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櫻姫  作者:
昭和十四年
10/28



時間もいい頃なのでおやつを食べようということになり、私は雫槻さんに買ってきてもらったお饅頭を用意した。薄皮にたくさんのこし餡が詰まったお饅頭は、私がや雫槻さんの好物だ。たまにの贅沢で、近所の和菓子屋さんから購入している。

私とお義母さまが台所に立ち、深槻ちゃんは居間で雫槻さん相手に持ってきた人形で遊んでもらっている。

雫槻さんと人形なんて、思わず笑ってしまう取り合わせだけれど、雫槻さんは長男のせいか妹の遊びによく慣れている。年も離れていて、あまり一緒には過ごせなかったようだが、深槻ちゃんはよく雫槻さんに懐いていた。


「なつにぃ、なつにぃは『たえちゃん』の旦那さん役ねぇ!」

「はいはい。みぃは?何の役?」

「みーちゃんは『たえちゃん』のお姉ちゃんよ」


といった感じに。


「――雫槻は、驚くくらい亭主関白じゃないでしょう?」


湯呑を出しながら、ぼんやりと二人の様子を見ていた私に、お義母さまはくすくすと笑った。思わず見入っていた私は、その声に引き戻される。開け放った窓から涼しい風が入り込んで来て、金魚柄の風鈴をちりんと鳴らせていく。その風に後毛を流しながら、私はお義母さまの方を振り向いた。


「優しくて、お人好しで。私、あの子がまさかこんなにすんなり結婚するなんて思わなかったわ」


押しも弱いしあんな引きこもりの職業だし、一生独り身かもね、って少し焦ってたのよとお義母さまは苦笑する。私もそれに合わせて唇の端を上げる。


「亭主関白、ではないかもしれませんけど。でも、お世話焼きで心配性で少々頑固だとは思いますよ」

「本当よ。狭衣さんを甘やかすことが今のあの子の生き甲斐なんじゃないかしら」


姑の言葉だとしても、少しも嫌味っぽくなくないから、私は少しだけ安心する。


「素敵な方です。本当に私には勿体ないくらい」


お義母さまが娘と言ってくれたからか、素直に私は言葉を吐き出すことができた。そしてお義母さまも、憚りなくまっすぐに言葉をくれる。


「あなたもよ。あの子には勿体ないくらい、素敵な方」


そんな言葉をくれる暖かい人たちと家族になれたんだなぁと、こんな時に実感する。私はにっこりと笑んで、雫槻さんが買ってきたお饅頭の包みを開けようとした。麻の紐を引っ張って、大きめのお皿に盛ろうとする。

後ろでは、お義母さまが「おやつですよ」と言っている。深槻ちゃんが、「わぁい、おやつ!」と喜んでいる。雫槻さんが、「みぃ、人形片づけな」と言っているのが聞こえた。


耐えられない目眩に襲われたのは、その時だった。ガタン、と耳元で響く大きな音と。


「…っ狭衣!!」


雫槻さんの声が、聞こえた。でも、目の前が真っ暗になって急速に意識が引きこまれる最中、私はその声に応えることができなかった。


***


また夢を見た。

――こっちだよ。おいで。おいで。

手招きしてくれるのは、誰の手だったのだろう。私は、何故海にいるのだろう。

海の中を、深くまで深くまで潜って行く。周りは暗くて、自分の指先すら全く見えない。

それでも、温かい何かに包まれているようで、不思議と怖さはない。

その時、ふと、思い出す。誰かが言っていた。

海は、還る場所。

それと、新しく生まれ来る場所――


ぴたりと額に手が当てられている。冷たくて、優しい手。それだけで誰だか分かる私は、ちょっとすごいと思う。

この手が大好きで。大好きで。触れながら、いつも呼んでくれる。

「狭衣さん」と。


***


うっすら目を開けると、知らない天井が目に映った。つんと臭うのは、消毒薬の臭いだろうか。ゆっくりと辺りを見渡せば、仕切りの布が周りに引いてあって、外の様子は分からない。

どうやら私は寝台に寝かせられているらしかった。理解できたのはそれまで。

ただ、窓が開いているのか、夏の風がふわりと部屋の中に入ってきたことは分かった。木製の寝台は、起き上がるとギシギシ鳴って少しだけ怖い。ふと枕もとを見ると、小さな頭が布団に突っ伏している。

