二
雫槻さんが夜に少し時間が欲しいと言った意味は、程なく知れた。私はそれを見た瞬間、唇を強く噛み締めて震える息を吐いた。喉元までせり上げた声は、けれど押しつぶされて外に出行くことはついぞなかった。
本当は叫んでしまいたかった。「どうして!」と。
――雫槻さんが私の前に差し出したのは、紙だった。直接届けられたというそれは、血の色に染まっていた。内容は、雫槻さんを陸軍へ徴収する、というもの。
充員召集を下す紙。ただの紙。けれど、私にとっては最も恐れていたもの、そのものでしかなかった。もはや何物だかわかっていても、視界に入れたくない。
けれど、それは赤々として嫌でも目に留まるのだ。
私たちは若櫻が寝静まったあと、寝室でそれを中心にして向かい合っていた。どちらとも口を開かない。
私は眉間に力を入れて目を閉じていた。見たくない、聞きたくないことが多すぎた。
どうして、とそればかりが頭の中を巡る。考えることと言えば、戦地に行ってしまう雫槻さんを、死にに行くのも同然の雫槻さんをどうやって送り出せというのか、そんなことだった。
栄誉なことだと笑ってだろうか。頑張ってきて下さいと手を振って送り出すのだろうか。
――そんなの、私には到底出来そうにはない。
けれど、必ず帰ってきてください、なんてもっと言えない。私には、もう言い得る言葉など微塵も残っていない。引き留めたいと思うのに、その言葉すら出てきやしない。
「狭衣さん」
だから、雫槻さんの呼ぶ声にも応えることが出来ない。口を開けば、今は情けない言葉しか言えない。泣き縋ってしまいかねない。いつかのあの日のように――雫槻さんに「頼みましたよ」と言われた日のように拳を作る。
耐えろ、と心の中で念じる。雫槻さんは頑固に何も言わない私を見やって、淡々とこの紙が私と若櫻の留守中に届けられたと言った。招集は1週間後ということも付け加えられた。
桜が咲き始めていた。若桜の二歳の誕生日を迎えたばかりだった。ちゃんと立って歩いて、おしゃべりも達者になって。
戦争という影が忍び寄っていても、幸せな日々だった。それを糧に、ただ恐怖を閉じ込める。
泣くな、泣くなと自分に言い聞かせる。
「…狭衣さん」
けれど、ふと悲しげな声が耳をついた。頑なな私の中で、雷鳴のようにその声が鳴り響く。その次には、もう抱きしめられていた。紺の、いつも着ている着流しが目の前にある。
いつもは私を慮って、緩く力を入れる程度だった腕が今日は力の限り私を抱きしめている。
「…声を、あなたの声を聞かせてくれませんか。顔を見せてくれませんか」
息もつけないほど抱きしめられているのに、雫槻さんはそんな事を言った。ぎりぎりと骨が軋む。
けれど、痛い、とは思わなかった。ただただ、くるおしいのだ。
目の前の人を守る手立ても術もなくて、ただただ悔しい。
私は暫くの間、雫槻さんの肩口に顔を埋めて、皺がつくほど着物を握りしめた。
そして、如何程の時が経っただろう。自然と口から零れた言葉は、私の中で今あるたった一つの願いだった。
「…生きて」
「狭衣」
「生きていて、ください。雫槻さん」
「……」
「ごめんなさい、こんなこと言っちゃ駄目なことは分かってます。でも…せめて、生きたいと思っていてください…どんな所にいても、帰れそうになくても、死にそうになった時も…お願いですから」
雫槻さんの背に手をまわし、抱きしめ返した。手の震えを収めることができない。涙をくい止めて、必死に言葉を絞り出した。
その根っこにあるものは、ただひとつの想いだけだ。この人を守りたいという、それだけ。
私は目の前の紺に頬をすりつけた。それだけで、途方もなく安堵する。私は、こんなにもこの人を必要としている。
この人を失うことなど、考えられない。
きっと雫槻さんは、約束できないのだろう。だから黙っている。「必ず生きる」とは、何と難しい事なのだろう。
けれど、今の私にはこの言葉しか出て来なかった。
「お願いですから…生きようと、思ってください」
そう言い切った瞬間、後頭部に大きな手のひらを感じた。そのまま、掴んでいた雫槻さんの着物の袷から上に引き寄せられる。
かさついた唇が重ねられた。感じる震えは、私のものかもしれないし、雫槻さんのものかも知れなかった。ただ、それすらも愛おしくて私は夢中で唇を押し付けた。呼吸をすることすら惜しかった。
長い時間そうしていて、唇を離してようやく聞き取れた言葉は、やはりどこか震えていた。
雫槻さんは私を抱きしめたまま、耳元に声を落とした。
「…すまない。あなたと若櫻を…傍で、この手で守りたかった…守らなければならない役目が、僕にはあるのに。あなたたちを残して行くことだけが、僕の未練だから…だから」
