27 湯~とぴあ(後編)
「――はぁ、極楽ですねえ、まさかこんなところでまで露天風呂に入れるなんてぇ」
ゴーレムをなだめて、人生初の温泉をたっぷり堪能していったアルヴィー族の子どもたちを見送ったのちのこと。
では改めて温泉を堪能しようではないかと思えば、いつの間にかそいつが湯に浸かっていた。
日本人らしく、しっかりと温泉の作法に則り、一糸纏わぬ姿で温泉のヘリに背中を預ける彼女。
立ち込める湯気の合間から、彼女の柔らかそうな肢体と、豊満な谷間が垣間見える。
さて彼女は湯船に浸かったまま、相も変わらず赤い盃を傾けていた。
「飯酒盃、お前いつの間に」
「細かいことはいいじゃないですかぁ、飲みましょうよ恭介君」
すっかり頬を赤らめた飯酒盃が、俺に酒を勧めてくる。
俺はというと、咄嗟に視線を逸らした。
――その状態で不用意に動くな!
今は水面の揺らめきと絶妙の湯気加減が彼女の大事な部分を上手くぼかしてくれているのだ! その均衡を自ら崩そうとするな!
「ねえ、私のお酒は飲めないっていうんですかぁ」
「少なくとも今はぜってー飲まねえよ!! 手酌でもなんでも一人で飲んでろ酔っ払い!」
「そう言わずにぃ、ささ、ぐいーっと」
こちらの心境など知ったことか、と言わんばかりに、彼女はこちらへ詰め寄ってくる。
当たってる! 必死で視線を逸らしているので何かは知らないが、柔らかい何かが当たってる!
面倒くせえなこの酔っ払い!
ゴーレムに助けを求めようと思っても、ヤツは不貞腐れてどこかへ行ってしまったし! 誰でもいいから助けてくれ!
もはや湯当たりか、それとも別の衝動か、それすら分からず頭に血を上らせていると――
「な、なにをやっているんですか!」
この声はレトラだ! 思わぬタイミングの助け船。地獄に仏、蜘蛛の糸。
俺は存分に感謝して、そちらへ目をやると――さあ、いよいよ頭の血管が切れてしまうのではないか、というほどの衝撃が俺を襲った。
ゴーレム温泉のヘリにレトラが立っている。ターニャと、例の気が強そうな少女マリンダの二人も。
ただしその全員が例の服を脱ぎ去り、生まれたままの姿であった。
一転して後門の虎、前門の狼である。
「あらぁ、皆さんお揃いで、飲みますかぁ」
「飲みません! というかキョウスケ様から離れてください!」
「つれませんねえ」
湯船の中をじゃばじゃばとかき分けて、俺と飯酒盃の間にレトラが割り込んでくる。
その未成熟ながらも引き締まった、健康的な肢体が俺の視界いっぱいに広がった。
レトラ! その気遣いは本当にありがたいが、その姿で俺の目の前に立たないでくれ! 見えるから!
「ゴーレム殿から聞いたが、どうやら地熱に温められた水を引いているのだそうだ。しかし、ふむ、これもなかなか」
「ふん、転生者もまた妙な事ばかり思いつくものですね」
こちらの惨事などどこ吹く風、といった具合に、続いてターニャとマリンダが湯船に体を沈めて、初めての温泉を堪能している。
ターニャの完成された女体美と、マリンダのスレンダーな身体が視界へ飛び込んでくる。
どちらも見事なシックスパックだ……という感想はともかく、とうとう視線の逃げ場すら失った。
いっそ俺が逃げ出してしまおうかとも思ったのだが、そうなれば今度は俺の俺を公開する羽目になる! 見事に八方塞がりだ!
