消える
名も知らぬ人たちと語り合う夢を見た。顔はぼやけていて表情を確認することはできない。目の前に座っていた人たちが楽しそうに話している。聞き覚えのある声だったが思い出すことはできない。彼らの語り掛ける言葉は全て耳から聞き流され頭の中から消え去っていく。私は適当に相槌を打って席を立つことにした。横にいる女性と少女がこちらを見上げて何か言ってくるが、これもまた聞いたそばから内容を忘れてしまう。何か大事なことを言っているのだろうか。私の腕を掴んで語り掛けている。しかし彼女らが必死に何かを伝えたくても今の私にはどうすることも出来ない。視界が唐突に白け始める。気が付いた時には天井を見つめていた。
今日も一日が始まった。大きな穴の開いた壁の方を見ると太陽の日差しが差し込んでくる。あまりの眩しさに光を手で遮る。その時、違和感がした。遮ることのできない光が私の顔を照らし続ける。目をそらした先にある反対側の腕。その手の平から透けて見える床。それを見た時に私は全てを察した。
透明化症候群が始まった。
それは約五年前に世界中で始まった奇病だ。身体が徐々に透けやがて視認することが出来なくなる。質量は完全に消滅しこの世界から存在自体が消えてなくなる。これが原因で世界人口は急激な減少を始め今では確認することもままならない。私の住んでいる地域でも私含め五人ほどの住民しかいない。つまりは私がこうなるのも時間の問題だったわけだ。
今の私には不思議と恐怖がない。それは感覚が麻痺しているのか、こうなることを待っていたのか。
さて、どうするか。私に残された時間はもう残り少ない。発症後約半月ほどで完全に消滅するからだ。昨日も近くに住んでいる人間が消えたばかりだ。いや、一昨日か。それもよく覚えていない。
どうせならばまだ生き残っている知人たちに挨拶でもしに行こうか。薄べったいせんべい布団を畳み家から出る。家と言っても公園の管理人室に勝手に住み着いているだけだが。
目の眩むような太陽の日差しは私を透過して地面に半透明の影を作り出す。こんな世界でも鳥は鳴き、虫は飛び交う。人だけが透明化症候群に侵されるのだ。
人のいなくなったアパートやビルは蔦などの植物に浸食され崩壊が始まっており、とても住めたものではない。足元には草が生い茂りコンクリートは既に見えないほどだ。周りを見渡せば街路樹の他にも関係のない場所に木が生えており、昔は無かった森ができ始めている。
しばらく歩き続けて辺りから高い建物が減ってくる頃、そこは完全に草原と言ってもいいほどに変わり果てていた。草木の爽やかな芳香につられただすらに歩き続ける。ふと空を見上げた時には夜が訪れていた。どうやら太陽が沈むことにも気付かずに黙々とこの足を進めていたらしい。だがここまで来たらもう大丈夫だろう。電灯の点くことがない夜道によく目を凝らす。そうすると蔦にまみれたガソリンスタンドの廃虚が姿を現した。
今の時代に車を使う者は少ない。透明化症候群が広まった当時はまだ使われていたが、もうガソリンスタンドへ行ってもガソリンの補給をすることは出来ないからだ。少なくともこの地域で車やバイクを乗り回すものは見たことも聞いたこともない。
「あれ、どうしたんですか」
私がこのガソリンスタンドの事務室へ向かおうとしているときに後ろから若い男の声がした。
「あぁ、そういうことっすか」
若者は私の顔に背景が透けているのを見て事を察した様子だった。
「ついにおっさんも消えますか。ほんとに僕一人になっちゃいますよ」
彼の寂しそうな顔を見て少し申し訳のない気持ちになる。しかしこればかりは仕方のないことだ。
彼はここの事務室に住み着いている青年で、体を動かすのがあまり得意でない私の食料集めを手伝ってくれていた。まだ私の半分くらいの年齢だが両親もいない中一人で気丈に頑張っていた。
「そっか、おっさん今日から始まったんですね。じゃあもしかすると僕の方が先に消えるかもしれませんよ」
透明化症候群は若ければ若いほど進行が早い。父親よりも後に発症した娘の方が早くに消滅してしまったという話は有名だ。もし彼が近いうちにこの病に罹れば親子ほど年の離れた私は抜かされてしまうだろう。彼はそのことを言いたかったようだ。
