二
***
ぼろぼろと落ちていく涙が止まらない。あの人が綴った愛おしい文字が涙でかすんで見えない。
真白い夜着に、点々と散る涙がしみこんで冷たくなる。それでも、思うことは馬鹿みたいに一つだけだ。
「…あいたい…」
心の中でどれ程名を呼んだだろう。ふとした瞬間、私は心の中で雫槻さんの名を呼び、語りかけることが習慣になっていた。離れて一年ほど経とうとしている、雫槻さんの名を呼ばない日など一度もないのではないかという位に。私の中にあるのは、あの人に会いたいという想いだけだ。
私はあまり長くはないその物語を抱えて、その場に蹲った。雫槻さんが一日の大半を過ごしていた、書斎の真ん中で。いなくなってしまった雫槻さんの気配を探りながら。
雫槻さんはここで日がな一日、ずっと文字を綴り続けていた。四季が巡る中で、その尊さをいとおしむように、ずっと物語を紡いでいたのだ。指に出来たペンだこは、雫槻さんの勲章のようなものだと、私は常々思っていた。
抱きしめた原稿用紙から淡いインクの匂いが香り、それが鼻をつく。インクの匂いは、雫槻さんの匂いだ。ふと近寄る度、彼の着流しから香る匂い。私が大好きな彼の匂い。彼が傍にいるのではないかと、勘違いしてしまいそうになる。
止めどなく流れ落ちる涙を拭って、鼻もすすった。ぼやける視界の中、流麗に書かれた雫槻さんの文字を見つめる。
「…櫻姫…」
その題名を見て、自然と笑みが零れる。雫槻さんが恋愛の類の物語を書くことは、珍しい。
というか、初めてではないだろうか。ずっと森鴎外のような小難しい話ばかり書いていて、正直、私には難しすぎてよく分からなかった。
けれど、こんなにも情感溢れる物語を私にくれるなんて、思いもよらなかった。ずっと、雫槻さんにとっての桜は若櫻だと思っていたから。雫槻さんにとって、私は春であり、桜であったのだ。
あの強い桜のようだと思ってくれていた。愛おしいと、言ってくれた。
それだけで、こんなにもくすぐったくなる。日々子育てや家事に悪戦苦闘し、疲れ切っている私自身に誇りが持てる気がした。
雫槻さんは私を喜ばせる天才だ。どうしようもなく嬉しい想いと、会いたいという焦がれる想いが交差する。
目じりに残る涙を拭い、スリガラスから覗く淡い満月を見上げた。
今、彼は無事だろうか。死にかけてはいないだろうか。今この瞬間も、私たち家族のことを考えてくれているのだろうか。
――生きたいと、思ってくれているだろうか。
雫槻さんの顔を思い浮かべるだけで、示し合わせたかのように胸が苦しくなる。ぎゅっと原稿用紙の束を抱きかかえることでそれを耐えた。耐えることには慣れていたはずなのに、この時ばかりは拭っても拭っても、涙は止まらなかった。
嬉しいけれど哀しくて、恋しくて。
どのくらいそうしていただろう。嗚咽が喉の奥で鳴ったとき、小さな声が書斎に響いた。
「…かあさま…?」
はっとして障子戸のほうを見てみると、目をこすりこすり、長女の若櫻が立っていた。けれど、私の姿を見ると吃驚仰天して、目も覚めたようにこっちに駆けてくる。
「かあさま、どうしたの?おなかいたいの?」
「…若櫻…」
私のもとに来ると、膝の上に上がり抱きつくように小さい身体を押しつけてきた。母が泣いていることは、幼い彼女にとって天地がひっくり返るほどに衝撃的なことに違いない。極力子どもたちの前では、感情の起伏を大きくさせないように注意していたから尚更だろう。
「若櫻…ごめんね、大丈夫」
三歳になったばかりの娘の頭を撫でてやると、吃驚したのか、怖かったのか、ぎゅうと胸に頭を擦りつけてきた。
しまった、こんなことでは雫槻さんに怒られてしまう、と私は必死で若櫻を抱きしめた。
「…ほんと?」
「うん。本当。母さまが居なくて吃驚したの?」
そう尋ねてやると、こくりと頷いた。
