38 もらったパゼロで走り出さない
パゼロとともに乗り込んだアルヴィー族の集落は、静寂に包まれていた。
ゴーレムは集落から大勢の足音が聞こえる、などと言っていたが、少なくともパゼロに乗った俺や、飯酒盃や、レトラには、物音ひとつ聞こえない。
更に周囲に立ち込めた朝霧が集落全体を覆いつくし、視界を遮っている。
まるで一夜にして集落全体が死んでしまったようだった。
「不気味な静けさだな……」
俺は細心の注意を払って、濃霧の中へ意識を張り巡らせる。
夜半、寝ぼけ眼で家計簿をつけながら金曜ロードショーのゾンビ映画を流し見してきた俺ならば分かる。この状況で下手に動くのはかえって危険だ。
たいてい、こういう時に調子に乗った行動をとる奴が真っ先にゾンビに食われ、それを皮切りにチームが崩壊する。
大体そうだ、そうに決まってる。だからこそここは慎重に慎重を期さねばならない。
「あ、だったらなにか音楽でもかけますかぁ?」
そんな風に神経を張り詰めさせていると、赤ら顔の飯酒盃がこちらへ尋ねかけてきた。
……何言ってんだこいつ。
「なんで? なんでこの状況で音楽をかけようと思った?」
「恭介君は静かなの苦手なのかな、と思いましてぇ」
「俺はお前が全然分からねえよ、第一音楽なんてねえだろ」
「案外あるかもしれませんよぉ、例えばこんなところに」
そう言って、飯酒盃はおもむろにダッシュボードを開け放つ。
すると、ダッシュボードの中から数枚のCDがざらりと現れた。
「ビンゴですねぇ」
「いや、あんのかよ」
確かに理想郷にいた頃もダッシュボードを開けたことは無かったが、まさかCDが入っているとは。なんのサプライズだ。
あれか? まさかこれがチートをもらえなかった俺に対する女神のお情けか? 余計なお世話だコノヤロウ。
「ちなみにこういったラインナップになってまあす」
飯酒盃は実にウザい事に芝居がかった口調で数枚のCDを手に取り、こちらへ見せてくる。
俺は露骨に顔をしかめて、渋々とCDのラインナップを確認した。
……全部尾崎なんだけど。
「なんで尾崎? なんで尾崎オンリーなの? 俺、女神に初対面で尾崎好きと思われてたの?」
いや、確かに尾崎好きだけど、おかしくない?
現代っ子の俺に、尾崎チョイスはおかしくない?
「私“OH MY LITTLE GIRL”が聴きたいです」
「そしてお前もなんでそんなすぐに受け入れるの? おかしくない?」
飯酒盃がパッケージからCDを取り出し、それをカーオーディオに挿入して再生ボタンを押す。
完全に無視である。
カーオーディオからきゅるきゅるとCDを読み込む音が聞こえてきて、すぐに尾崎の歌声で車内が満たされる。
飯酒盃は目を閉じてしんみりと酒を舐めながら彼の美声に浸っているし、一方で後部座席のレトラはといえば忙しなくあたりを見回していた。
レトラは異世界人であるからして、当然のことながら音楽を再生する機器の存在など知らないのだ。
「きょ、キョウスケ様? なんですかこの声? どこから聞こえてきてるんですか?」
「説明しづらいんだけど、これは俺の故郷の歌、そんでこの機械はいつでもその歌を繰り返し聴けるっていう、そういうものなんだ」
「はあ……?」
レトラは首を傾げる。
やはり、理解するのは難しそうだ。
近所のジジババどもに“インターネット”の仕組みを教えるぐらい難しそうだ。
ともすればあいつら平気で「この板の中には人がいるんかね?」ぐらい言ってくるからな、異世界人よりよっぽど異世界人みたいな反応をする。
しかし、ともかくこれが危険なものでないと知って、尾崎の歌声を聴くぐらいの余裕ができたのだろう。
レトラは少し落ち着きを取り戻して、この歌声に耳を傾けた。
「これがキョウスケ様の故郷の歌ですか……正直、私にはよく分かりませんが、しかし、なにか心を揺さぶるようなものがありますね……」
おお、レトラにも分かるのか。
尾崎の歌って万国共通どころか、異世界でも通じるんだな。
俺は改めて彼を尊敬し、そして彼の歌声に浸った。
自然と三人は彼の歌声を共有した。とてつもない一体感がそこにあった。
――さて、何か忘れているような気がする。
ドガァン! と、パゼロに凄まじい衝撃が走った。
車体が激しく揺さぶられ、俺と飯酒盃とレトラは、尾崎の歌声が紡ぐ世界から強制的に引き剥がされてしまう。
引き剥がされただけでなく、勢いで三人とも狭い車内の中に頭を打ち付け、おかしな体勢になり、レトラに至ってはぐるぐると目を回している。
「びっくりしましたねぇ、せっかく気持ちよく尾崎に浸っていたのに、いきなりなんですかぁ?」
「う、うう……きょ、キョウスケ様、これは……?」
「絶対ヤバい」
――あぁ、天にまします我らがドジっ子女神様。どうか今の内に弁解させてください。
今回の件は全て飯酒盃のバカにそそのかされてしたことです。
決して、ゾンビだらけの集落のど真ん中で尾崎に聴き入っていたとか、そういうことじゃないんです。
しばらくぶりに音楽などという文明的なものに触れて、舞い上がってたわけじゃ、決してないのです。
だからお願いします。次こそは俺に惨めポイントをください。それも、しこたま。
俺はゆっくりと窓の外の様子を窺う。
すると車の左右を挟むようにして、数人のアルヴィーの女たちがパゼロに群がっていることに気付いた。
もちろん、その全員が瞳を深紅色に染め上げて、牙を剥き出し、ぐるるると唸っている。
あぁ、古今東西、あらゆるゾンビ映画で何度このシーンを見たことか。
ちなみにこの後の展開として車の中にいる奴らは全員死ぬ。ほぼ100%。
ドガァン! と再びパゼロを衝撃が襲った。レトラが短い悲鳴をあげる。
アルヴィー・ゾンビ(仮称)たちが、車の側面から体当たりをかましているのだ。
さすがのシックスパックと言ったところか、理想郷の風にすら耐えきったパゼロがひっくり返されてしまいそうだ!
