一
『…忘れられない、思い出ばかり
別れて今は この並木路
胸に浮ぶは 君のおもかげ
思い出を 抱きしめて
ひたすら待つ身の侘しいこの日
ああ愛し君、何日また帰る
何日君再来』
数年前、若櫻が生まれた時くらいだろうか。その時に流行ってラジオからもよく流れていた曲を、最近不意に思い出すことがある。李香蘭の高い声音が印象的ではあったが、私はその歌詞の方に惹かれたのだ。
経緯はよく分からないが、最近では政府によって歌唱が禁止されてしまった。聴くこともなくなったこの曲を、私はよく心の中で歌っている。流行っていた当時ですら、歌うことなどなかったのに。
歌詞に感化されたのだということは、考えずとも分かっていた。この曲を思い浮かべる時、記憶にある雫槻さんの笑顔も同時に湧き上がってくる。
そうして問いかけるのだ。「あなたは、いつ帰ってくるのだろう」と。
どうしても寂しくなった時は、雫槻さんがくれた物語やお手紙を読み返すことで自分を慰めている。極力、彼からの返事がいつまで待っても来ないことは考えないようにしていた。それを考え始めると、私はすっかり腰抜けになるような気がしていたから。
大丈夫、まだ何の知らせも来ていないと己を奮い立たせることが己の習慣になりつつある。私がしっかりしないと、誰がこの幼い子ども達を守るのかと、毎朝起きる度に両頬をぴしゃりと叩くのだ。
無事に朝を迎えることが出来る幸運を、毎日感じている。
本格的な本土空襲が増える毎に、いつ焼夷弾に焼き殺されるのか、はたまたこの家を破壊し尽くされるのかと恐怖していたその矢先。
それは起こった。
***
昭和二十年の、年が明けてすぐの三月だった。雫槻さんが行ってしまってから、三年が年経とうとしていた頃、東京は火の海になった。
真夜中の空襲警報に、私はそれがただごとではないことが分かった。すぐさま布団から起き上がり、障子戸を少しだけ開けて外を伺うと、重低音の飛行機の音が聞こえてくる。
「――若櫻!若櫻、起きなさい!!」
寝ぼけ眼で起きあがった五歳になったばかりの娘に、枕元に置いてある防空頭巾を渡す。その間に私は双子を抱え起こして急いで着替えさせ、それぞれの頭に防空頭巾を被せた。
ようやく覚醒しだしたのか、若櫻も慌てて着替え始める。
最近は昼日中の空襲もあったから、何をしなければいけないのかは、日ごろからきちんと教えている。
「母さまも着替えるから、非常用の荷物を出しておいて!」
「は、はい…!」
動きやすいように、最近では着物も着なくなっていた。寝る時ですら、最低限の着替えで済むように夜着は来ていない。質素なもんぺだけを履いて、私も頭巾を被る。若櫻が持ってきた四つの荷物をそれぞれに渡して、肩にかけさせる。名札がついたそれは、はぐれてもいいように住所も書いてあった。
「雪成、雪花。来なさい」
今にも泣き出しそうな双子を呼び寄せ、おんぶ紐でお腹側に雪花、背中に雪成を括り付ける。その最中に、雪花は飛行機の音が怖いのか引き攣れるように泣き出してしまった。
「せつ、泣かないの。母さまと一緒に居れば大丈夫だから」
「…わかちゃん…」
「ゆき、へいきだよ。おとこのこだもん」
背中の方で雪成が健気にもそう声を上げる。男が自分だけなのを気にしているのか、しっかりしようと懸命に涙を堪えていた。紐を縛りながら、私は雪成の頭を撫でてやった。前を向いて、雪花の頬も手のひらで温め涙を拭ってやる。
「…若櫻。おいで」
そして、近づいた若櫻を抱きしめた。あまり時間がない。私は子どもたちに言い含めるようにして言った。
「いいですか、三人とも。絶対に母さまから離れないで」
「はい」
「もし母さまに何かあったら」
「ぼうくうごうでじっとしてて、あとでおじいさまのところにいく」
私の後を引き継いで、雪花がそう言った。私は「そうよ」と頷いて見せた。そして、もう一度装備を確認する。
若櫻の手を引いて私は立ち上がった。
「行きますよ。母さまから離れないで」