まだ甘えたい盛りの年齢なのに、若櫻は必死に姉になろうと双子たちの面倒を見てくれる。父親がいないのも、会えないのも、きちんと分かっている。妹や弟が生まれると赤ん坊返りすると産婆さんが言っていたけれど、本当に若櫻は優しくしっかりしたお姉さんだ。
けれど、思い出したかのように偶にこうして思い出したように甘えん坊になる。私が双子の乳児にかかりっきりになっていて、そういう時にこうして抱きついてくる。それを心底愛おしく思いながら、若櫻を抱きしめた。
父がいないことを理解しているからか、若櫻は自分の立場や役割を賢いくらいに分かっている。
私は、本当にこの子に支えられているのだ。
「かあさま、どうして、えんえんしてたの?」
落ち着いたのか、若櫻は顔を上げて私の顔をのぞき込んできた。どうして泣いていたのか、と聞いているのだろう。その目はぱちくりとしていて、冴えてしまったようだ。母としては、気弱に泣いてしまった姿を晒すのは、どこか気まずい。
けれど、若櫻は「何でもない」と言ってもきっと納得しないのであろう。そういうところは、雫槻さんの気質を継いでいるともいえる。そう、若櫻は雫槻さんによく似ていた。
私は少し苦笑しながら、若櫻を抱きしめた。
「…ちょっと、ね。お父さまに会いたいなぁって、思ったの」
「とうさま?」
「そう。わかちゃん覚えてる?」
私がそう尋ねると、若櫻は急ににっこりと笑って大きく頷いた。
「うん!わかね、とうさま、だいすき!」
「だいすき?」
「うん!とうさまはね、わかのこと、たくさんたかいたかいしてくれるから、だいすき!」
それは、雫槻さんがよく若櫻にしてやっていた遊びだ。両手に抱いた若櫻を空の方へと精一杯押し上げるように。時にはそのままくるくる回ることさえした。それをする度に、若櫻はきゃっきゃとはしゃいでいた。目を細めて若櫻を見上げていた雫槻さんの姿が簡単に眼裏に浮かぶ。
今ここに雫槻さんがいたら、泣いて喜ぶだろう。彼は、本当に親馬鹿なくらい若櫻を可愛がっていた。
生まれて間もなくから、嫁に出すときのことを心配するほどに。それを思い出すと、またすぐに涙が浮かんできてしまう。私はそれをひた隠しにして、「そう、父さま、大喜びするね」と若櫻に微笑んだ。
けれど、若櫻の目はそんなに簡単には騙されなかった。またしても涙を浮かべてしまった私に、若櫻は眉を「ハの字」にした。
「かあさまは、とうさまにあえないから、えんえんするの?」
それには頷くことは絶対に出来ない。母親の矜持は私にもある。もうこれ以上、子どもの前で弱い自分を見せることは出来ない。私はそれに「大丈夫よ」と笑って答えた。
「母さまには、若櫻も雪成も雪花もいるから、大丈夫」
それに、お義父さまもお義母さまも。雫槻さんの弟や妹たちも。
母さまは、あなたたちを守らないといけないから、もう泣かないよと、そう付け加えるけれど、若櫻は次には頬を膨らませていた。
「…とうさま。はやくかえってこないと、かあさまがまた、えんえんしちゃうのに」
「若櫻…」
そんなこと言っちゃ駄目。父さまは、遥か彼方の地で、命がけで戦っていらっしゃるのよ。
そう言おうとしたけれど。抱っこしている若櫻の目にも、涙が浮かんでいた。
「…わかも、はやく、とうさまにあいたいのに…」
ふええ、と小さな泣き声を上げて若櫻は私に抱きついてきた。小さな身体が、小さく震えている。私は何も言うことが出来ずに、その身体をただぎゅっと抱きしめた。
寂しいのは、決して私だけではない。
父が恋しい若櫻も。いまだに父を見たことがない雪成や雪花も、その想いを持つことだろう。父の居ない現実に向き合う時が来る。
そして雫槻さんのご家族もそうだ。深槻ちゃんなどは、特に雫槻さんに懐いていたから。ここに顔を出すたびに「早く帰ってこないかな」と心待ちにしている。
皆、願うことは一緒なのだ。生きていてほしいと。帰ってきてほしいと。
