりましだ。

力なく、一頁目から、目を動かして雫槻さんの文字を追う。読めば更に泣いてしまうことは分かっていたのに、止められなかった。何度も何度も読み返していたから、もうその原稿用紙はくたくたになってしまている。

今、泥で指先が原稿用紙を茶色く汚してしまって、更に血まで滲んだ。けれど、どれだけ汚れようとも、これは今の私になくてはならないものだった。

それを読むたびに、桜のように強くしたたかに生きなければ、と自分に言い聞かせてきた。

不安になったとき。

挫けそうになったとき。

迫り来る死に、怯えそうになったとき。

子どもたちと、この物語と、雫槻さんのかけてくれる言葉の全てが私の支えだった。泣きながら読み終えて、その原稿用紙と手紙を胸に抱きしめた。


「…なつき、さ…」


出てくる言葉は、どうしてもあの人の名前になってしまう。呼ぶ声に応える声がないことを分かっていながら、呼び続ける私は馬鹿なのかもしれない。

それでも、私はあなたに届くように何度も何度も叫ぶ。


「…わたし、いきる、から…こどもたちを、まもるから…」


ここにいる私にはそれしか出来ない。返ってこないと半ば諦めながらも、無事を祈る手紙を書き続けることしかできない。何と非力なことだろう。女である私は、ひたすら待つことしかできない。


「あなたも、生きていて…」


こんな時ですら、あの歌が浮かぶ。

「いつの日、君帰る」と。それしか思い浮かばない私は惨めだ。

涙が乾いて目尻が引き攣れるのを感じながら、目を閉じる。あっという間に暗闇の中に放り込まれてしまった。


***



暗闇を漂う中、夢を見た。とんでもなく幸せな夢だ。

雫槻さんが柔らかく微笑んでいて、私に手を伸べてくれて。頬に触れると、幾年かぶりに私に口づけを落としてくれた。項を辿り、肩を抱き寄せる。

その力が愛おしくて、私も自然と笑みをこぼした。こんなに安心して幸せに浸れたのは、何年ぶりだろう。

雫槻さんの、少し無骨な手。私を抱きしめてくれる、子どもたちを簡単に抱き上げてしまう、大きな手。

帰ってきて、くれたんですね。約束を、守ってくれたんですね。私が笑うと、雫槻さんも笑う。

嗚呼、なんて幸福な夢なんだろう。

けれども、私が手を伸ばした瞬間、雫槻さんの姿は、靄のように目の前から消え去ってしまった。


***


「…さま!」


遠くの方で、幼子の泣き声が聞こえてくる。頭の奥がズキンと痛んで、低く呻いた。瞼裏から分かるほどに、強い光が差し込んでくる。


「…あさま!」


愛おしい重みが肩に掛かる。それに手を伸ばそうとして、指先にぴくりと力を入れる。

ゆっくりゆっくりと目を開くと、強烈な光が飛び込んできて思わず目を眇めた。


「母さま!」

「かぁさまぁ!!」


けれど、光を遮るようにして覗き込む三つの顔。あの人を思い起こさせるような、愛おしい子どもたちの顔。


「…わか、さ…ゆきなり、せつか…」


「起きた!」と若櫻が叫んだのと同時に、ぼたぼたと私の頬に三人分の涙がこぼれ落ちてくる。

私が掠れた声を漸くあげると、若櫻を筆頭にして三人が抱きついてくる。首にかじりついて泣き出す子どもたち見て、ようやく周囲に目を配ることが出来た。泣きながら、いつの間にか気を失っていたらしい。そこは、私が辿り着いた岩の洞の中だった。夜半の闇ではなく、悪夢から抜け出した光が差し込む夜明けが見える。


(…夢、か)


どこを見ても、雫槻さんはいなかった。ただ、入り口には子どもたちを助けて下さった近所の女性が所在なさげに佇んでいた。光の中で見ると、顔中煤けてかなり疲れて見える。そんな中で私は意識を失うように眠りこけていたらしい。

朝――ということは、私は無事に焼夷弾の恐怖から逃げることが出来たのか。子どもたちも。ほっと息をついて、ようやくしがみつく三人の身体をぎゅっと抱きしめた。


「…おじいさまのお家に行く約束でしょう?」

「だってぇ…!」


勿論、本気で怒っているわけではない。けれど安心したのか、まだ恐怖が残っているのか、子どもたちは更にぎゅっとしがみついてきた。そこで、私の子ども達を助けて下さった女性が声を掛けてきた。


「…あの。怒らないであげて下さい…三人とも、とてもよく頑張っていたんです。でも、他の方々が防空活動に行かれると、お母さまを捜すんだって言い出して…」

「連れてきてくださったのですか…本当に、すみません。ご迷惑をおかけして。あの時も…」


おずおずと私が頭を下げると、その女性は首を振った。防空頭巾を取ったその顔は、心なしかやつれている。大丈夫ですか、と声をかけようとすると、若櫻がぐずりながら私の胸に顔を押しつけてきた。それを見た雪成と雪花も膝の上に上がってこようとする。「ゆきも!」「せつも!」と言いながら。けれど、若櫻は「やだ!だめ!」と言って益々ぎゅっと力を入れた。


「あの、若櫻ちゃん…とても頑張っていたんです。一人で弟と妹の面倒を見て、気丈に振る舞って」


聞けば、自分の分の水を双子たちに分け与えていたという。ぐずぐず泣く双子をなだめつつ、夜を明かしたそうだ。私の言ったことをきちんと守ってくれた。雪成と雪花をきちんと守り抜いてくれた。


「そうなん…ですか」

「一度も泣かなかったんです。褒めてあげて下さい」

「ええ…あの、有り難うございます。何から何まで…」


お礼を言うと、その女性は少し寂しそうに微笑んで「いえ」と小さく頷いた。


「家族は、何者にも代え難いものですから…守りたいという思いは、よく分かります」

「…ご家族の、方は…?」

「夫は…先の海戦で亡くなりました。子どもも、この空襲ではぐれてしまって」


だから、母を探すと奮起するこの子たちを見て、どうしても助けずにはいられなかったという。柴田さんというその女性は、憔悴していて今にも倒れそうだ。けれど、今は少し落ち着いたから子どもを探しに行くという。

言い知れない悲しみの色が、彼女の表情を彩っている。もう、助からないだろうという諦めにも似た気持ちが何となく感じ取れる。


私はうとうとしだした若櫻の背を撫で、膝に突っ伏して眠りに落ちそうな双子の髪を梳いてやった。

一晩。

たった一晩だけだけれど、この子たちにとってはどの位の恐怖だったであろう。はぐれて、火に巻かれた人たちはそれ以上に。


「…お子さんはきっとあなたの迎えを待っていると、思います」


こんな言葉、気休めにしかならないだろう。この子達を守ってもらいながら、そう易々と言える言葉ではない。でも、声を強くしてもう一度言った。


「祈って、います。あなたがもう一度お子さんと会えるように」


私には、それくらいしかできない。あんなに助けてもらったのに、恩返しの一つも満足に出来ない。

けれど、その祈りは届くと信じていたかった。柴田さんは、少し哀しげな笑みを見せてこくりと頷いた。


「有り難う…ございます」


それを聞くと、とてつもない疲労感が襲ってきた。ぐらり、と身体が前後に揺れ出す。


「…さ、櫻井さん…!」


柴田さんの悲鳴が遠くに聞こえた。けれど、私はそれに応えることが出来ない。視界が真っ黒になる。

私の夢から消え去ってしまった、あの人の名を呼んだ。

それに応える声は、やはりないままだった。

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