「ああそうだ、キョウスケ殿、あなたの衣服は今仲間に川で洗わせているのだが、なにか不都合があれば言ってくれ」
「……わかった、なにからなにまで悪いな」
「それは構わんが……何故そんなにも目を細めている?」
「苦肉の策だ」
「?」
ぼやけた視界の中で、確かにターニャの不思議そうに首を傾げるのが見えた。
「まぁそれはともかくとしてキョウスケ殿に折り入って相談がある」
「なんだ?」
「勝手な要求なのは分かる。キョウスケ殿の持つ箱を、しばらく私たちに預けてほしいのだ」
箱、とは十中八九、チートボックスのことだろう。
それも俺が、近藤琢磨から奪った(と言えば語弊があるが)ボックス“天上天下唯一無双俺俺俺”のことを指しているのだろう。
「別にいいぞ」
俺はあっけらかんと答えた。
薄まった視界の中で、ターニャは目を丸くして、マリンダはより一層不審がるようにこちらをねめつけた。
「……驚いたな、まさかこんなにもあっさりと承諾するとは」
「元々、あんなもの偶然手に入ったオマケみたいなものなんだ、それに、俺にはあまり必要ない」
前回使った時に思ったのだが、やはりチートというのは俺の性に合わない。
ましてあれは俺のチートではない。
近藤琢磨が自らの苦難に満ちた人生を精算し、獲得したもの。
どのみち、俺が持つにはふさわしくないのだ。
「大方、俺がチートボックスを持っていると不安がるヤツらがいるからだろう? そういうことならいくらでも預けるよ」
「……はっはっは! やはりキョウスケ殿は見上げた男だ! いや男にしておくのが惜しい!」
ターニャは豪快に笑って、俺の背中をばしばしと叩いてくる。
その豪快さが、今は恨めしい。
俺は湯船の上でふるふると揺れる二つの双丘をシャットアウトすべく、更に糸のように目を細めた。
「そうでしょうそうでしょう、やはり私の目に狂いはありませんでした」
何故か得意げに言って、うんうん頷くのはレトラである。
前を隠そうともせずに。
そういえば女子高などでは、周りが女ばかりであるために、そういった恥じらいが希薄になると聞く。
こういうことか、こういうことなのか。
そろそろ瞼を支える筋肉がはち切れそうであった。
「さて、ではここからは私もキョウスケ殿を信頼した上での真面目な話だ」
ターニャがおもむろに神妙な顔つきになって、こちらと向き合う。
「キョウスケ殿には、我らがすでに一つ、箱を保管しているという話を、以前したと思う」
「……そういえば言ってたな、つまりこの集落のどこかには他にチートボックスがあるってことか?」
「詳細な場所は言えんが、そうだ。ほんの数か月前に“神の住まう山”の麓にあった人の亡骸らしきものの傍で転がっていたものを、私たちが回収した」
神の住まう山、とは案の定あのテーブルマウンテンのことだろう。
その麓の亡骸というと、もしや俺と同じく理想郷へ転生させられるも、吹きすさぶ風によってなすすべなく投げ出され、哀れにも落下死した転生者ではないか。
それならば、亡骸の傍に転がっていた、というのも説明がつく。
……というか“人の亡骸らしきもの”って。
そりゃ、あの高さから落ちればその後どうなるかは想像がつくが、なんとグロテスクな……
「君たち転生者は、あの箱を用いて力を解放するのだろう。それぐらいは私たちでも知っていた。それが邪な考えを持つ者たちの手に渡ればどうなるかも」
「ですから、その箱は私たちアルヴィー族が厳重に保管しているのです」
「しかし、ある問題が起きた」
「……例の奇病か」
「そう、この忌々しき病のせいで私たちは力を失った。生きるための狩りすらままならなくなるほどに」
「そしてそれは同時に、私たちが箱を守ることすら難しくなった、ということです」
確かに、レトラを除くアルヴィー族全員が例の“レベルを1に戻す病”に侵されている今、その箱を狙った邪な人間が集落へ攻め入れば、いとも容易く突き崩せる。
彼女らは今、侵入者に対抗する術を持たないも同然なのだ。
なればこそ俺たちに対するあの攻撃的で一種過敏な反応も頷ける。
仮に、仮にだ。
もしアルヴィー族の保管するチートボックスを狙った邪な輩が現れなかったとしても、狩りもままならないのでは、集落自体の存亡すら危ぶまれる。
なるほど状況はかなり逼迫している。
「重ね重ね、勝手ばかり言って済まない。しかし、どうしてもキョウスケ殿には私たちを救ってほしいのだ」
「私からもお願いします」
ターニャとレトラが、同時に懇願の姿勢を見せてくる。
ううむ……救うといった手前、投げ出すことはしないが、実際問題どうしたものか。
そもそも“レベルを1に戻す病”とはなにか、そこから考えなくてはならない。
これが一過性のものなのか、まさかとは思うが半永久的なものなのか、発生源はどこか、根本的な解決のためにはどうするべきか。
課題は山積みだ。学のない俺に、一体どれほどのことができるか……正直見当もつかない。
どうしたものか、と腕組みのまま視線を泳がせていると、遠巻きにこちらをにらみつけるマリンダと目が合った。
彼女は目が合うなり、じわじわとこちらへにじり寄って来て、耳元で囁く。
「どんな手段で長とレトラを篭絡したのかしらないけど、私は騙されないからね」
「……別に騙してない」
「ふん、とりあえず今はそういうことにしといてあげるけどね、いつ化けの皮が剥がれるか見ものだわ」
彼女の目は、これ以上ないほど懐疑に満ちていた。
別に信じてもらえなくとも構わない。
というか俺たちみたいな余所者をいきなり受け容れろということ自体、どだい無理な話なのだ。
こんな風に疑いを持つ人間が現れるのも当然である。
それは分かってる。分かってるから、とにかく耳元で囁くのをやめてくれ!
