一
私は若櫻の成長を見ながら、この幸せな日々はずっと続いて行くのだろうと馬鹿みたいに思っていた。それこそ、永久に変わらず、ずっとずっと。
雫槻さんが居て、若櫻が居て。時々は優しい雫槻さんの弟妹やご両親に助けられながら、この生活を紡いでいくのだろうと。
いずれ若櫻が大きくなって、学校へ行くようになって、お嫁に行くようになって。この日々を、変わらず三人で生きていくのだろうと。
そう、思っていた。否、そう信じていたかったのかもしれない。
昭和十六年になった。この頃になると、夏からにわかに外国との戦争が激しくなっていく。米国や英国が日本への石油輸出を禁じたことにより生活は少しずつ苦しさを呈していくようになった。
米国との御前会議は破談。それに伴う軍部の台頭で、国も政も変わってきている。
中国との戦争も早四年を迎え、どうにも収まりのつかないどろどろとした空気が漂っている気がした。
雫槻さんは、毎日の新聞に載る情報の数々に眉を顰めている。私たち夫婦の心配事は、ただ、子の成長のことのみだ。まだ危機的状況ではないにしろ、これからのことを考えると、どうにも不安がある。
若櫻は三月に一歳の誕生日を迎え、よちよちと歩きだしたばかりの時期。まだまだ食べたい盛り、遊びたい盛りの娘に我慢を強いてしまうことが、何よりも心苦しい。
小説家である父の教育の賜物か、最近では口も達者におしゃべりをして、そんな若櫻の笑顔を奪いかねない状況に私たち夫婦は気をもんでいた。
けれど、雫槻さんの行動は早かった。
「庭の三分の一程度を崩して、自作農園を作りましょう」
モノの値段が上がるにつれて、日々の買い物にも苦労するようになってきた。米、野菜、日用品…過去の戦争特需は今や影を潜めているのだ。雫槻さんは備えあれば憂いなしとでも言うように、自ら鍬を取り、庭を耕していったのだ。
物価がこれ以上跳ね上がる前に、小説の仕事がいつまでも順調に続くとは限らないから、と。
小説は私にとって高尚だが、しょせん娯楽だという人も多い。切られるとしたら娯楽だろうと言ってしまう雫槻さんの瞳は感情を押し殺しているようにも見えた。
自作農園はなかなか本格的なものとなった。畝を作り、どんなものを植えるか決め、保存用の地下倉庫まで作った。もちろん、私も手伝った。
「かぁしゃま、むし!」
と言って若櫻は素手で虫を掴んで、泥遊びに興じていたが。男らしく、たすき掛けをしている雫槻さんの姿なんて、結婚当初の雪かき以来かも知れない。
「ずっと、筆を取っているだけの人生でしたからね。ここは、僕が働かないと狭衣さんにも若櫻にも示しがつきません」
雫槻さんは苦笑して、そう言った。雫槻さんの手のひらに出来た肉刺を、消毒している時だった。
鍬を握ってできた肉刺。ペンだこではない。雫槻さんの言うとおり、今まで筆しかとっていなかった手のひらには、鍬を握ったせいで肉刺が二つ三つ出来ていた。
「潰さないよう、気をつけて下さいね。血まめはひどくなると、筆さえもとれませんから」
「…その内、否が応でも潰さなくてはならない時期が来るかもしれませんよ」
ふと、静かに雫槻さんが呟いた。え、と顔を上げるとどこか物思いに沈んだ瞳が、肉刺のできた手のひらを見つめている。
「…雫槻、さん…?」
私が呼ぶ声は、自然と小さく震えていた。
「…中国との戦争が始まって、もう四年経ちます。けれど、日本は…また新たに敵を増やそうとしている。もっともっと強大な国に。昔この国が、一度や二度大国に勝ったからと言って、それがいつまでも通用するとは限らないのに」
そういうことを口にする雫槻さんは、どこか怖いくらいに現実的で冷静だった。その瞳が私を映さない。それにぞくりと背筋が凍る。お昼間の、和やかな空気にはとても似つかない。
「狭衣さん」
いつもと違う固い声。そこに優しは微塵も感じられない。冷たい声が心の臓を打つ。
「―もし、僕がこの先徴兵されるようなことがあれば、若櫻を頼みますよ」
はじめて聞く、上からの、家長としての言葉だった。その時になって、ようやく雫槻さんは私を見た。真剣な瞳だ。この人は本気でそう言っている。
雫槻さんは、今年で二十八歳になる。小説家という、外に出ない仕事柄だが軍部の徴収制度の対象には十分なり得る。
―つまり、いつでも雫槻さんが戦場に行く可能性はあるし、いつでも私は雫槻さんを送り出す義務があるということだ。こういう時、女は絶対に口ごたえなど出来ない。否と言うことすら、禁じ手だ。
妻と言う立場に、「行かないで」と言う自由は存在しない。だから私は、頷くしかないのだ。
どんなに首を横に振りたくても、嫌だと言いたくても、首を縦に振らざるを得ない。
雫槻さんがあまりにも冷静に真剣にそう言うから。
「…分かりました…」
うつむくと、涙が零れてしまう。私は歯を食いしばった。耐えようとした。
消毒の後の脱脂綿が、手の中で潰れている。細かく震えているのを、きっと雫槻さんは気付いている。それでも、気付かないふりをして「まかせましたよ」などと言う。