一旦、身体が離された。頬が両手で包まれる。見上げると、初めて見る雫槻さんの泣きそうな顔。
―ああ、とその時気づいた。きっとこの人も、怖いのだ。いつ死ぬかも分らない戦地へ行くことは、きっと心の奥底で誰にとっても恐怖なのだ。
月明かりを通して、雫槻さんの瞳を見て分かった。私と同じくらい、雫槻さんも怖い。
きっとそれは、死の恐怖だけではなく、大切な者たちから引き離されて、守れないまま終わってしまうのではないかという恐怖。
こういうものは、きっと望んでするものではないのに。今の私たちには、他の選択肢は残されていない。
「狭衣さん…あなたも、若櫻もどうか生きていてください。例え、僕が死んで戻らないようなことがあっても。どうか生きて、生きているその幸せを若櫻や…できれば、若櫻に子どもができても伝えて下さいませんか」
雫槻さんの、その願いはあまりにも残酷だ。それを守るとすれば、雫槻さんが儚くなっても、私には後を追うことも許されない。私は雫槻さんの妻であると同時に、若櫻の母でもあるから、若櫻を育て上げることに責任がある。
雫槻さんはこの地を離れてしまうから、若櫻の傍でそれを果たすことが出来ない。
「僕はきっと、戦地に行けば人を殺すでしょうし、もちろんその逆もあります。それでも、生きていたいと願いますから…あなたと、若櫻にもう一度会いたいと」
肩口に雫槻さんの額が下りて来た。その様は甘えてすがりつく子どものようだ。
私は、ゆっくりと雫槻さんの頭を抱きしめた。髪の毛に指をからめて頬を寄せる。
戦争に自ら志願する人は、こんな甘えたことをしないだろうし、考えもしないだろう。
そういう人を、私はとても強いと思う。けれど、雫槻さんは弱かった。私はその弱さを心底愛おしいと思う。
生に執着することを卑しいとはどうしても思えなかった。私たちは、若櫻が元気に産声を上げて精一杯呼吸しながら生まれてきたことを知っている。何よりも愛しい子が、毎日を生きて成長してきたことも見ている。日々新しいことが出来るようになる娘の笑顔を守り通さないとならない。
だから、分かっている。
あがいて得る生も、また美しいのだと。生きているだけで、本当は素晴らしいのだと。皮肉にも、雫槻さんに招集が来て、そのことを思い知る。
だから私は、決意した。雫槻さんが、きっとここへ帰って来ようと思えるように送り出そうと。
いつの時でも、彼を思って祈ろうと。
そして、私も死にはしない。娘も決して死なせない。
生きてみせる。
そう思って、抱きしめた。抱きしめ返してくれる腕に身を委ねた。雫槻さんが、私の首筋に唇を落とすのを感じながら、私も同じようにする。
祝言を挙げてから、早くも六年が経った。私は二十三になり、雫槻さんは二十八になった。
その六年の間、何度も身体を重ねて、何度も雫槻さんは私を愛しんでくれた。若櫻が生まれてからは、殊更に。私は、雫槻さんの身体に私という存在を刻みつけた。顔に、腕に、私の好きな鎖骨にも。
それと同じだけ、雫槻さんは私の身体に彼という存在を刻んだ。何度も、何度も。
私が耐えていた涙を流すまで。私が、小さく限界の声をあげると、また深く抱きしめてくれた。
私は雫槻さんの腕の中で闇に飲み込まれた。
ずっとずっとそうしていたかった。何者にも邪魔されることなく、ずっと殻に閉じこもっていられたらどんなに幸せだろう。雫槻さんと若櫻の三人だけの世界で。
それはとてつもなく幸せで――けれど、叶わない夢だと、もう口に出さなくても分かっていた。
そして、それから丁度一週間後。
髪を切り、軍服に身を包み、私と若桜の写真を胸ポケットに入れて、雫槻さんは行ってしまった。
明確な任地も明かさないまま。雫槻さんですら、その道行きはどうなるのかも分からないのだろう。
小さな若櫻でも分かるのか、泣いていた。大好きなお父さまになかなか会えなくなるのを、彼女なりに理解していたのかもしれない。
そんな愛娘を、彼は精一杯高い高いをして、私に託した。
行ってくる、若櫻を頼みましたよと。
私は泣かなかった。最後まで我慢した。はい、と良い妻らしい返事をした。笑顔すら見せることだって出来た。
「行ってらっしゃいませ。ご無事を、ご武運をお祈りしています」
髪を一筋取られて、狭衣、と呼ばれた。
約束を、と。
私は頷いた。雫槻さんも頷いた。そうして、満足したかのように背を向けて足を踏み出した。
私は、彼が見えなくなるまでずっと頭を下げていた。送り出すことが出来た、そうできた自分を、初めて褒めてやりたいような気もした。
その後、ようやく泣いた。若櫻を抱きしめて、彼の生をただただ願った。
それしか出来なかった。