「もう、うるさいですねえ、じゃあ次は“卒業”聴きましょうか」
「じゃあってなんだよ!? そしてなんでこの状況で卒業!?」
今まさにパゼロの窓ガラス割られそうなのに!?
「キョウスケ様っ! たす、助けてください! 齧られてしまいます! また齧られてしまいますっ!!」
飯酒盃が呑気にもCDの取り出しボタンを押している最中に、後部座席のレトラがこの世の終わりみたいに叫びまくっている。
そしてこの騒ぎを聞きつけたらしく、霧の中から続々と新たなアルヴィー・ゾンビたちが集まってきて、あっという間にパゼロを取り囲んでしまう。
四方見渡す限りの美女集団、見ようによってはハーレムである。……デジャヴだった。
しかし前回とは違う点が二つある。
一つは彼女らから一様に理性というタガが外されていること。
そしてもう一つは、その一人一人が俺たちなんかを遥かに凌ぐレベル、ということだ!
「ぎゃあああ! キョウスケ様! もう終わりです! 私たち全員齧られちゃいますよぉ!!」
「クソ! いっそ本当にただのゾンビなら踏ん切りもつくのに!」
なまじ飯酒盃の“ソーマ”で正気に戻せると分かっている分、迂闊に手が出せない! さながら攻撃してくる人質といった感じだ!
更に言わせてもらえば、たとえ俺のHPが100万あろうともヤツらにひと噛みされれば、残りのHPなど関係ない。その時点で終わりである!
なにか、なにかいい策はないか! この状況を切り抜ける最善の手は!
いつものように閃け! 俺の脳みそ!
……ダメだ! 尾崎の美声に邪魔されて何も思い浮かばない!
「ああ、もう終わりだ。今回に限っては本当に終わり、さようならグランテシア、次はもっとマシな異世界生活をお願いします」
「キョウスケ様ぁ! お願いですから諦めないでください!」
「尾崎の歌を聴きながら死ねるなら本望だ」
次の転生では長渕がいいな。
シートに背中を預けて、ゆっくりと目を閉じる。
その時だった。
パゼロの外からなんだか鈍い音が断続的に聞こえてくる。
文字に起こせば、ばた、ばたばた、ばたばたばた、という感じだ。
人が安らかに最期を迎えようとしている時に、一体何の音か? 俺はゆっくりと目を開いた。
すると、どういうわけか、パゼロの周りからアルヴィー・ゾンビたちが忽然と姿を消しているではないか。
俺が目をつむっている間にいったい何が起こったのか問いただそうとレトラの方へ振り返れば、あれだけぎゃあぎゃあと喚いていたレトラが、シートに深く体をうずめて、寝息を立てている。
飯酒盃も同様だ。ヒョウタンを抱いて、すうすうと寝息を立てている。
ふいに、独特の甘い香りがつんと鼻をついた。
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パッシブスキル 毒物耐性(大) が発動しました
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眼前に現れたメッセージウインドウが、その匂いの正体を報せてくる。
はたと思い立ってウインドウからパゼロの直下を覗き込むと、消えたアルヴィー・ゾンビたちは、全て地べたに倒れ伏していた。
一様に、すうすうと寝息を立てている。
「ホント、アンタ敵を引き付けることだけは得意よね」
霧の向こうより声がした。
そちらへ目をやると、彼女は霧の中より現れた。
持ち手のついた巨大な香炉を引っ提げて、厚手の布で口元を覆った彼女は、やはりいつもと変わらぬ鋭い目つきで、呆れたように言った。
「――まぁおかげでまとめて眠らせられたんだけど」
マリンダの姿が、そこにあった。