ここに残る私たちは、それを願うことしかできない。その想いを口に出すことはできない。
どこに憲兵の目があるかも分からない。今ではご近所の目さえも気にしなくてはならない。
それは、私たちに突きつけられた現実。目を反らすことの出来ない、現実だった。
「…ね、若櫻」
呼びかけると、ぐずるように私の胸の中でぶんぶんと頭を振った。
「若櫻、父さまに会いたいよね?」
その問いには、大きく一回首を縦に振った。
「母さまも、会いたい。だから、お祈りしてようね」
「…お、いのり?」
「そう。毎朝してるでしょ?お写真の父さまに、おはようございますって。今日も無事で頑張ってくださいって」
「うん」
「父さまね、頑張れるんだって。若櫻や雪成や雪花のこと考えると、生きて帰ろうって思えるんだって」
若櫻は甘えたい時の癖で、指を吸いながら私の方を見上げた。普段はしっかりした長女だが、この子もまだ幼児なのだ。
「そうなの?」
「うん、そうよ。だから、若櫻は父さまが無事に帰ってこれるように、毎日お祈りしてあげようね」
ただの気休めにしかならないかもしれない。けれど、その行為はいつの間にか習慣になっていた。
雫槻さんが出征する前に家族で撮った写真。そして、雪成と雪花が生まれてから四人で撮った写真が居間に飾られている。唯一雫槻さんの姿を確認できる、その写真。
その写真に向かって語りかけることは、私の習慣だった。それを若櫻も真似している。
ずり這いをし始めた雪成と雪花を連れてきて、「ゆき、せつ。あれがとうさまよ」と言って。
まだ双子には分からないだろうに。
それでも、そうすることで雫槻さんの存在をきちんとこの子たちに教えてあげることができる。
そして、その祈りはきっと遠くの雫槻さんにも届いているのだろうと、そう感じることができる。
私は、もう子供たちの前では泣くまいと心に決めて、頬を擦った。腕の中では、さすがに眠気がやってきたのか、若櫻が夜着を握りしめてうとうとしていた。
起こさない様に立ち上がって、寝室まで若櫻を運び、双子が眠る傍に横たえてやった。けれど、私の夜着を握る手を解くことが出来ない。少しだけ考えたのち、今日だけはと、私の布団の中に若櫻を入れその横に身を滑り込ませる。
不甲斐ない母の姿を見せてしまったお詫びに、ぎゅっと若櫻を抱きしめて目を閉じる。
普段は別々の布団で休んでいるが、今日だけ特別。いつも母を助けてくれる娘を、甘やかしてやろうと、柔らかい前髪に口づけた。
***
「-雫槻さん、お元気でしょうか。ついに本土でも空襲が始まってしまいました。時折空襲警報が鳴って、私も一人で不安な時もありますけれど、でも大丈夫です。
雫槻さんが作ってくださった地下倉庫が、防空壕の代わりにもなってくれています。
若櫻も雪成も雪花も元気です。勿論、私も。畑の野菜も定期的に保存をして緊急時に備えるようにしております。今のところ食料面でどうしても困ってしまう、ということはないので、どうぞ安心してください。
病気も心配には及びません。子どもたちは、こんな状況下でもお庭で泥まみれになって遊んだりと、本当に元気な子たちばかりです。ようやく双子たちも言葉が分かるようになり、二人同時に同じ言葉を喋るのですから、とても感心します。
雫槻さんは、いかがですか。怪我や病気などされてはいませんか。
お返事を急かす訳ではないのですけれど、最近はお返事の間隔が大きくなっているので、心配しています。
少しだけ。我が儘を言ってごめんなさい。我慢のきかない妻で、ごめんなさい。
でも、待ってます。いつでも、あなたを想って待ってます。
どうぞ、気をつけて。
追伸
あの物語を読みました。貴方のために、子ども達のために、強い私であれますよう。
昭和一八年十月十二日 狭衣」
その返事は、終ぞ、来なかった。




