一
また、春が巡ってやって来た。私の好きな桜の季節。
春は、新しい生命が生まれ来る季節。
昭和十五年、三月。
***
ぴん、と張り詰めていた糸が切れたような心地だった。その途端、熱がするりと私の内から抜け去る感覚。目の前が真っ白に染まり――そうして、脱力した。
大きく胸を上下させて喘ぐように荒い息を吐く。それと共にうっすら聞こえてきたのは、赤い泣き声。
「さ、生まれたよ」
ぼんやりと膜が張ったような耳の中に、しわがれた声が届いた。よく頑張ったねえ、と。
ゆっくり目を開けると、霞んだ視界に浅黒いおばあさんの笑った顔。そしてその腕に抱かれて差し出されたもの。
「ほら、元気な女のお子さんだ」
真白いおくるみにくるまれて、差し出された赤ら顔。まだ眼はぼんやりと霞んでいるけど、お猿さんみたいな我が子の顔は、よく分かった。その子は盛大に顔をしかめて、大きく口を開けて、手をうんと伸ばしている。
そこで、ようやくはっきりとした泣き声が聞こえてきた。よく通る、元気で高い泣き声だった。
「…おんな、のこ…」
手を伸ばして、そうっとそうっと抱きとろうとするけれど、産後直後の身体はなかなか言うことを聞いてくれなかった。産婆さんは、私の胸の上に赤ちゃんをうつ伏せにして乗せてくれた。あんまりにもふにゃふにゃしていて、びくりとしてしまう。今の今まで、この子が自分のお腹の中にいたなんて、信じられない。そう思いながら恐る恐る触れてみる。
――あったかい。そして、ずしりと重い。
うっすらと生えた赤ちゃんの髪の毛が、鼻先に当たった。
「ああ、お母さんにそっくりな女の子。べっぴんさんになるよ。さあさ、お父さん呼んでこようね」
そういって、産婆さんはお湯で手を拭いて立ち上がった。首を長くして待っているだろうから、と言いながら。
この方はお年はずいぶんめされているが、今も元気で、近所でも有名な産婆さんだ。私は「ありがとうございます」という元気もなくただその曲った背中を障子の向こうに見送った。
未だに、んぎゃあんぎゃあと泣く赤ちゃんを、懸命に宥めながら横に寝かせる。けれど、まだまだ宥め方なんて分からない。
分からないなりに何とかしようと、人差し指で頬をくすぐってやると、無意識なのか手を伸ばそうとしてきた。
まだ目は見えていないだろう。歯も生えていない。もちろん、しゃべれもしない。
今は、ただ泣くのが仕事の小さい子。
けれど、生きている。息をしている。心臓を精一杯動かして、私に向って手を伸ばす。
ほんのりと、胸が温かくなった。今になって、ようやく幸せと喜びが込み上げてきた。
それは泣きそうなくらいの大きな喜びだった。
目を潤ませながら赤ちゃんをつぶさに観察していると、この家では珍しい慌ただしい足音が近づいてきた。そうして間もなくスパン、と勢いよく障子が開けられる。
「…狭衣さん…っ」
珍しい、雫槻さんの焦った声。それは思いの外大きく部屋の中に響き渡った。あ、やばい、と思った瞬間にはもう遅かった。雫槻さんの声か、もしくはその雰囲気に驚いたのか、赤ちゃんがまた大きな声で泣き出した。
「あらあら、お父さんのせいで吃驚しちまったかね…ほら、あやしてやりな」
赤ちゃんの泣き声におろおろする雫槻さんの後ろから現われた産婆さんが、さも簡単そうに言う。けれど雫槻さんは目を白黒させて私と赤ちゃんを見比べるばかりだ。抱き方など、弟妹たちが生まれた時に何度も経験しているだろうに、自分の子となれば勝手も違うらしい。
お産のせいで力が抜けきり、起き上がることも出来ない私の枕辺に産婆さんが座り、大泣きする赤ちゃんを抱き上げた。ほら、と目線で雫槻さんを促す。
触りもしないうちから、恐る恐るといった感じで雫槻さんも腰を降ろした。雫槻さんは産婆さんが差し出した赤ちゃんをゆっくりと抱きとる。それこそ私よりもそうっと壊れ物を触るように。
赤ちゃんを抱きとめた瞬間の雫槻さんの顔といったら、まるで初めて宝物を目にする少年のようだった。
目を輝かせながら、今産まれたばかりの自分の娘を前後にゆする。大泣きする赤ちゃんをあやすためか、調子外れの鼻歌を聞かそうとしている。
どうやら子守唄のつもりらしい。
しわくちゃの赤ちゃんを目の前にして、慈しむ瞳を見せて。その様子があんまりにもおかしくて、愛おしくて自然と笑みが零れた。
「女の子ですって。良かった、とっても元気」
ふと、雫槻さんの穏やかな笑みがこちらに向けられた。そうして、手が伸びてきて、汗まみれの前髪を優しく梳いてくれる。赤ちゃんを抱えたまま、何度も何度もそうしてくる。
顔を近づけて、囁くような声を耳元に落した。
「…ありがとう、狭衣さん。本当に、本当にありがとう…よく頑張ってくれました。さすが、僕の妻です」
