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櫻姫  作者:
昭和十年
2/28

***


小さな鏡の中に、初めての白粉をし、朱い紅を引いた私がいる。


狭衣さい


視界が真白で目も眩みそうな中、後ろから私を呼んだ人は、嬉しそうな涙を流していた。


「お母さん」


白無垢の中から私は、そっと駆け寄ってくる私よりも随分小さい母を見下げた。視界が真白なのは、この白無垢と、春のいささかまぶしい日差しのせいでもあった。私よりも小さい母は、その体を押し付けるように私を抱きしめる。黒い着物を着て、白いハンカチを目に押し当てて、感慨深げに私を見ている。

母の皺の増えた手は、細かに震えていた。


「まぁまぁ…こんなに美しゅうなって…お父様にも見せて差し上げたら、どんなに喜ぶか…」


白粉を塗られた私の頬に、柔らかく触れながらそう言う。

私はひっそりと微笑んで、「後で仏壇の前で手を合わせておきます」とだけ言っておいた。


***


この何かと苦しいご時世に、こんなに美しい白無垢を着た花嫁になれて、私はきっと幸せなのだろう。

十七の年で結婚することは、そう珍しいことではない。確かに、私自身は早い結婚だと思ってしまったけれど、それも余命幾ばくない母のためだった。


母は結核を患っている。父も、同じ病で数年前に他界している。

次は私の番なのではないかと、思うことも少なくは無い。母は、この日のためだけに病院から出てきたのだ。私の祝言のためだけに。


そんな婚姻は、私にとっては戸惑いでしかなかった。

けれど、今私の横に座っている人は、そんな事を気に病む風でもなく楚々として神酒を飲み干している。私も、見よう見まねでそれに倣った。

冷たい酒が、唇に触れる。それは私の口の中を通り抜ける瞬間とてつもなく熱いものに変貌し、思わず咳き込むことを耐えねばならなかった。初めて飲む酒はとても辛いものだった。


うまい具合に頬かむりでそれを隠し、ちらりと横に座る人――私の夫となる人を見た。


黒い、少し長めの髪。切れ長の目に、すっと伸びた鼻梁。指は細く長い。

私があまりに見るからだろうか、その人は横目で私を流し見る。目が合う寸前に私はぱっと正面に向き直り、何もなかったように神酒の器を元に戻した。


ふと、その時横からではなく、正面から視線を感じた。下座から送られる視線。私がよく見知る人が、厳しい面持ちで私を見ている。その視線は、私を責めているようにも、怒りをふつふつと内側にため込んでいるようにも見える。


初めて飲んだ神酒のようにその瞳の力はとても痛かった。私は「ごめんなさい」と呟いて目線を下げた。いたたまれなかった。

ひとつだけ分かることは、私は瞳を向けてくるその人が優しく与えてくれた、ほのかな好意を切り捨てたということ。


そして、横に座す年上の幼馴染の手を取ったということだ。


母が婚姻を持ちかけてきたのは、年が明けてすぐだった。実家のお向かいの櫻井さんの長男である、雫槻なつきさんとの結婚は親同士でまとめられた。そう、私はその話が纏まった後で知らされたのである。

きれいな着物を着せられ、結納を交わし、あれよあれよという間に祝言の日を迎えてしまった。二十二歳の雫槻さんと、十七歳の私は春の日和のこの日、年若い夫婦となった。

私の隣で紋付袴をはいて、いつもとは違う感じである雫槻さんはただ静かな目をしていたけれど、その時の私はまだ、彼が何を考えているのかなんてとても分からなかった。


***


私の家は商店を営んでいる。父が興した店は、父が亡くなってからも、母と私で続けていた。そのお向かいに住んでいた雫槻さんは、私より3つ年上で小さい頃から面倒を見てくれた、とても優しいお兄さんのような人だ。

今は、小説家として実家をお離れになって隣町の方へ単身で越されてしまったけれど、お正月などの折にはよく顔を合わせていた。恋をしてしまう対象として見ていたのは大分昔のことで、なかなか会えなくなった今では、本当の兄のように思っていたのに。