「で、これからどうするんですか」
まだ会っていない人たちに会いに行く。
「違う人のとこに行くんすか。なら消える前に紹介してくださいね。独りはイヤなんで」
軽く返事をして彼の声を背に再び歩き出す。
人が消えてから公共施設のほとんどが機能しなくなり始めた。一番の打撃を受けたのは電気だ。管理するものがいなくなったため安全装置が働き電気の供給は止まる。そのため地下水を排出する装置が機能しなくなり、あふれだした地下水により住めなくなる地域も続出した。私が今から向かうのはそんな水没都市に住まう三人親子の小屋だ。彼らは私が生きる気力を失った時に支えてくれたという過去がある。今となってはなぜ私がそこまで絶望していたのかさえ覚えてはいない。どうせ些細なことだったのだろうが。
私は丸一日歩いた。不思議と食欲は湧かず疲労も感じなかった。むしろ何か食べようという気すらも起こらない。これも透明化症候群の影響だろうか。
次第にあたりの風景が草原から湿地帯のように変わっていく。足元を抜けていく水の冷たさは私がまだこの世界にいることを感じさせてくれる。漂う水草の香りは草原とはまた違った落ち着く爽やかさを運んでくる。この場には私以外に誰もいない。私が水音を響かせる音だけが響き渡っている。私だけが水面を揺らし水草を踏みにじることのできる快感に浸っていた時に彼ら親子の小屋を見つけた。
木製の小屋が腐らぬように地面の水から遠ざけられている。
違和感だ。いつもであれば彼らの楽しそうな話が聞こえるはずなのだ。それに対して今日はどうだろう。話し声どころか生活音さえしない。
嫌な予感がした。まさか皆揃って消えたわけでもあるまい。いや、最後に会ったのが一ヵ月以上も前の話だ。可能性は大いにあるだろう。
恐る恐る扉を開ける。
そこには想像よりも不快な光景がぶら下がっていた。
確かにそこには一家の大黒柱たる男が存在していた。しかし何よりも私を嫌な気持ちにさせたのは、男が舌をだらりと出し排泄物を垂れ流しながら天井から私を見下ろしていたことだった。私はなるべく男を見ないように彼の妻と娘がいないかを確認する。まさか旦那をこのままにして別の場所へ行ったわけではあるまい。彼女らが旅に出るのに必要そうなものは何一つ持ち出されていない。考えられることはある。それは予想というよりも確信に近い何かだった。
彼女らは消滅したのだ。透明化症候群によって。そして男は彼女らの後を追ったのではないだろうか。
全身から力が抜け、やっとのことで壁に手をついて立つ。私は可能な限りの力を振り絞り外へ出ると、背負っていた鞄の中からマッチを取り出し小屋へ放った。ほとんどが木材によって作られていたため面白いほどによく燃えた。最初は小さかった火種もすぐに大きくなり、私の鼻先を焦がそうかというほどに燃え盛っている。木材がパチパチと弾ける音は友人とキャンプファイヤーをした時のことを思い出す。その友人の顔は思い出すことが出来ないのが気持ち悪い。
透明化症候群は不治の病だ。治療することも出来なければ予防や進行を遅らせる方法も明らかになっていない。それどころかいまだに原因さえ掴めていないのだ。医者や研究者がまだ残っているとも限らない。少なくとも機能はしていないだろう。そんな中でこの状況をよくすることなど不可能だろう。
この男は目の前で愛する妻と娘を失った。少しずつ消えていく身体を抱きしめて、励まし続けるとき彼は何を感じていたか。子供の方が早くに消えて残された父と母。二人で何を語ったか、或いは何も言葉が出なかったのか。そして独りになって自らの生を絶つに至った彼の心境とは。
透明化症候群を避ける方法が自分自身で死を選ぶこととは何とも皮肉なことだ。
しばらく立ち尽くしていると炎の勢いは収まり、やがて黒い塊となって崩れ落ちた。近くの水が汚く濁り始め鼠色が辺りを埋めつく前にこの場を立ち去った。
なぜだろうか、あの親子の出来事をいやに自分の事のように考えてしまって胃の辺りが締め付けられるような気持ち悪さに襲われる。
彼らの事を心に引きずりつつも私は歩みを進めた。
