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東京啼刻  作者: kirakara
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囁く声

小さな嘘をついた。


いや、あの大惨事の結果からすれば大きな嘘だったのかもしれない。

そもそも嘘に大小なんてないようにも思える。


部屋で一人佇む私に、繰り返し聞こえる蝉の鳴き声だけがとてもむなしく響いた。

屋敷の主人の腹の底まで響き渡るあの雷鳴のような怒号を耳にすることも嫌だったし、何よりあの大きな拳で殴られる痛みに耐えられそうもなかったから――



大正十一年八月、帝都・東京。



東京市浅草区の浅草寺から六・七町ほど先に、この辺りには似つかわしくない大きな門構えの屋敷があった。

ここで私、小日向ナツは住み込みの使用人として働いていた。



わずかばかりの離れた距離であるにも関わらず、浅草寺から続く仲見世、寄席・活動写真や見世物小屋など多くの人でごった返す六区の華やかな賑わいもここまでは届かない。

窓の外に目をやるとそれはいつもと変わらない景色だったが、ぼんやりと今日も十二階は大きいなぁと呟いた。


屋敷の周りは随分と老朽化した長屋が軒を連ね、その長屋と長屋の隙間に木材の壁が腐って割れた粗末な家が乱雑に建っており雑多としていた。

又、周囲の住民は貧乏人だらけだった。


そう、私と同じ。


往来では、日中はボロをまとっている子供や女たちが独占し、夕暮れ時になれば仕事帰りの汗でドロドロになった男たちが力ない足取りで帰ってくる。


そろそろ主人が帰ってくる時間。

屋敷の中は静寂から使用人たちの慌ただしい足音が聞こえてくる。

使用人たちに、あれはどうだとか、これはどうだとか細かい指示を出す『奥様』の甲高い声が屋敷に響く。

私には来ないでほしいと思った矢先、強い口調で、

「ナツ、玄関の掃除はもう終わったんだろうね?」

「はい、終わらせております」

本当に終わっているのかねえと吐き捨てながら、確認するためなのか玄関の方へ歩を進めていった。


近所からはこの屋敷は『成金屋敷』と言われていた。

広い敷地をぐるりと高い塀で囲み、大きな門は車が並走して出入りできるほど大きなものであった。

部屋数は多く、応接間や書斎などを備えているものの、二階建ての西洋式の家屋があちらこちらで建てられている昨今で、この屋敷は平屋で、時代錯誤も甚だしいほどの武家屋敷そのものだった。