腕には人形を抱いて。髪の毛はおかっぱ。真っ白のブラウス。


「…みつき、ちゃん?」


小さく細い肩をそっと揺さぶると、すぐに大きな目がぱちっと開けられた。ここはどこだという風に一瞬周りを見て、思い出したようにこちらに顔を向ける。


「さぁちゃん!!」


そう叫ぶと、勢いよく私に抱きついてくる。深槻ちゃんの泣き顔を見て、ようやく自分が倒れたことを思い出した。ふっと意識が遠くなって、ぐるぐると世界が回った後は、真っ暗になってしまってよく覚えていない。

突然倒れて怖かったのだろうか。深槻ちゃんは肩を震わせて、ぎゅうっと私を抱きしめる。


「…さぁちゃん、だいじょぶ?」

「うん。大丈夫よ」

「ほんと?」

「ほんと。ごめんね。吃驚しちゃったね」


頭を撫でてやると、深槻ちゃんはぶんぶんと首を振った。そして、余計に力強く私の胸元の着物を握りしめる。


「…狭衣さん?」


仕切り布が引かれる気配に目を上げると、お義母さまが顔を覗かせている。そして、深槻ちゃんが私に抱きついているのを見つけると少しだけ眉を吊り上げた。


「こら深槻!駄目じゃない、お靴のままお布団の上乗っちゃ!」


降りなさい、と言われると深槻ちゃんは唇を尖らせてしぶしぶ寝台から降りた。


「ごめんなさいね、狭衣さん。調子はどう?」

「すみません、ご心配をかけて…平気です。随分すっきりしてます」


どれどれ、という風にお義母さまの手が私の額に触れる。「まだ少し熱いわね」と言いながら手は離れていった。


「あの、雫槻さんは…」

「ああ。今、お医者さまと話してるわ。もうじき来るでしょ」


しきり布の向こうに見える窓の外は、もう茜色に染まる時間だ。随分と長い間眠ってしまったらしい。申し訳なくなって、私は再度お義母さまに頭を下げた。


「せっかく来ていただいたのに。すみません、逆にご迷惑をおかけして…」


お義母さまは、けれど私の頬に両手を当ててそれを制した。


「いいのよ。あなたは大事な娘なんだし。丁度良かったわ。雫槻だけなら、それこそしどろもどろになって、役に立たなかったでしょう。それに、私も一緒に聞けて良かった」

「え…?」

「まぁ、それはあの子から聞きなさいな」


にやりとお義母さまが不敵に笑った時、ガラガラと戸が開く音がした。


「…雫槻さん…」


現れたのは、雫槻さんだった。後ろからは白髪のお医者さまの姿も見える。ああそうか、ここは病院なのかと、今更ながらに理解する。

当の雫槻さんはというと、私の姿を認め、無言で私の元まで歩いて来て――

ぎゅっと、私を抱きしめた。けれど、力一杯ではなく、どこか優しく労わるように。地肌に、雫槻さんの吐息が当たる。くすぐったくて身を捩っても、離してはくれなかった。


「…なつきさん」

「…肝が、冷えます。本当に…勘弁して下さい」


人の目があるというのに、こんなに私に触れてくる雫槻さんは珍しい。けれど、雫槻さんの声が震えていて、顔が泣きそうだったから、私は何も言えなかった。不養生だったのは、私のせい。それにしても、こんな雫槻さんは初めてで、私も戸惑った。


「気分はどうですかね」


沈黙を破ったのは、お医者さまの声だった。はっとして肩越しに向こう側を見ると、お医者さまが柔らかく微笑んでいる。深槻ちゃんはお義母さまに抱かれて―抱きしめ合う私達を見て恥ずかしいのか、顔を真っ赤にして―両手で目を隠していた。

ゆっくりと、雫槻さんの身体が離れていく。本当は少しだけ離れ難いと思ったけれど。

お医者さまの話を聞くために、私も手を離した。


「大分平気です。目眩もありません」


そう言うと、お医者さまは診察書にそれを書き留めている。


「…まぁこればっかりは仕方ありませんな。よく栄養をとって備えるようにしなさい」

「…備える?」

「よく食べて、適度な運動も。女の人にとっちゃ大仕事だからね」

「…え?」


私の間抜けな応答にも、お医者さまは根気よく答えてくれる。私の顔がぽかんとするのを見て、おかしそうに笑われた。

そして。


「おめでとう。ご懐妊ですよ」


と福の神みたいな笑顔でのたまった。


「丁度二月目に入ったあたりですかね。悪阻つわりも出てきますから、養生しなさい」


「ええ!」と大きな声を出してしまい、深槻ちゃんに「さぁちゃん、しぃー」と年甲斐もなく怒られたのは、どうか許してほしい。それくらい吃驚したのだ。

けれど、逆に不調の原因がわかって、更にずっと待ち望んでいたもので、私は急に元気になってしまった。それでも心配性の雫槻さんは、病院から家に帰る時など、自分が抱えて帰るとまで言った位に神経質になった。それはさすがにお義母さまに止められたけれど。


