二
――それから。
若櫻は日々すくすくと成長していった。ふにゃふにゃだった身体が日を追うごとにしっかりとしてくる。ちいちゃな手をぎゅっと握ったり開いたり足をばたつかせたりと、なかなかに落ち着いてくれない。時折親指を吸って喃語らしき言葉も発するようになった。目に映るものに次第に興味を見せ始め、玩具の毬を目の前で振ってやるとにこっと笑う。滑らかな頬に触れて、脇腹をこしょこしょとくすぐれば、手足をじたばたさせて喜んだ。
この役目は、主に雫槻さんが引き受けていた。弟妹の面倒を随分見てきた経験を生かして、子煩悩ぶりを発揮している。
「わかさ」と、低く甘い声で呼んですっかり手慣れた様子で抱きあげる。生まれた時はあんなに恐る恐る抱き上げていたのに。
今は、しっかりとしていて優しくて穏やかな大人の雫槻さんは身を潜めている。
本当に。どこにこんな性格を隠していたのだろう。
その発見はとても楽しいけれど、雫槻さんはにこにこ笑う私を見て、どこか照れたように目を逸らす。
「…な、何ですか?」
夕餉の配膳をしながら、雫槻さんと若櫻が遊ぶのを微笑んで見ていたら、雫槻さんは気まずげに問うてきた。雫槻さんの視線を追って、若櫻もきょとんとした目を私に向けている。
最近、若櫻は母親の顔や声が分かるようになったのだろうか。よく私の行く方を目で追って、手も伸ばしてくる。
私はお櫃からご飯をよそって卓の上に置くと、若櫻を雫槻さんから抱きとった。その時も若櫻は雫槻さんを見たり、私を見上げたりとなかなかに忙しい様子だ。
「いいえ。ふふ、わかちゃんはお母さんよりもお父さまの方が好きなのねーって」
さ、わかちゃんもご飯食べようね、と言って着物の袂を緩めた。雫槻さんに背を向けて、私は若櫻に母乳を与えた。お腹が空いていたのか、んくんくと元気よく飲んでくれる。産後の経過もいいとお医者様から太鼓判を押されるくらい、若櫻はすこぶる健康だ。他の赤子と比べたことはないが、腕も足ももちもちしていて他の赤子よりも若干重そうにも見える。
そんな若櫻は私を見上げながら乳を飲み、懸命に生の花を咲かせている。
「父親は母親には敵いませんよ」
ふと苦笑している声が、私の後ろから響いた。顔だけ後ろを振り返ると、雫槻さんはご飯に手をつけずに、私と若櫻の様子を窺っていた。
「そうでしょうか」
「ええ。大きくなれば、父親など見向きもされなくなるんでしょうね」
そうやって寂しげに言うから、私は思わず笑ってしまう。
「雫槻さん、若櫻は生まれたばかりで、まだまだ小さいんですよ」
ようやく生まれて一月程経ったばかりなのに。
「そう言っているうちに、『もう嫁にやるのか』というような年になるんですよ」
少しだけ、むくれたような声。堪え切れずに、私は声に出して笑ってしまった。んくんくと乳房に吸い付いていた若櫻も、ぴくっと反応する。一瞬口を離してから不満そうに唇を尖らせている。
ごめんね、と背を撫でてやりながら雫槻さんに視線を戻した。
「まだまだ先ですよ。少なくとも、そうですね、十五年は」
これから、まだまだ成長して。寝返りをして、ずり這いをして、立つようになって。言葉を話して、駆け回るようになるのにも、まだまだ先だと私は思っているのに。
「十五年なんて。あっという間ですよ」
雫槻さんはもう今から嫁にやる時の心配をしている。これが親馬鹿と言わずして何と言うのだろう。
私の言いように、雫槻さんも恥ずかしそうに笑い声を上げた。
「僕は、狭衣さんが生まれてからずっと知っていますからね」
「ええ…」
「赤ちゃんの時も、共に遊ぶようになった時も、刺繍ができるようになった時も。十七歳になって、僕に嫁いできた時も」
もう、十五年以上共にいる。そう考えれば、なんて早い年月だろうと、不覚にもそう思ってしまう。
「…そうですね…随分と、早いものです」
「でしょう?」
あなたと出会って、十五年どころか二十二年も経っている。雫槻さんは私が産まれた時から私のことを知っているから。一緒に遊ぶようになったのは、私が二歳になった時。
十七歳の時に祝言を挙げて、早五年。雫槻さんの妻になってもう五年も経った。五年の間に、母が亡くなり、子が生まれて、時折喧嘩もするようになって――色々とあった。
子の成長など、もっと早いのだろう。あっという間に、この子は大きくなるのだろう。そして、雫槻さんの言うようにいつか私たちの手から離れる時がやって来る。
人の親になるということは、考えていた以上に喜びに満ちていて――
