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櫻姫  作者:
昭和十五年
13/28

幕間―名の意味―


狭衣。さい、と読む。初対面の人には、ほぼ正しく読んでもらえない。

周囲は、もっと娘らしく、可愛らしい名の女の子がたくさんいる。よしのちゃんだとか、かづちゃんだとか、みちちゃんだとか。そして、ほぼ皆に問われる。

「由来は?」と。

そしてその問いに、私は曖昧に微笑んで誤魔化すことをしてきた。あまり進んで自分から言いたい由来ではない。けれども、物書きである私の夫は勿論のことすぐに考えが行き着いたのだろう。

簡単に言ってのけるのだ。


「――ああ、『狭衣物語』ですよね」


さごろもものがたり。読み方は違う。けれど、その答えはほぼほぼ合っている、と思う。

何しろ明確な答えを、私自身両親から聞いたことはなかった。

その昔、父の本棚に一冊の本があった。

『狭衣物語』。

自分と同じ名の本だと嬉しくなって、読んでみた。そうしたら――思い出すだけで気落ちする。

なかなかに、女の私には受け容れ難い物語だった。平安時代に書かれたその物語は、主人公からして『狭衣の君』は――男だった。

そしてかの『源氏物語』よろしく、帝の血筋で、好きな女の子がいるのに、その恋が叶わなくて、あちらに手を出し、こちらに言い寄り。翻弄された女達は、壮絶な人生を送ったと言っても過言ではない。それなのに最後まで初恋の君が忘れられない。けれど、仲間の男たちや果ては神霊の類にはなかなかに好かれている。


全く以て、私には共感できなかった。そしてその男の名と、自分の名が同じと知って、幼い頃のことだ、当然落ち込んだ。何が良くて、女の私にこの名前をつけたのだろう。素直に、そんな疑問を夫たる雫槻さんに吐き出していた。


「…いいじゃないですか。当時は『源氏の次は狭衣を読め』と言われるほど人気の高かった物語ですよ。それに、光の君や狭衣の君は当時の『これぞいい男』の代名詞でしたしね」

「男じゃないですか…!!私はそんな移り気じゃありません!」


半分泣きながら言うと、雫槻さんは分かっているのかいないのか、「狭衣さんが移り気だと困りますね」と大真面目に言っている。脱力する私の頭に手を乗せて、「それでも」と続けた。


「お父上はこの物語が大好きだったのでしょうね。だから、生まれた大切な子に、女の子であったとしても自分の大好きな物語の名を、与えたかったのでしょうね」


特に、この主人公のようになって欲しいという意味ではないだろう。さすがに私にもそれくらいは分かる。


「名ばかりは、子が決められるものではないですから。だから、どうしても親の勝手にはなってしまうでしょう。それでも、愛着のある名や響きをつけたいという気持ちは、分かります」


雫槻さんが言うと、妙に納得してしまうのは何故だろう。そして雫槻さんは、優しい顔をして、私の腕の中で眠る愛娘に視線をやる。きっと、そこに込められた想いは、私と同じだ。

そして、尚も小説家の夫は講義よろしく、私に諭した。


「そもそも、『狭衣さごろも』の『さ』は接頭語で、語の調子を整える働きもあります。そういう意味では、狭衣さんのお名前は、僕にとってはとても『しっくり』くるんです」


――いいお名前ですよ、と。

そういう風に言うものだから、この人が言うのだから、それでいいや、なんて思ってしまえる。本当のことを知っている両親は、もう二人ともこの世にはいない。それでも、私たちが眠るこの子に送った名へ込めた想いと同じものを、両親も込めてくれているのだと、それはよく分かっている。


「…ところで、雫槻さんのお名前の意味って?」

「……」

「私、たぶん、大人になってから出会っていたら読めませんでした」


断じて言う。仕返しではない。雫槻さんは、明らかに目を泳がせて「お腹すきませんか?」と話を逸らそうとしたが、私はそれには乗らなかった。すると諦めたのか、重い溜息をついて、ようやく口を開いた。


「なつき、は単なる響きがいいからです。字面は…両親に言わせれば『文豪みたいに格好いい字』が良かったようですよ」

「…お互い、なかなか人には言いづらい由来ですね…」

「なまじ、僕の場合は意味があってないようなものですから、狭衣さんの方がまだいいですよ」


どちらも同じだろう、という言葉は胸に仕舞っておくことにした。雫槻さんが若櫻の名付けを死にもの狂いでお義父さんから勝ち取ったのは、まあ、そういう経緯があったのである。

そして私も、雫槻さんも、なんだかんだと言いながらも、己の名を終生大切にしたのは、言うまでもない。

たった一つの、両親からの贈り物なのだから、と。



幕間―了―



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