「あなた、妊娠は病気や怪我じゃないんだから」と。


長男だから、雫槻さんは何度も子が生まれるのを見てきているはずなのに。私がそう言うと、雫槻さんは怖い顔で一言。


「話が違います」


家に帰ると、もうどこも悪くないのに雫槻さんは「寝てなさい」と言って聞かなかった。夕餉を作ろうとしたけれど、やっぱり止められた。無理やりにでも布団に押し込もうとする。


「いいです。僕が作りますから」

「雫槻さん。大丈夫ですって。もう気分悪くないです」

「駄目です」

「…もう!雫槻さん!」


声を荒げるけれど、雫槻さんに抱きしめられて結局何も言えない。慰めるようにぽんぽんと背を叩くと、大きく息をつく音が聞こえた。


「分かっています。ちょっと慎重すぎることは…でも、夢かと、思ったんです」

「夢」

「そう。狭衣さんが倒れて、情けないくらいに動揺したのに。でも」


身体を離して、雫槻さんは私の顔を覗きこんできた。そこには抑えきれない、喜びが滲み出た、とびきりの笑顔。今まで見た事もないような、満面の笑み。


「次の瞬間には、舞い上がってました」


震え上がるほどに胸が高鳴って、両拳を握りしめたんです。どうしようもない生き物ですね、男というものは。言っている言葉は、自嘲じみているのに、話す声は若々しい少年のようだ。それを聞いて、雫槻さんがどれほど赤ちゃんを待ち望んでいたのかが分かる。中々子宝に恵まれないのを、気にしていたのは私の方だというのに。

そうして初めて、実感できる。

私のお腹の中に、赤ちゃんがいる。息づく命がある。私と雫槻さんの愛し子。

雫槻さんの胸の中は、今の私みたいになっているのだろうか。じわじわと迫りくる嬉しさに、悶えそうなほどの喜び。

それを雫槻さんも今、同じように感じてくれているのだろうか。

答えは、顔を見れば一発で分かる。


「ああ。早く春が来ればいいのに」


十月十日を過ごした後の予定日は、早春だ。

本当に嬉しそうにそう言うから、私もぎゅっと雫槻さんに抱きつくことで喜びを表す。


「雫槻さん。お父さんですね」

「はは。この年になって、父が小踊りして喜んでいた理由が分かるなんて」


父という響きは、なんともくすぐったいものですねと、身を竦ませながら雫槻さんはそう言った。


何だろう。今、ものすごくこの人が可愛く見えて、ものすごく愛おしく見える。

誰かが言っていた。異性を可愛い、と思った瞬間には、もうその人に堕ちているのだと。

十七歳で恋を知った私が、二十一歳で旦那さまへの愛を知ろうとしている。恋愛、という括りだけでは到底とらえきれない。

狂おしいほどのこの感情に、何と名前をつけたらいいのだろう。今はとても分からない。

でも、それでいい気がした。


「―雫槻さん」

「何ですか?」

「名前、赤ちゃんのお名前きちんと考えておいて下さいね」


張り切って私が言うと、雫槻さんは私に一つ口づけを落として頷いた。


「任せておきなさい。僕が最高の名をこの子に送りますよ」


***


盆を丁度迎える時期だったから、墓参りも兼ねて父と母にも無事に子を授かったことを墓前に報告した。母の死から、実に二年近くの月日が流れていた。あのとき願った思いが、ようやく花開こうとしている。

思ったより待たせてしまったかもしれない。でも、今、満ち足りた気持ちで、ここに立っている。そっと下腹に手を添えるも、まだそこに命があるとはとても信じられなかった。

薄い下腹はほんのりとぬくもりを伝えるばかりだ。

膨らむのはいつだろう。動くのはいつだろう。考えると、自然と唇の端は上がる。


「――私が、お母さんですって」


きちんと務まるのかしら。そんな不安すら、今は喜びに変わる。きっと、母も私を授かった時こんな思いをしていたのだろう。


「また、見せに来ます」


大きくなったお腹を、そして生まれたわが子を。日差しの中、墓石は木漏れ日に揺れる。

父と母が、そこで笑ってくれているような気がした。



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