酷い、と思う。彼でなく、この国を、世界中を、戦というものそれ自体を酷いと思う。彼にこんなことを言わせてしまう戦というものを。
お国のためと思っている人は実際多いけれども、私は戦争に自分の大切な夫を奪われたくなかった。もしかしたら私と同じように思う人がいたとしても、この言葉はそう簡単に口に出せるものではなかった。
それでも、現実は私一人の力では変えようがない。大日本帝国が大規模な戦争を始めようとしていることを、一般市民の私が何を言っても今更変わらないのだ。
私は、側で玩具で遊ぶ一人娘を抱き上げ、抱きしめた。雫槻さんはもう、それ以上何も言わなかった。
その年の暮れ、とうとう本格的な争いが始まった。日本が米軍を襲撃、さらには独国と締結して完璧な敵対関係が成立した。近所でも、軍に志願する青年が出たと聞く。
実際、買い物に外に出ると派手な着物を着ている人は少なくなり、まだ少年らしい面影を残す青年を大々的に送り出す人々を見ることも多くなった。近所の方に頼まれて、国旗や鉢巻に寄せ書きやら何やらを頼まれることも稀ではない。
「櫻井さん、千人針をお願いできないかしら」
そう声を掛けられたのは、若櫻を背に負いながら出かけた買い物の帰りだった。差し出されたのは、白い木綿の布。こには、赤い糸でたくさんの縫い玉が縫いつけられていた。出征していく兵士のために、祈りを込めて作られたそれを、私は何故か直視することは出来なかった。
物資不足が危ぶまれる中、こうやって糸をたくさん使う千人針を作る人も年々減ってはきたけれど。
戦争に出ない女が願うことは、いつだって一つなのだろう。
その人の無事を、切々と願うその想いだけ。逆にそれに虚しさを感じてしまうのは私だけなのだろうか。
そんなことは口に出しては言えないから、人々はこういうモノに想いを託しているのだ。私は小さく「いいですよ」と頷くと、その木綿の布を手に取った。差し出された針で赤糸をその白布に縫い付けていく。
死なないで、と口には出せない祈りをその糸に込めた。その想いが叶うことを、必死に念じた。
玉留を作って、糸切りばさみでパチンと切って頼んできた近所の女性に渡す。その女性は、大きく頭を下げて「ありがとうございます」と言った。
「もしかしたら、慰安袋もお願いするやもしれません」
その言葉を聞いて思い出す。この人は、この町の婦人会の代表の方だ。
慰安袋の中身は、戦地の兵士に送るお守りや日用品、缶詰などを詰めた袋だ。その中身は、各々持ち寄らなければならなかった。
「…出来得る限りの協力は、します」
うちも、今では三人食べていくのに必死な状況だった。正直そんな余裕はないに等しい。庭に農園を作ったと言っても、非常用だから毎日贅沢などできない。雫槻さんの仕事にも容赦なく検閲はかかるし、出版規制も当たり前。折角書いた小説を、泣く泣く廃棄しなければならないこともいくつかあった。その稼ぎから出資できるだけの物品があるかどうかも分からない。
現に物価が上がって米も満足に若櫻に与えてやれないのだ。この頃は麦飯が中心になりつつあった。
だから、その女性のお願いにはそう答えるしかなかった。
「いいえ。十分です。どうぞお願いします」
けれど、その気弱そうな女性は何度も頭を下げて商店街の方へと駆けて行った。これから、まだ千人針を頼むのであろう。
私はその寂しい後ろ姿を見送って、帰路を急いだ。夕焼けは、どこか私を焦らせた。
早く、早く帰らなければと。
見慣れた家の柴垣が見えた時は、どうしてか、泣きそうになった。がらがらと滑りが悪くなってしまった戸を開けて草履を脱ぐ。
「…ただいま帰りました」
縁側に腰かけている雫槻さんの後ろ姿に、声を掛けた。おんぶ紐を解いて、若櫻を床に降ろす。
「とうしゃま!」
途端に、若櫻は危なげな足取りでとてとてと雫槻さんの方へと歩いて行く。
「…おかえりなさい、狭衣さん、若櫻」
雫槻さんは振り向いて、若櫻が抱きついて行くのを腕を広げて受け止めた。本当に、若櫻は雫槻さんが好きだ。私よりも、きっと。
雫槻さんはだいぶ前に「そんなことはない」と言っていたけれど。雫槻さんに肩車をせがむ若櫻を見て、思わず笑みが滲んだ。
けれども、雫槻さんと若櫻の背後にある庭の小さな農園が目に入ると、それも消えてしまう。幸せな親子の姿に、ふと幸せを感じても。その後ろの農園は、私を現実に引き戻してしまうのだ。その下にある地下倉庫も。そこに貯めてある緊急用の食料も。豊かでなくなっていく食糧事情も。
あの赤い糸の玉も。
目を逸らすことしかできない。私は現実をしっかり見ることが出来なかった。そんな私を知ってか知らずか、雫槻さんは若櫻を抱きながら私をに言う。
「狭衣さん」
「…なんですか?」
「夜に。少しだけ、お話があります」
けれど、私の無力な抵抗、それすらも時は許してはくれない。私たち家族の命運は、すぐそこまで迫っていた。