そして同時に寂しさすらも、味わうのだろう。
「…幸せに、してあげるのが親の務めなのかもしれません」
「ええ」
「でも、子は自分の力で幸せを掴み取っていくのでしょうね」
そんな力を、生まれた時からこの子たちはきっと持っているんでしょう。母乳を飲み終えた若櫻の背を、とんとんと叩く。雫槻さんは、私が着物を直している間に若櫻を抱き取り、布団に寝かせた。
「…私はどうなんでしょうか」
卓の前について、冷めてしまわないうちに二人で食べ始める。
「どう、とは?」
「私は、雫槻さんに幸せにしてもらってばかりです」
玄米と麦を混ぜこんだご飯を口に運べば、ほんのりとした甘みが口の中に広がる。続いて菜の花のおひたしを食べながら、ちらりと雫槻さんの様子を窺った。
「どうでしょう。僕もですよ」
「そうですか?」
「そうです。狭衣さんや若櫻とこうして一緒にいて、とても幸せです。これまでの人生も、総じて幸せだったと言えると思います」
お箸を置いて、雫槻さんは顔を上げた。
「それは、僕の努力の結果と言えます。それと同時に、狭衣さんの努力の賜物でもあります」
「…わたし」
「僕は、唯一無二の人と出会うまでは自分の力で幸せを得て来ました」
小説家になる夢然り、一人で自活すること然り。
「…けれど、狭衣さんと一緒になって、あなたを幸せにしてやろうと思いました」
雫槻さんは、それを初めての感情だと言った。
「自分の幸せは自分の力で得ていくものだと僕は思います。けれど、唯一無二の人を幸せにしたいと思った時、一人だけでは無理なことにも気付いたんです」
少し矛盾しますけど、と雫槻さんは苦笑した。
「若櫻も自分の幸せを自分で得ながら、唯一の人と出会う時が来て。幸せにしたいと願う相手が出来て」
「…」
「その時はもう、親の手を離れている時なんでしょうね」
二人でいる幸せは、二人で思いやり共に歩いて行くことで得られるのだと。一人相撲では決して得られないものだ。その時にはもう、親の手から離れる時。親は、子がそういう存在に出会えるまでたっぷり愛情を注いでやることが仕事だと。
「…それを思うと、少しだけ寂しくなるんです」
親の矛盾した願い。いつかは自分たちの手を離れていく寂しさ。けれど、誰よりも幸せになってほしいという、その祈り。
「私たちは、私たちに出来ることを若櫻に与えてやりましょう」
それを幸せかどうか判断するのは、子ども次第だと雫槻さんは言った。私は、少し苦笑した。
「難しいですか?」
「…ええ。私、感覚で生きてる人間ですから。雫槻さんみたいに頭は良くないです」
「簡単なことですよ」
「え?」
食べ終えた雫槻さんが、湯呑を持って一服した。ごちそうさま、と手を合わせて、少しはにかんで言う。
「…まぁ、つまりは。二人でひとつということです」
照れながら言うものだから、こっちまで恥ずかしくなってしまった。仄かに頬に熱を感じながら、私も隠すように湯呑みを持った。
「若櫻には、是非いつかそんな人を見つけて欲しいという、ただそれだけのことです」
雫槻さんの視線は、むにゃむにゃと眠りの世界に落ちている愛娘へと向けられている。その瞳は、優しさと愛情と慈しみが込められていて。そんな瞳で見つめてもらえる若櫻に、少しだけ嫉妬してしまったのは内緒だ。
***
風呂から上がると、もう一度若桜櫻に母乳を与えて寝かしつける。この子は驚くくらいに夜泣きしない子で、最初こそ唐突に泣き出すこともあったが、今では朝までぐっすりだ。
なんて親孝行な子だろう。飲みながら眠くなってしまったのか、若櫻は大きなあくびをした。
と、読書をしていた雫槻さんが腰を上げてこちらへ来て、若櫻を抱きとってくれる。こういう時、雫槻さんが言っていた二人でひとつ、という言葉に得心がいく。こちらが何も言わなくても、雫槻さんは感じ取ってくれることが多い。
ふと視線をあげれば、それひとつで通じるものがある。
私は夜着の袂を直して、寝かしつけようとあやしている雫槻さんを見やった。少し髪が伸びたな、と思った。小説家という引きこもり職であるから、雫槻さんは結構身の回りのことに頓着がない。
時折、不精ひげも生えっぱなしになっている。それは、締切間近という立て込んだ時期に限るけれど。
結婚当初は、そんなことはなかった。朝は妻の私よりも早く起きる日もあったし、着物を着崩すことも、怒ることもなかった。雫槻さんには隙がなかった。