私に向けられる笑みも、慈しみに溢れている。その言葉が、その笑顔が、どれほど私の力になったか雫槻さんはきっと分らないだろう。随分いきんだせいで力の出ない体を、私は懸命に腕で支えて起き上った。どこからそんな力が出てきたのか、私自身も不思議だった。雫槻さんは慌てて腕の中に抱きよせてくれる。
汗まみれの額と、同時にあふれ出てきた涙も一緒に、私は雫槻さんの肩口にこすりつけた。
私の背を撫でてくれる腕にすがった。悪阻や腰痛、子を身ごもる大変さは、今この瞬間霧散してしまった。
これまでの辛さも全部、これほど大きな喜びにかわってしまうなんて、正直思わなかった。今はただ、無事に生まれた娘をこの目で見ることができることへの感謝しかなかった。
そうしてしばらく三人でじっとゆっくりと過ぎる時間に浸っていた。いつの間にか、赤ちゃんの泣く声が止んでいる。ふと見ると、大きな腕に抱かれた小さな頭の赤ちゃんが、大きな黒い目を向けて不思議そうにこちらを眺めている。
まるで自分の父親と母親を確認しようとしているみたいに。
小さなお手て、ふっくらしたほっぺた。まだ目も見えていないだろうに、じっと見つめているかのよう。
まるで自分を抱く腕が親のものであると、最初から分かっているかのようだった。
私は安心して表情を緩ませ、私はそぅっと手を伸ばした。薄く毛の生えている頭を撫でる。
掌に収まるほどの小さな頭だ。
――愛おしい。
この子のために、十月十日耐えた甲斐があった。何よりも出産の痛みを超えた今、こんなにも満ち足りた気持ちでいる。この子に出会うための今までがあったと思えるほど。
雫槻さんは、抱きしめてくれた。新しい家族と、私を一緒に抱き寄せてくれた。首、気をつけてね、と言うと、また慌てている。
そして、ふわ、とあくびをする娘を二人で見つめた。
私たち家族は、今日三人になった。
***
三月の中旬に無事生まれた赤子の命名権をお義父様と争い、見事勝ち取ったのは、雫槻さんだった。赤子は幸い産後の肥立ちもよく、すくすくと育っている。
雫槻さんのご両親は、私たちの娘を目に入れても痛くないというように可愛がった。特にお義父さまは、名付けが出来なかった事を最後まで悔やまれたようだ。
『初子なんです。この子に送る初めての贈り物なんです』
『私にとっても初孫だぞ』
『じいとばあにはこれからもたくさん機会があるでしょう。僕の下にまだまだ弟妹がいるんですから!』
あんなに必死で説き伏せようとしている雫槻さんを見るのは、とてもおかしかった。その可愛がり方は、最早ご自分の両親を通り越して既に親馬鹿の域だ。私の父や母もこうだったのだろうかと、少し思って泣きそうになった。
母の死から、もう三年も経っている。それでも、新しく生まれてきた命のことは、きっと母にも届いていることだろう。また墓参りに行かなくてはと赤子を抱きながらその算段も立てた。
そして、鶴と亀の命名紙に書かれた名前を雫槻さんが見せてくれる。
それは、小説家である雫槻さんらしい名づけだった。
『若櫻』
櫻井若櫻。雫槻さんいわく、
「どうです、見事な桜重ねでしょう」と。若い桜の季節に生まれた女の子。櫻井家に生まれた、櫻の名のつく女の子。
この子が生まれてこの方、朝も昼も夜もずうっと名づけのことで頭を悩ませた結果。
「櫻のように美しく、強かに。この子はきっと、良い子に育ちますよ」
自信ありげに、雫槻さんは笑った。名付けができなかったお義父さまから送られてきた、たくさんのご祝儀に囲まれている娘を抱き上げて、指先で額をなぞる。
当の娘はぱちくりと目を瞬かせて、父を見上げている。
「若櫻…わかさ、ええ、良い名ですね」
舌の上で転がすように発音をしてみる。私に否はなかった。とても良い名だと思った。若櫻もとても元気に手足を動かして、名付けが気に入ったのかご満悦の様子だ。合わせて動く産着の白がまぶしい。それは私が一針一針縫ったものだ。懐妊が分かってから、一着一着丁寧に仕上げた。それに包まれて、若櫻はじいっと己を抱く父親を見上げている。
「よく食べ、よく寝て、よく動いて、たくさんのことを吸収して―たくましく育つんですよ、若櫻」
雫槻さんに抱かれている若櫻を覗き込む。産後から数日経って、お猿から人間の顔になってきた。よく見れば、目もとが雫槻さんに似ていた。切れ長で、しっかりしている。雫槻さんは柔らかく笑って、私のこめかみに一つ、口づけを落とした。
「狭衣さんのようにお転婆になったら、大変でしょうね」
それは少し、余計な御世話というものだ。頬を膨らませる私を見て、雫槻さんは幸せそうに口元を緩ませたのであった。
文中、個人名には「櫻」を、それ以外の固有名詞等には「桜」を使っています。「桜」が常用漢字になったのは戦後だそうです。見にくい点もあるとは思いますが、ご了承ください。




