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櫻姫  作者:
そのはじまり
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そのはじまり

別の投稿サイトに連載していたものをこちらで再掲載します。よろしくお願いします。


『…忘れられない あの日の頃よ

そよ風かおる この並木路

肩を並べて 二人きりで

喜びも 悲しみも

うちあけ慰め過ごしたあの日

ああいとし君 いつまた帰る…』


          「何日君再来(いつの日君また帰る)」より 長田恒雄(日本語訳詩)



目が覚める。花冷えの朝の空気がそっと頬を撫でていった。

障子戸の向こうは、もう陽が上がって随分経つのか、柔らかな色をしている。

起き上がると、もうそうすることにも大分体力を使わなければならないことに、確かな老いを感じた。

ここ一月は、特にそう感じるようになった。水差しを取ろうとして伸ばした手は、皺が増え、指先も冷えている。温めようとしても、けれど、もうどうしようもない。何故だかは、私が一番よく分かっている。


――いないから。


もう、ずっと座ってものを書いていた書斎にも、この家のどこにも、あの桜並木がある河原にも、あの人はいないから。それでも、私の胸の中は決して哀しみで満ち溢れてはいなかった。

あの時――もう随分昔、それこそ何十年も前、まだ幼かった私の子どもたちに、情けなくも慰められていた時とは違うのだ。


あの時は、冬だった。今は違う。もうすぐ、春が来る。


ふと、思い立って、使い古した長持ちが置いてある部屋の隅に這っていった。苦労して蓋を持ち上げると、中には着古した着物や帯、真っ白な花嫁装束――そして。黄ばんでくたくたになった、紙の束が入っている。

もう何度読んだのだろう。

子ども達に、孫たちに、見せて見せてと言われても、誰にも見せずに、ずっとこの長持ちのなかに隠して時折こっそり覗いてた。


『また、読んでいるのですか。狭衣さん』


あの人は苦笑して、よく私を眺めていた。ふと、そんな声が聞こえたような気がして、目を上げた。

けれど、そこにあるのは静まった寝室の空気。茶色くなってしまった畳は、柔らかく日差しを吸いこんでいる。

私は破れないようにそぅっと、紙の束を広げた。変わらずそこにあるのは、流麗な文字。


『櫻姫』と。私にくれた。あの人の恋文。

大切に抱えて、縁側に出る。庭にはこの家を建て替えた時から植わっている桜の木がある。

早春の日差しをはらんで、蕾が今にも綻びそうだった。そうだ、ちょうどこんな季節だった。春といってもまだまだ花冷えの季節。

もうすぐ、桜の咲く季節だった。今でも鮮明に覚えている。


――昭和十年、春。咲き初めの桜が人の目を奪う頃。

私は、あの人に嫁いだのだ。

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