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櫻姫  作者:
昭和十八年
17/28


――私は、雪成に乳をふくませながらその手紙を読んだ。今日の夕方届いたばかりのそれ。前の手紙から大分時は経っていたけれど、確かに戦地にいる雫槻さんから届いた手紙。

双子の世話や若櫻の入浴などで手が空かず、子どもたちが寝静まる時間、ようやく今になって読めたのだ。そこには思いがけないことが書いてあった。「私のための物語」が書斎にあるという。

私は少々慌て気味に雪成に乳を飲ませて寝かしつけた。隣では、すでに若櫻と雪花が寝息を立てていた。

そこに雪成を加えると、私は小走りで雫槻さんの書斎へ向かった。雫槻さんが出征してから、定期的に掃除はしていたけれどやはりそこには人気はない。基本的に雫槻さんの私物や仕事道具には極力手を触れないようにしていた。落としたり壊したりしたら大変だから。


主を失った部屋は、物はあってもどこかガランと淋しげだった。私は暗闇を振り切るようにして、文机へと歩を進めた。年季の入った飴色の机だ。古物市で買ったようで、引き出しなどは角が取れて丸みを帯びてる。

雫槻さんのこの大切な仕事仲間だけは、雫槻さんから見せてもらったから、私はよく知っていた。

一段目には筆記用具。

二段目には仕事予定の書き込まれた手帳。

そして三段目…一番下には、白紙の原稿用紙。

そっと、一番下の引出しを引いてみる。かたん、と滑らかにそれは滑った。中には、綴じられた原稿用紙の束があった。溢れるような白紙原稿はなく、それだけが真ん中に置かれている。

私は震える手で、それを取った。

ゆっくりと二つ折りにしてある原稿の束を開く。


そこには、墨で控えめに『櫻姫』と題字が記されていた。


「…さくらひめ…」


ぽつりと呟いた声は、暗闇の中に溶けていく。目に映るのは、達筆な雫槻さんの字。

手紙の中で、私のための物語と言っていた。誰のためでもなく、私の。

私は眉間に力を込めて、ぎゅっと原稿用紙を握りしめた。押し殺そうとしても溢れ出てくる感情を、最近は私も上手に扱うことが難しくなっていたのだ。


(雫槻さん、もう私限界がきているようなのです…まだ一年も経っていないのに。)


戦争は続いている。暮らしは一向に良くはならない。その中で、女一人で家族を支えることは容易くはない。

我慢できずに私は一枚目をめくった。

静かに。


***


『櫻姫』


『――真白な雪の中から舞うように走ってきた少女は、さながら春に咲く櫻のようであった。紅の襟巻をした少女は、私に一つの白いハンカチを差し出した。

そこには、桃色の刺繍が刺してあった。櫻の、いびつではあるがきちんと花弁が五つある刺繍である。少女は、嬉しそうにはにかみながらそれを私にくれると言った。初めてできた、大切なものでしょうにと言うと、だから兄さまにあげるのですと返って来た。

雪が降りしきる中、少女の櫻のような笑顔が咲く。赤らの頬に雪が触れると同時に溶けていく。

胸の中心が、灯りがともるように温かくなったことは、きっと死ぬその時まで忘れることはないのであろう。


この瞬間から、少女は私にとって特別な存在になった。少女は、私にとっての春であり、櫻でもあった。たとえその時が、冬であろうと夏であろうと。彼女が私の春になった。

私が十七の年の冬だった。


しかしそれからは、家を一旦離れて本格的に自活の道を歩くようになった。そんなに大それたことではなかったので、詳しくは割愛させていただく。私は両親に反対されたのを随分強引に振り切って、小説を書き始めた。

家を離れるという事は、自然向かいに住んでいた少女とも離れることだ。静かな家で一人、ずっと物を書き続けていた。その間も、少女の事をよく考えていた。

今頃どうしているだろう、とか、学校ではどうなのだろうとか。

年に数回しか顔を合わさなくなっても、よくそう考えていた。まるで初恋を覚えた少女のようだと、女々しいと思ったことも少なくはない。それでも、密かに静かにこれからもこうして暮らしていくのだと思っていた。

私はこれからもこの家で、一人小説を書き、時折少女の事を考え、見守っていくのだろうと。

けれど、五年の後、少女は美しく成長し、あろうことか私の妻になった。

その結婚は、彼女の母上からの申し入れであった。

少女の母上は結核で、長くないと分かっていたから、生きているうちに娘の晴姿を見たいのだと頭まで下げられた。頭を下げる相手を間違っているだろうと思ったが、口には出せない。

