魔女の日常
とある世界の、とある王国の隣に、魔の森と呼ばれる場所があった。不可侵のその森には魔力が溢れ、何の変哲も無い動植物を魔物や魔木といった魔のモノへと作り替えていく。長く留まれば留まるほど、その肉体は森の魔力に蝕まれ魔力に馴染むためにその姿を変えていく。
穏やかである筈の草食獣は気性の荒い雑食の魔獣になり旅人を襲う。肉食獣はより凶悪になり村や町を襲撃する。人間はその身を侵す膨大な魔力に耐え切れず、その肉体は変形し魔物へと成る。それが森の魔力。森の力だった。
そんな森に、魔力過多症と呼ばれる珍しい病を患った魔女が住んでいた。溢れんばかりの魔力を持つ魔女は森の魔力に蝕まれる事もなく、長い年月をその森で過ごしていた。
魔力過多症は不治の病とも呼ばれている。食事で摂取する魔力と体内で生成され続ける魔力が飽和し、爪や髪の毛、時には指先を魔石化していく病だ。体内の魔力が飽和する前に魔力を体外へ放出しなければ、ゆっくりと全身魔石に変わっていってしまう奇病。
魔力を放出する術を持たぬ人間であればすぐに死んでしまう魔力過多症。しかし彼女は魔女だ。己の魔力を魔法へと変えて異能を行使する人在らざる存在。
例え魔力過多症と言う不治の病を患おうとも、彼女が死を望まぬ限りその症状で魔石になり死ぬことはない。
パキンッ。
風に靡く魔女の髪が一房、美しい魔力の結晶になり砕け散った。魔女は砕けた魔石に視線を向けることも無く歩き続ける。魔石はそのまま森へ還り森の魔力へと姿を変えた。
生まれたときから既に魔力過多病を発症していた魔女。人外な魔力を有した両親から受け継いだ魔女の魔力は膨大で、魔女の身を緩やかに蝕んでいた。多過ぎる魔力は魔女の体を不老不死へと変え、魔女は食事をせずとも生きていられた。魔力を取り込んでしまう食事は魔女にとって不要なものとなってしまったが故に、魔女は娯楽として気が向いたときにだけ食事をしていた。飲食しなくても生きていけるが、それをしてしまうとイキモノの枠から外れてしまったように思えてしまうから、そんな理由で普段は食事をしない魔女も一日に数度自らの魔力を与え育てた吸魔草から作った香茶だけは口にしていた。それは魔女のささやかな趣味だった。
吸魔草はその名の通り魔力を吸収する植物だ。吸収した魔力を糧にして成長するため、人間達の間では危険植物に分類されている魔草の一種である。その吸魔草から作った香茶は一度口にすると消化されるまでの時間、体内の魔力生成と体外からの魔力吸収を阻害するという効果があった。魔の森に生息するものは特に魔力を奪う力が強く、更に魔女の魔力を吸収して育ったものは桁外れの効力を持っていた。それは長い間森で生きる魔女が見つけた、知られざる吸魔草の効能だった。
しかし吸魔草だけでは魔女の膨大な魔力を抑えることは不可能だった。それでも吸魔草を日々摂り入れるのと入れないのでは少し違う。吸魔草が消化されるまでの少しの時間、魔女の魔力の増加は緩やかになっていた。魔女の趣味は日課へと変わり、香茶は魔女をイキモノの枠に繋ぎとめるものになった。
体内の魔力を魔石にして体外へ放出し、香茶で魔力の回復を遅くする。それは魔女の中で定めた一日の流れであった。永遠とも言える長い長い時の中、魔女は変わらぬ日々を過ごしていた。
魔女は時折体内に溜まった魔力で作った魔石を森全体に埋めて歩き、森の生態系を壊さないように少しずつ己の魔力を森へと還していた。時には森の境界に術を込めた魔石を埋め、人間が入り込まないように、強過ぎる魔物が外へ出ないように、結界を張りその際に遭遇した魔物を適度に間引く。
森から少し離れた場所に小指の爪程の小さな魔石を属性ごとに子供の手で掘り起こせる土の浅い層へ転送させ、そして極稀に人間の国へ少し大きめの魔石を売りに行き、森では手に入らない人間の作った物――例えばそれは羊皮紙であったり、本であったり、甘味であったり、魔女自身が作らない娯楽品であった――を手に入れる。それが一人森で暮らす魔女の生活だった。
遠い昔の、人の子との約束を魔女は今も律義に守っていた。遠い昔に出会い、一時期共に過ごした人間の子供達。彼等と過ごした日々を、彼等との約束を、魔女は覚えていた。ずっとずっと覚えていた。
「退屈、ね」
窓辺の椅子に腰掛け、人間の街で手に入れた本を読んでいた魔女がパタンと本を閉じた。こんなときは眠ろう、と魔女は目を閉じた。夢であの子たちに会えるかもしれない、そんな小さな期待と共に夢の世界に身を委ねた。
もうすぐ、二つ月の満月が昇る。