ともすれば、もう既にどなたかの御嬢さんを娶られているとすら、思っていた。

年上の男の方でとても私など手の届かない存在だと。


まさか、結婚してしまうなんて本当に予想だにしなかったことだったのだ。


全ての儀式を無事に終えた時には既に夕闇が迫る時間になっており、招待したお客さん達は早々に引き揚げて行った。母ですら、「今日から貴女は櫻井さんの家の嫁になったんだから、しっかり旦那様にお仕えしなさいよ」と真面目な顔をして、それだけを言って帰って行った。

この小さな家は雫槻さんと私、二人だけの家となる。既に実家を離れている雫槻さんが実家に帰るはずもなく、こうして嫁入りしたというのに大変贅沢な身分を私は与えられたのだ。


二人きりになった途端、空気の重さを肩に感じた私に、単衣に着替えた雫槻さんは「風呂でも沸かしますか」と聞いてきた。風呂、と聞いて思わずひくりと心臓が蠢き、そして今から湯を沸かすという重労働を思い、ずしりとした疲れを感じた。

そんな私の戸惑いに気付いているのかいないのか、雫槻さんは「僕が沸かしましょう。お疲れでしょうから、狭衣さんからどうぞ」などどのたまう。私は吃驚して思わず背の高い彼を目を丸くして見上げた。


「まさか、そんなことさせられません。私もそれくらいできますので、雫槻さんからお入りください」

「僕は木偶みたいに座っていただけですよ。あんな重い衣装を着たあなたの方が大変でしたでしょうに」

「木偶は私も一緒でした。それに、お酒も少し回っているんです。そんなにすぐにお風呂は…」

「では先に済ませますか」


何を、と言う暇もなかった。肩に手がかかったかと思うとすぐに私の背中は畳に押し付けられていたのだ。布団が敷き終った閨の床に。

私はその身体の重みに思わず震えた。


「…あの…」


その震えは、声にも簡単に滲み出てしまう。


「どうか、しましたか」


応える声もまた、静かな夜に溶けるほどに淡く。今まで、こんなに近くで雫槻さんの顔を見たことなんて、もちろんない。祝言の時ですら、横目で見るしかできなかったというのに。

上目に見上げれば黒い髪の毛。本ばかり読んで、字ばかり書いているから、少し茶色い瞳。そして、のしかかる体重。

吐息がかかるくらいこんな近くに雫槻さんがいるなんて、全くもって信じられない。だから、初夜でこうなることが当たり前なのだとしても、やはり抵抗してしまう。


「あの、えっと…」

「はい」

「お風呂、入っていません」

「だから、僕が沸かしましょうかと言ったのに」

「そんなこと旦那様に――」

「させられないのなら、こうなってもいいのかと思って」


意地悪だ。あの優しく、兄の様であったあの人はどこへ行ってしまったのだ。こんな意地悪な人だっただろうか。口元を引き攣らせたまま、のしかかる体重を逃すように雫槻さんの肩に手をやって押し戻そうとした。そうすると、今までの意地悪は何だったのか、すっと簡単に雫槻さんの身体は私から離れて行った。

私の上から退いた雫槻さんは、私に背を向けて起き上った。今までかかっていた重さが嘘のように、すっといなくなる。私の目には行燈に照らされる大きな背中と藍色の単衣が映った。


「な、つきさ…」

「不本意でしょう?」

「…え?」


こちらを向かない背。その顔はどんな表情をしているのか、私には見えなかった。私もようやっと身を起しながら、雫槻さんの背中を見つめる。

彼はちらりとだけこちらを窺い、けれどすぐに視線を正面に戻してしまう。寝室の障子は少しばかり黄ばんでいて、その染みの一点をずっと見つめ続けているようだった。不動のように動かず、先ほどの意地悪な多弁は姿を潜ませている。


「雫槻さん?」


私は沈黙の後ろ姿に向かって、名を呼んだ。すると、観念したような溜息が聞こえた。無論、彼のものだ。


「…好きでもない、きちんとした定職もない男に嫁ぐなんて、狭衣さんも不本意でしょう」

「そんな…」

「あなたはまだ、十七ですよ。夢を追うことも…恋をすることも、まだまだたくさんしたかったでしょう」


自嘲気味の声だ。その声音で先ほどの雫槻さんの意地悪は彼の気持ちを押し隠すものだったとようやく知る。


その声に、私はチクリと胸が痛んだ。雫槻さんの言ったことは、半分は真実だ。

まだまだ世辞も分らぬ子供で、女学校も行きかけで、勉強したいこともやりたいこともたくさんある。


そして、そう。

恋も。

私のことを好きだと言ってくれた人もいた。


ふわりと思い出したのは、今日の祝言のこと。下座から鋭い視線を注いでいた、あの人がいた。私の実家の商店に、よく買い物に来てくれた人。ずいぶんと年上だけれど、精悍な顔立ちをしていて、照れたような笑みが印象的だった。