元々が優しい人だし、五歳も年下の、ましてや私が妹のような存在であったからかも知れない。けれど、子が出来てからはもっと肩の力が抜けるようになったのだろう。
夜遅くまで読書をしていて、朝寝坊することがあり、お昼寝をした後は着物の合わせが豪快に開いていることもあるし、痴話げんかも度々だ。
この前など、お新香嫌いを若櫻の目の前で発揮していた
――盛大に眉をしかめて、小鉢ごと私に押し付けてきたのだ。この人、二十七歳といういい大人なのに。
でも、そういう子供っぽいところを見つけて私は嬉しくなる。
普段は完璧な大人の男の人。けれど、ふと時折見せる子供っぽいところ。その横顔が、私は最近やけに好きなのだ。
雫槻さんは、ただ優しいだけの人ではなくなった。私にとって、もっともっと大きくて大切な存在になった。年を経るごとに、どんどんこの人を好きになる。雫槻さんへの愛情を知った今でも、二十二歳になった私が、少女のように恋をしている。
雫槻さんは、赤子を寝かしつけることもとても上手かった。
傍では若櫻がいつの間にか夢の中にはいって、指を吸っている。
「狭衣さん?」
はっと目を上げると、若櫻はもう布団に寝かされていた。口をあむあむと動かして、寝息を立てている。
「ごめんなさい、ちゃんとげっぷ、したかしら」
「ええ、大丈夫です。寝てしまう前にさせましたから」
そう言いながら、若櫻の寝顔を覗き込んでいる。本当に、雫槻さんは娘に甘い。私が小さい時ですら、こんなに甘い顔はしなかった。
それに時折、妬いている私がいる。つい自嘲してしまうと、ふいに雫槻さんがこちらを向いた。
「狭衣さん」
「…はい?」
ちょいちょい、とこちらに向かって手招きをする。小首をかしげて腰をあげ、雫槻さんの方へと足を出す。
と、手首を取られ、そのまま、引き寄せられる。ふわりと、石鹸の匂いがした。洗いたての夜着に、頬を押し付けられる。若櫻を抱く時とは違う力で、私を抱きしめる。雫槻さんが鼻先で耳元の髪の毛を掻きわける。雫槻さんの呼吸が、耳朶を掠めた。
くすぐったくて首をすくめると、余計に肩を抱きすくめられる。若櫻が寝ているから声を出すことも出来ずに、雫槻さんの夜着を握りしめた。耳元に唇が落ちて、そのまま項を滑る。
止めようと、した。肩に置いた手で、押し返そうとした。
隣で若櫻が眠っている。駄目、と言おうとしたのに。
「ん…」
夜着の袷から滑りこんだ冷たい手が、背中を撫でる。そのふわりとした感覚が私の口をつぐませてしまう。押し返そうとした手はあっさりと留められた。導かれて、雫槻さんの背へと手を回す。
そのまま、布団に寝かされた。今日干したばかりの、お天道様の匂い。そこに優しく押し付けられて、思わず抵抗する気が失せそうになる。雫槻さんが、もう一度そっと口づけを落とす。
優しく触れるだけの、口づけ。その唇は、少しカサついていた。
けれどそれ以上コトが進むことはなく、雫槻さんは乱れている私の夜着の袷を直して私の横に寝転んだ。腕が伸びてきて、私を抱き寄せる。
布団をきちんと二人の上にかけて、最後に額にもう一度唇を落とした。
「おやすみなさい、狭衣」
「…お、やすみなさ、い」
思わず狼狽えてしまった。少し残念に思っている自分がいる。少しだけ、期待した。少しだけ、今もまだ胸がドキドキしている。
一人で、変な事を考えていたなんて恥ずかしいから、続きを要求するわけにはいかない。前にそんなことをしてしまって、あとで泣きを見た。
それにしても、いきなり呼び捨てにされることには未だ慣れない。
この人は、こうやって私を駄目にするのだ。こういう時に、実感する。私は女で、雫槻さんは男だ。
私たちは夫婦で、私はこの人の妻。そして、若櫻の母。
両側から、夫と娘の寝息が聞こえてきた。それは夜の静寂の中に響いている。私はぼんやりと、隣に眠る雫槻さんの鎖骨をなぞった。形のいい鎖骨だ。
最近は、布団を二組しか敷かなくなった。小さい布団が若櫻のもので、私たちは大きめの布団で一緒に寝る。雫槻さんは、夏であろうと冬であろうと私を必ず腕に抱えて眠る。骨っぽくてごつごつした腕は、案外甘えたがりだ、ということが分かったのも最近。私は、この腕がふにふにの若櫻を抱えているのを見るのが好きだ。赤子特有の、ふっくらした体が包まれている。
それを傍で見るのが好き。そしてその腕は今、私を抱えている。
寝よう、と思った。髪の毛がまだ生乾きだったが、とろりとした闇はすぐに訪れた。