少女は一体どう思っているのかも、分からなかった。静かな居間で、訪ねてきた彼女の母上が必死に言い募る。


正面で頭を下げる少女の母上を呆気にとられて見つめていた。けれど、もう答えは決まっていたも同然だった。驚くほど、自分の中できっぱりと決意が出来た。

娘さんをどうぞ私に下さい、とするりとそれは口から出た。大切に、幸せにするよう努力しますと、何を思ったかためらいもなくそう言えた。

下げていた頭を上げて、胸を疼かせた。それは心の中に咲く櫻が自分の傍に来るという、言いようもない歓喜だったのかも知れない。

私は、顔を上げた少女の母上の涙をきっと、死ぬまで忘れないのだろう。


婚儀の最中のことはよく覚えていない。柄にもなくひどく緊張していた。羽織袴など、履く機会もないと思っていたのに。

隣に座る少女も無口だった。しばらく見ない間に随分と美しくなり、白無垢がよく似合っていた。

今日からこの娘が己の妻となるのか。何だかとても信じられなかった。

母上の申し入れを二つ返事で受け入れておきながら、何とも情けないことだった。

けれどやはり、少女にとって早すぎるであろう結婚は、明らかに彼女を戸惑わせていた。閨に布団を敷き、儀式のように身体をかぶせれば、落ち着きなく目を彷徨わせる。

躊躇っているのなら、そのまま押し進めるつもりだった。自分は少女を求めていて、少女のちょっとした躊躇いは、是という答になるのだと分かっていた。

しかし、彼女は怯えていた。どこにも逃げ場がない兎のように、細かく震えていた。

途端に私は後悔し、すぐさま少女を離した。

この時になって初めて、私は今回の婚儀を後悔した。同時に恥じた。

少女の気持ちなど、少しも考えていなかったことに。己の欲を優先したことに。

ただ自分の中で勝手に幸せにできると、信じてしまっていた。そして、彼女の母上を安心させてやれると。

それは、思いやりなどではなく、自信を履き違えた傲慢だ。そう思うと、嫌な汗が流れた。もう少女には触れられないと思った。

彼女には、まだやりたいことも、たくさんあっただろうに。たくさん学びたいこともあっただろうに。

――恋も、したかっただろうに。


十七という年頃な年齢だったから、好いている人もきっといただろう。少女は、少女の母上の願いを叶えるためだけに、私に嫁いだ。

そう思うと、幼気な彼女に背を向けたくなる。実際、臆病な私は背を向けてしまった。こんなに小さい体に、何と重いものを背負わせてしまったのか。

私は、わざと少女を突き放すことしか出来なかった。己の可愛さあまりに、本当はそんな事を望んでもいないのに、彼女と触れ合う時間を避けようとした。

少女が泣くから、部屋を分けようと言ってみたり、自分が暴力を振るったことにして出戻りを勧めてみたり。

今思えば、あの時は全てが空回りで、正直己の弱さに身がよじれる思いもした。けれど、そんな傲慢な私を、妻は許してくれたのだ。こんな情けない男の元に嫁いだことを、後悔しないと言う。

とうとう私は負けた。少女に、そして己の中の醜い自分に負けた。

本当の意味での妻として、女として少女を求めた。その時にはもう、少女は幼いままの少女ではなくなっていた。

立派に成長をした一人の女性だった。私が唯一愛する妻だった。いつの間にやら大人になって、初めて抱きしめてその柔らかさに密かに涙したのだ。


私はふとした瞬間、妻が河原で誰か知らない男に叫んでいた言葉をふと思い出すことがある。


「私は、あの人の妻だから、あの人の傍にいると決めた。私は私なりのやり方であの人を愛していきたい」


私は――ひょっとすると受け入れられているのかもしれない、と初めて実感できたのはその時だった。妻は、私よりも五つも年下で、時折朝寝坊したり鈍感なところもあるが、実は私よりも余程大人なのだ。自分のするべきことをきちんと分かっている。その上で、自分のしたいことも十分分かっているのだ。

自分の手で、幸せを掴もうとしている。もちろん私は彼女を幸せにするつもりだが、存外に逆かも知れない。二人で共に、歩くことで満たされる幸せ。私は彼女の言葉一つ、笑顔一つでもうすでに満たされているのだ。

そのことに気付いて、妻の存在自体に深く感謝した。そして、新たに妻のことを思った。


貴女は、私の愛すべきもの。櫻のような貴女。

女々しいかもしれないが、これが今の私に出来る精一杯の恋文だ。あなたがそこにいて、笑ってくれることが、私にとっての幸せになった。出来た言葉など、今まで一度もかけてやれなかったかもしれない。

それでも、心の中で妻はいつまでも愛おしい存在なのだ。

一番大切で、一番美しい。そう、それはまるで櫻のようだと、ハンカチをもらった時からそう思っている。


今、出征を目前にしてこれを書いている。この六年の月日、とても幸せだった。

妻が身ごもり、娘が生まれ、両親と命名権を争い―

ようやく立って歩こうとしている娘を見ると、これが最後かもしれないという思いばかりが沸き立つ。そう思うから、素直に生きていたいと考えている。死を迎えようとも、妻を思い娘を思う事で切り抜けてみせる、と。

私は強くはない。この半生、筆ばかり握っていた。けれど、何物にも勝る強さを心の内に持っていたいから、こうして二人を残せて行ける。

必ず帰ると、口ではとても言えない。兵隊は死にに行く覚悟が絶対必要なのだから。どれだけ平和を願っていても、戦争は起きて、私は戦地へ向かう。

戦地へ向かえば銃を握る。刀を振り回す。誰かを傷つける。死に追いやる。

そして私自身も然り。けれど、生きていたいと思えたなら。例え死んでも、春の風になって二人の元へきっと帰ることが出来るだろう。

ゆっくりと穏やかに二人を見守っていけるだろう。


―私の大切な妻へ。

いつもいつも世話ばかりかけてすまない。

そして、娘をあなただけに任せるようになってしまったことも、どうか許してほしい。

それでも私は、ずっとあなたを想い描こうと思う。どんな時でも、どこにいても。

死んでも貴女はずっと愛おしい存在であろう。

有難う。

私は、春のような、櫻のようなあなたをとても誇らしく思う。


昭和十七年 卯月


書斎にて


櫻井 雫槻』





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