『――僕は、あなたをとてもかわいらしいと、思うのです』


どうかこの想いを受け入れてくれまいか、と。告げてくれたその想いに、心がざわついたのは仕方ない。青く、淡い想いが私にも沸き起こりかけていた。告げられたその日はぼんやりとしすぎて危うく包丁で自分の指を切り落としかけた。けれど、いつか恋になるのだろうと見ていた夢も、最早叶わないだろう。私は母の持ってきた縁談を受け入れたのだから。


母の余命を知っていたから。母が、とても雫槻さんを気に入っていたのを知っていたから。

思うよりも随分早い結婚だと私自身そう思う。そして思っていたより随分切ない気持ちになっていることに、少しばかり驚いている。雫槻さんと夫婦になることなんて、本当に今日まで信じられずにここまで来てしまった。

けれど。


「…違います」


絞り出すような声が出てしまう。はっと、ようやく頑なだった背が動き、雫槻さんの目が私を捉えた。正座で座したまま膝の上で固く拳を握りしめ、私は緩く首を横に振った。乱れていた襟元を掻き合わせて、唇をかみしめた。


「不本意など…私にとっては勿体ないお話でしたもの。雫槻さんは私が幼き頃から本当によくしてくださった方です。…私は、あなたなら良いと、そう思えたのです」


想いを告げてくれた人を振り切ってでもこの手を取っても良いと自然とそう思えた。

雫槻さんは、その繊細そうな眉をひそめた。それを見ていられずに、そっと目を伏せる。しわくちゃになった、着物と蒲団が目に入った。


「逆に…雫槻さんの方が不本意でしょう。まだ子供の、何も与えられぬような娘など嫁に迎えて…」


最後の方は震えてしまった。嗚咽のように、声がのどに引っかかる。雫槻さんが、こちらへ膝を詰めたのが分かったから。視界に着物の淡い色が、薄い陰に塗られた。そして、ふと、躊躇うように頭の上に温かいものが乗る。それが掌だと分かったのは、雫槻さんの声を聞いてからだ。


「あながちそうでもないですよ」


雫槻さんも緊張しているのだろうか。おずおずと撫でてくれる手が幼子をあやしてくれているかのようだった。記憶にあるより、ずっと大きくて温かだった。そしてふと思い知る。私も雫槻さんも、もう大人になっていたのだと。

私はゆるりと目を上げた。すぐそばにある、雫槻さんのそれとかち合う。掌と同じように、雫槻さんは静かに口を開いた。


「いつだったんでしょうね…確か、あなたが九つか十の時でしたか」


懐かしむように雫槻さんが話し出す。小さい時に戻ったように、瞳が優しくゆるめられた。

それに、ふいにどきりとする。


「花の刺繍をしたハンカチをくれたでしょう」

「花の…?」

「ええ、櫻の花ですよ。初めて自分一人でした刺繍を、僕に」


それを聞いて、ある情景が頭の中に蘇る。

ふりしきる雪の中、息せきって駆ける幼い私。私は元来からとても不器用で、母から教わった刺繍も、一つも満足に成功した例はなかったのだ。

負けず嫌いだったせいもあって、悔しくて、悔しくて、何度も練習した。宝物だった桃色の糸を使って櫻を刺繍したのは、確か全く季節はずれの冬だった。


十歳の頃だ。とても上手とは言えない代物が出来上がったことを覚えている。

けれど、初めて一人で最初から最後までやり遂げたことは嬉しくて、とてもとても嬉しくて、これを雫槻さんに見せようと思ったのだ。

お気に入りの紅の襟巻を大急ぎで巻きつけて、雪が降る中、手巾を握りしめて櫻井さんの家まで行った。さくさくと鳴る雪の音が頭の中に蘇る。


『どうしたの、こんな雪の日に』

『これ、これを見せたくて』


雫槻さんに、あげたくて。

私が作ったものを見て、雫槻さんは本当に嬉しそうな顔をしていた。それは、頬が少し緩んで、唇の端が上がった程度のものだったけれど、私には雫槻さんが本当に喜んでくれたのだと分かった。いつもの静かな目が、とても優しかった。