「玄関に落ちてたじゃない!」

くしゃくしゃに丸まった紙をナツの前に突きつけた。

「いえ、さっきはそんなものなかった…」

ナツが言い終える前に思いきり右頬をはたいた。

「言い訳する前にちゃんとやりなさい。本当にバカなんだから!」

ナツは力なく震えた声で、うつむきながら、申し訳ございませんと謝ることしかできなかった。


主人は細々と紡績工場を東京市内で経営していたが、先の欧州の大戦で多額の財を成したいわゆる「成金」となった。

しかし景気が後退することを肌で感じ取ると、早々に工場を閉鎖し現在この場所で隠居暮らしをしていた。

もっとも商売から完全に身を引いたわけではなく、趣味である骨董品収集からそういった店をやりたい、場所は神田あたりで、と口にしているのは何度も聞いたことがあった。

ただ、今始めるには景気が悪すぎるとか、信用できる人間がいないとか何かと理由をつけては店を出すことを渋っているようでもあった。


「ナツ、気にしないことよ。奥様のいつもの嫌がらせよ」

同じ使用人で二つ年上の桜が優しく右頬をさすりながら言った。

奥様は度々こういった嫌がらせをしてくる。起こっていないことが起きる。


それも私にだけ。


そのたびに頬をはたかれ、決まってバカだと罵られる。

あの甲高い声と冷たい視線は、恐怖以外の何物でもなかった。

「ええ、気にしてませんわ。大丈夫です。桜さん、いつもありがとうございます」


でも悪いことばかりじゃない。

こういったことが起こると、必ず桜が寄り添い声をかけてくれた。

屋敷では巻き添えになりたくないと、ほかの使用人や書生までもが見て見ぬふりをして、何となくナツには距離を取っていた。

そんな中でも桜だけがなりふり構わず優しくしてくれる。



それだけでよかった。

それだけで嬉しかった。



主人が戻るときは、玄関先の門を大きく開けて出迎える決まりがあった。

どこで何をしているのかはわからない。

夕方の五時ちょっと過ぎには大体帰ってきたが、戻る時間は曖昧なものなので、酷いときは二時間近く玄関先で立たされっぱなしということもあった。


今日はいつも通りの時間に黒塗りの車が入ってくる。

運転手が扉を開け、主人の左足が地面に着くと同時に使用人たちはおかえりなさいませと声を揃え、深々とお辞儀をする。

そして奥様は主人にさっと寄り添い主人に耳打ちをした。

みるみるうちに鬼の形相に変わった主人はドカドカと桜に詰め寄る。


「おまえ!あの大切にしていた箱を壊したというのか!」

「申し訳ございません!書斎のお掃除をさせて頂いているときに机から落ちてしまいまして…」

「ふざけるな!この役立たずが!」


主人は桜の顔面を思いきり殴り、倒れこんだ桜の腹に何度も蹴りを入れる。

こうなると誰も止めることができない。


「申し訳ございません」と何度も桜の悲痛な声を無視して主人はさらに蹴りを加える。

「あれほど、あれほど大切にしろと!連絡ができなくなったらどうする!この恩知らずが!」


ナツは自身の身体の震えを感じ、これ以上見ていられないという心境から目を閉じていたが、主人の怒号や桜の叫び声が直接耳に飛び込んでくるようで、その恐怖は何倍にも増長した。

直立不動が絶対なので耳を塞ぐこともできない。

そしてナツには大きな心の引っ掛かりがあった。


「どうしよう。私のせいで桜さんが…」


書斎を掃除していたのは桜だけではない。ナツも一緒だった。


主人が大切にしている『箱』とは木製の小箱で、何の装飾も施されておらず、箱の大きさに不釣り合いなほど大きな南京錠で閉じられていた。

書斎にはあらゆる骨董品が乱雑に置かれていたのだが、この『箱』だけは大きな机の左隅の決まった位置にあった。


主人からは、この箱に絶対に触れてはならん。いいか絶対にだ!と、何度も念を押されていた。


だが今日、ナツは奥様にまたあらぬ言いがかりをつけられるんじゃないかと散漫になってうっかり机から落としてしまった。


「あっ!」


ナツの声を聞いて桜が駆け寄ったとき、箱の上蓋がすこし開いているように見えた。

そして、紫の煙が少し箱から漏れ出ているのをナツは見た。

「わ、私、大変なことを…」

桜はさっと机とナツに割って入り、落ちた箱を片手で拾い上げた。

そして箱をそっと机に戻すと、抱きしめながら耳元で優しく言った。


「大丈夫よ。ナツは何もしてないのよ。わかったわね。大丈夫」

そう言うと桜は書斎から出て行った。


桜の声が聞こえなくなり、恐る恐る目を開けると、遂に桜は声を上げることもできないのか、地面に突っ伏したままとなっていた。

息切れをし大きく肩を震わせながらも、それでも主人は執拗に蹴り続ける。


再び目を閉じようとしたナツに男性の声が響き渡った。


「相手を憎め。さすれば道は開かれん」


聞いたこともない声だった。

誰?誰なの!?心の中で問いかけるが、返事は無い。

そしてまた同じ言葉が心の中でこだまする。


それまで経験の無い不気味な違和感を感じながらも、気を失っても執拗に桜を蹴りつける主人を見て、あれはややもすれば私だった…どうして、どうしてこんなことに…


もうやめて!と主人に対し憤りをぶつけた瞬間、


「グワッ」


突然主人が叫び顔を両手で覆った。そして両手の指の隙間から物凄い勢いで血が噴き出した。

主人は両膝をついて、うなだれると血が地面に対して吹きつけられた。


「ガアアアアアアアア!助けてくれぇ!」


書生が慌てて主人に駆け寄る。ほかの使用人たちは目を背け絶叫していた。

ナツは茫然としながらその光景を見ていたが、不思議と恐怖を感じず、慌てて桜に駆け寄った。


「すべては望みゆくままに」


笑いながら男の声が聞こえた。

ナツは桜を抱きかかえながら呟いた。


「そうね、私には必要なのかもしれない。だから、もう少し…」








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