大規模な空襲だと思ったから、地下室は逆に危険だった。いつもより飛行機の数が多い気がする。
ということは、その分爆弾も多いのだろう。もっと大きく、頑丈な公共用の防空壕でなければならない。私達は真夜中を赤く彩る危険な外へと、飛び出した。
外に出ると、真夜中のはずなのに西の空は夜明けのように真っ赤だった。ここは幸いにも、米軍の狙いの中心地からは外れているようだ。
けれど、周りは逃げまどう人で溢れかえり、一度転けてしまえば蹴り飛ばされることは必至だろう。玄関のところで立ち止まると、私は若櫻を見下ろした。双子は私の身体に引っ付いているからましだけれど、若櫻は違う。
しゃがみこんで若櫻と目線を合わせた。
「若櫻。足元をよく見て。転んじゃだめよ」
若櫻は唇をかみしめて一度こくんと頷いた。
「行きましょう。雪成、雪花。顔を伏せてなさい」
と、その時、近くの家に衝撃が走り、火の手が上がった。もうじっともしていられない。私は若櫻の手を引いて走り出した。
空襲から避難するときは、家財道具は持ち出さないことが絶対。けれど、大通りには荷車を押して逃げる人で溢れていた。そうはしなくても、背中に大きい荷物を抱えている人は多い。そんなものを持って出ても、焼け出されれば何の意味もなさないのに。
ここは駄目だ、と思った。もみくちゃにされて行き詰まってしまう。
「若櫻、こっちへ。はぐれないで」
若櫻の手を引っ張って、大通りから外れた裏通りに入る。
「か、かあさま!そっちは反対じゃ…」
「あそこに飛び込んでしまっては、もしもの時動けないわ!こっちを通って裏山の方へ行くのよ!」
幸い、身近な防空壕は他にも裏山の方にもう一つある。普段使っている方は、市街地に近いからどちらかといえば危険な気がした。これは、この爆弾は家屋を壊すことを目的にしていないのではないか。これは、人の命そのものを狙っているのではないかと、そんな気がした。
上空から焼夷弾が落ちてくる音を背後に、私たちは走った。周囲から火の気配や家が壊れる音がじりじりと近づいてくる。
半ば若櫻を抱えるようにして、駆ける足をもっと速める。段々と煙が充満してきて喉が焼け付くように痛み、肺が悲鳴を上げる。呼吸一つするたびに目の前がくらくらする。
けれど、気力だけで耐えきった。
この子たちだけは、絶対に守る。例え私が倒れても、死んでも、絶対にこの子たちだけは守りきる。
そう思わないと前に進めなかった。そうでないと、雫槻さんにもう一度会うことを諦めてしまいそうになる。
それだけは、絶対にしたくなかった。私は、生きてもう一度雫槻さんに会う。この子たちをその腕に抱かせるまで、私は死ねないと。
約束を、したのだ。例え死にそうになったときでも、生きていたいと思うことで乗り切ってみせると。
雫槻さんは約束してくれた。私も、約束を守らなければならない。子どもたちを頼みますよ、と雫槻さんは私に託した。だから、私は走り続けなければならない。
若櫻の足が段々と縺れてきた。私は何も言わずに若櫻の身体を抱え上げて、全速力で走る。
胸が千切れそうに痛い。身体は鉛のように重い。足の節々を動かすことがこんなにも辛いとは思わなかった。けれど、決して足を緩めることはしなかった。
前方に、よく見知った山が見えてくる。
あの秋、母が亡くなった秋に雫槻さんと一緒に登った山。それから毎年紅葉狩りに行くようになった山。雫槻さんが行ってしまってからも、子どもたちと一緒に登り続けた山。
視界が涙で滲んだ。それを振り切って、子どもたちの熱を感じることで正気を保つ。
ようやく、裏山に作られた防空壕が見えてきた。しかし、それは今にも戸が閉められようとしている。私は最後の力を振り絞って駆けた。
「…っ待って…!!」
その防空壕には、もうかなりの人が詰めかけているようだった。もう、定員一杯なのかもしれない。けれど諦めたらここで子どもたちは爆弾の脅威に晒されてしまう。
それだけは、絶対に駄目だ。転げるようにしてその防空壕の入口に駆け込んだ。
けれど、戸を閉めようとしていた人が叫ぶ。