だから私は、そのハンカチを雫槻さんにあげようと思ったのだ。あの時、私は嬉しかった。刺繍を仕上げた時よりも、ずっとずっと。


「鼻先も、指先も真赤にして、櫻を差し出して、満面の笑みで…」


思い出したような、そんなくすりとした吐息が雫槻さんの口から漏れた。私の鼓動は、いやなしにどんどん高まっていく。


「…櫻みたいだと思ったんですよ。真冬で、あんなに雪も降っていたのに。狭衣さんは、本当にあたたかくてね。陰気で本ばかり読んでいる僕にもね」

「そんな…」

「だから、僕はこれでも結構嬉しがっているんです。母上殿のことを抜きにしても、狭衣さんが嫁に来てくれて」


照れた己を隠すように鼻の下を擦りながらそんなことを言う。


――なんて事だろう。私にはもう、どうすることも出来なかった。

拒むなんて、きっと無理だ。雫槻さんは、すみませんと謝った。それと同時に頭に乗った優しい手が離れていく。熱さだけを残していく。


「…大分意地悪なことを言いました。今日からいきなり取って食おうなんて思ってませんよ」


私は離れて行っては嫌だ、と思った。まだ、触れてほしいと思ってしまった。

なんて浅ましい女だ、私は。

雫槻さんは、ずっとずっと兄のように慕ってきた人。きっと、私が他の人と恋をしそうになっていたことも知っているい違いない。それでも、雫槻さんは優しいままだ。


「…なつき、さん…」


名を呼ぼうとして、喉に声が引っ掛かり失敗する。

胸が痛くてぎゅうと袂を握りしめる。こんなにも、雫槻さんの優しさが痛いと思わなかった。


「狭衣さん?」


慌てたような声が近くに聞こえた。思わず零れた涙を拭ってくれる親指がある。どこか痛むんですか、とこの人は本気でそう聞いてくる。

私は、違います、と首を振るだけしかできない。すると、大きな掌で後頭部が軽く押された。私の頭は、簡単に雫槻さんの懐へと倒れこむ。吃驚する間もなく、雫槻さんの腕が背中へと回された。

息をつめると、それが伝わったかのように、頭を撫でてくれる。

何回も、私を広い胸に抱きこみながら。知らなかった、男の人の体温を間近に感じて胸が鳴った。


雫槻さんは、もう近所の兄さまではないのだ。私の夫、なのだ。

出会ったのはもう十年以上前で。遠い月日を経て、兄弟のような幼馴染でもなく、恋人でもなく、夫婦となった。

けれど、私はきっとその事を後悔したりはしないだろう。

ふと、胸にこみ上げるのは、悲しみでもなく、憐みでもなく、じんわりとした――たとえようのない、温かさだった。

雫槻さんが私に与えてくれる優しさからくるものだ。

今日一日中、私は雫槻さんを真正面からきちんと見ることができなかった。緊張からでもあり、言いようのない不安からでもある。

それを雫槻さんは気づいでいたのだろう。だからこうしてわざと意地悪をして、硬いままの私をほぐそうとしてくれていた。

優しい人なのだ。

私の胸の内から溢れ出てくる温かで優しい気持ちのその名前を、今の私は知らない。


たとえ、突然で、意にそわなかった結婚であったとしても、きっとこの人は、私を大切にしてくれる。ゆるく抱きしめられて、何の躊躇いもなくそう思えた。

きゅっと、単衣の袂を握りしめた。

そこから女の人とは違う、男の人の肌がのぞく。急激に頬に血が集まって、異様に熱くなる。それを隠すように、私は手で顔を覆った。こんな顔、絶対に見せられない。

けれど、雫槻さんは何も言わずにずっと抱きしめていてくれた。時折、背を撫でてくれる手に、身体がどうしようもなく熱くなる。その熱を抱えたまま、私は目を閉じた。


眠りに落ちたのは、いつだったか分らなくなっていた。


その横で、彼が眠れない夜を過ごしたなんて、私には分からなかった。自分のことで精一杯。

彼が随分前から私を好きでいてくれたなんて、知るはずもなかった。


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