私が会いたい最後の人は学生時代の恩師だ。齢八十にして透明化症候群を発症した。寿命と消滅のどっちが先かという冗談で笑いあったのを覚えている。だがいくら年寄りが長持ちするからといって一年ももつわけではない。年齢を考えると恐らくここ一週間の内に消えてしまうだろう。その前に会っておきたかったのだ。彼女の家はここから歩いて二日ほどの距離にある。一日かけて湿地帯を抜けるとそこは再び草原に戻る。この辺りは鉄骨の家が少なく建物は崩壊しているというよりも侵食してきた植物と一体化している。そしてこの連なる植物の塊の中で奇跡的に人の入れる形をしている木の洞に彼女は住んでいる。
歩きに合わせて動く私の手は最初に確認をした時より明らかに薄くなっている。本当に半月持つのか心配になってくる。
朝から歩いて日が暮れるころようやく彼女の住んでいる大樹を見つけた。しかし中に彼女はいない。間に合わなかったか。こっちを先回しにするべきだったかと後悔し始めていたっと時。彼女の声が聞こえた。
「やっと来たのか、お前は。もう消えるぞ」
振り向くと見慣れた老婆が私の背中まで詰め寄るところだった。
口調からだと元気な様子に見えるが改めてみるとほとんど透明に近かった。この夕暮れ時にはかなり見づらい。
「なんだいアンタもやっちまったのか」
老婆はおかしそうに言う。私も彼女ほどではないがかなり見えづらくなっているだろう。
「もうお前しか会いに来てくれないか」
既に他の彼女の生徒はいない。私が最後の生き残りだ。
「お前は消えるまでに私の事を覚えていられないだろうね」
唐突に言ったその言葉は透明化症候群の最も不可思議な効果についての事だった。
この病気にかかって消滅したものは残ったものの記憶から徐々に消えていく。姿と記憶、つまり存在自体を消滅させてしまうのがこの病だ。記憶については透明になる前とは逆の事が起きる。年を取っていればいるほどすぐに忘れ去られ、若ければ若いほど残ったものの記憶の中で残り続ける時間が長い。
私の倍近い年齢の彼女では消滅後一時間ほどで記憶からいなくなるだろう。
「じゃあね、今まで話に付き合ってくれてありがとう」
声を聞いて老婆に意識を向けるとそこには誰もいなく、私がただ一人で木の前に立っているばかりであった。透明化症候群による別れは突然だ。既にかつて世話になった恩師の顔が頭の中でぼやけている。それ以上どうすることもなく私は元いた自分の家に戻る事にした。
何かやらなければいけないことがあったような気がしてここまで来たはいいものの肝心の動機が思い出せない。ただ、思い出せないということは既に消滅してしまった人との用事だろうということは何となく予想出来た。
そこから家へ帰るのに三日を要した。どれだけ世界が荒廃しようとも自身の住処に帰ってくると何故か心が安らぐ。
入り口の扉から部屋全体を見渡す。一人で住むには少し大きいこの管理人室は壁の高い位置に大きな穴がある。そこから差し込む太陽が私の目覚まし時計の代わりとなり、夜には月を拝むことが出来る。ちょうど今は月の光が入り込んで畳んだ布団の横のちゃぶ台を照らしていた。
ちゃぶ台の上には写真立てが飾っており綺麗な女性とそれによく似た少女が写されていた。なぜだかこの写真を見ていると心が落ち着く気がしてなかなか捨てられないままだ。そしてこの写真を眺めていると不思議と涙が零れ落ちてくるのだ。
彼女らは私の大切な人たちだったのだろうか。この前の親子の事を思い出す。あの男は妻と娘のいない世界に耐え切れずあの行動に至った。私と彼とは何が違ったのか。ガソリンスタンドに一人きりで暮らす青年。彼はなぜ家族が消滅してなお気丈になれたのか。
五年前から始まったこの生活で出会ってきた人々、そのほとんどは私の頭から消え去っている。今度は私が忘れられてしまう番だ。
こうして消えゆく人々は家族や友人から忘れ去られてしまうことについて何を思いながら消えていったのか。
私は改めて写真立てを手に持ち彼女たちの姿を目に焼き付けたようとした。だが視界が滲んで見たくても前が見えない。
彼女たちもそうだったのだろうか。
私の瞳から零れ落ちた雫は透明な肌に滲んで消えた。