「駄目だ!もうこれ以上入らない!」
私は扉の前で大きく喘ぎながら、おんぶ紐を解いて双子を降ろした。
「おねが…お願いします!ほんの少し詰めてもらえるだけで構いません!」
「これ以上は無理だ!」
その人の言うことに嘘はないのだろう。いつも大きな空襲の時に利用していた防空壕は比較的広く作ってあった。けれどここは、山の斜面も邪魔して十分な空間がとれないらしい。奥の人は身体を縮めるようにして、恐々としている。
「早く閉めてくれ!この付近に爆弾が落ちたら皆死んじまう!」
誰かがそう叫んだ。その瞬間、私の中で何かが事切れた。
「私は構いません!!どうか、どうか子どもたちだけでもお願いします!!!」
声を聞いた瞬間に、掠れた声で目一杯叫んでいた。喉の奥で血の味がする。それに構っている暇はない。
「どなたか子どもたちを抱いて下さるだけでいいのです!私は、子どもたちが助かればもういいですから!!」
私は、ただただ必死だった。涙が溢れそうになったけれど、何とか押し込めて中にいる人を見上げた。懇願とも睨んでいるともとれる目で。
しばらく、誰も何も言わなかった。もう、私に走る力は残っていない。そして、この近くの防空壕はもうどこも一杯だろう。ここでないと、この子たちは助からない。
この空襲の規模は尋常でなかった。恐らく、今までで一番大きいものだろう。
「…お願いです。私はいいですから、この子たちを」
今一度、静かにそう言った。戸を閉めようとしていた人の瞳が一瞬揺れた。
その時。
「――櫻井さん。お子さんたちを、こっちへ」
はっと目を上げる。奥から人を押しのけて出てきたのは、どこか見覚えのある顔だった。
「あ…」
随分前に、千人針を頼んできた近所の婦人会の代表の人だ。あれから時は幾らか経ったけれど、その顔は何とか覚えていた。あちらもそうなのだろう。
私に向かってすっと手を伸ばしてきた。
「お早く。時間がありません」
はっとして、私は頷いた。そうだ。今は時間がない。昔のことを思い出すよりも、子どもたちを行かせなければならない。私は、私の服の袖にしがみついている子どもたちを促した。
「若櫻、雪成、雪花。行きなさい。ご迷惑をかけないように」
そう言うと、雪成がぶんぶんと首を振った。
「いやだ!かあさまもいっしょでしょ?!」
「雪成、母さまはもう入れないの。あなたたちだけでも行きなさい」
「いや!せつもかあさまと、いっしょにいく!」
「雪花。時間がないの。聞き分けて」
そう諭していると、焦れたのか戸の側に立つ人が言った。
「早くしろ!」
女性が何人か後ろから雪成と雪花を抱き上げる。
「いやぁ!」
「かあさま!」
その叫びにもう一度抱きしめたくなったが、厳しい面持ちで見送る。立ち上がって、その場にいる若櫻を見下ろした。気丈に、私を見上げる娘を。
「…若櫻。雪成と雪花をきちんと守って。おじいさまの家の行き方は、分かるわね」
「…は、い…」
絞り出したそれは、もう泣き声だ。それでも必死に泣かないようにぶるぶると震えている。私はしゃがんで若櫻を思いっきり抱きしめた。小さな、まだ五歳の小さな体から耐えきれないように嗚咽が漏れた。
「大丈夫。母さまは、父さまとの約束を果たさないといけないから」
「…っく」
「まだ、死ねないわ。大丈夫。すぐ、母さまも行きます」
ぽん、と背中を叩いて立ち上がった。奥の方では、まだ双子の泣き声が聞こえている。ごめんね、と心の中で謝って扉の取っ手を持っている人に頷いて見せる。
「山の中腹に、大きな樫の木がある。その裏手の洞なら、しのげるやも知れん」
ぶっきらぼうな声が、唐突にそう教えてくれた。けれど、私は有り難くその忠告を聞くことにした。その木なら分かる。距離もあまりない。若櫻が手を差し伸べて下さった女性に抱き上げられた。
それを見送った後、扉は私の目の前で音を立てて閉じられた。
作中の歌は「いつの日君帰る」です。
元々中国の歌ですが、日本語訳詞され当時の歌手が歌い、流行したそうです。