吐息が耳先をくすぐって、もうなにがなんだか分からなくなってくる!
「あと、間違ってもレトラに手を出そうなんて思わないことね」
「はい?」
何故レトラの名前が出てくる?
いい? と、彼女は今日一番の鬼気迫る表情だ。
「レトラは、私たちにとってかわいいかわいい妹みたいな子なの」
「可愛がられてるのは、なんとなく分かるが」
「あらそう、ならこれも分かるわよね」
「……なんだよ」
マリンダが、ずいと顔を寄せて耳元で囁く。
「――レトラを傷物にしたら一族総出であなたのソレ、使い物にならなくするから」
「ヒッ」
縮んだ。なにがとは言わないが、すん、と縮んだ。
彼女はそれだけ言うと、ゆっくりとこちらから離れていく。
「なんだ、マリンダもキョウスケ殿と打ち解けられたようだな」
「ええ、長」
マリンダは打って変わってにっこりと微笑む。
そしてその微笑みを、こちらにも向けてきた。
……目が笑っていない。
「ではマリンダ、私たちはそろそろ上がるか、宴の用意をせねばならん、ああ、今度は睡眠毒はナシだ。安心してくれ、はっはっは」
笑えない。
「じゃあ私たちは上がるから、レトラも早く上がってきなさいよ」
「分かりました!」
こうしてマリンダと、ターニャはゴーレム温泉をあとにした。
まるで嵐である。
依然気を緩めてはいけない状況なのは分かるが、それでもほっと胸を撫でおろす。
レトラと隣り合わせに座り、同じ空を見ていると、ふいにレトラが語りかけてきた。
「キョウスケ様、私は今とても幸せです」
「なにがだ」
「キョウスケ様と、ゴーレム様は私たちに可能性を開いてくれました」
「俺が?」
俺はまだ何もしていないぞ。
例の奇病の対処法すら未だ思いつかないというのに。
「俺は何もしてない」
「そう思っているのは、キョウスケ様だけですよ」
レトラはくすりと笑った。
その仕草は妙に女の子らしく、温泉の熱で上気した頬も相まって、図らずもどきっとしてしまう。
「キョウスケ様たちは多くの可能性を示しました。ブルーマンの群れをなぎ倒し、アルヴィー族の包囲網から鮮やかに逃げおおせて、這う者をたったの一撃で倒した上、あの頑固者の長に気に入られました」
「……大したことじゃない」
「大したことですよ。キョウスケ様は、私の希望です。暗闇に差す一筋の光明です」
気が付くと、空が茜色に染まっていた。
もうすぐ夜がやってくる。一番星が俺たちの直上で煌めいた。
「……私の母は、先代の長でした」
レトラは空を見上げたまま、ゆっくりと語り出した。
「母さんはとても強くて、凛々しくて、立派な人だったんです。私も母さんが好きでした、今の長も、マリンダも、みんな母さんが好きだったんです」
彼女は、一つ一つの単語を嚙みしめるように、そして思い出すように語る。
レトラの宝石のような瞳が、心なしか少しだけ潤んだように見えた。
「……でもある日、私たちの前にテンセイシャを名乗る人間が現れました」
「テンセイシャはおそろしい力を持っていました。そして、さした理由もなく私たちの尊厳を踏みにじり、自らの僕としようとしました」
「――そんな時に立ち上がったのが母さんです。母さんはたった一人、アルヴィー族の誇りを守るためにテンセイシャと戦い、仲間たちを逃がしました。しかしテンセイシャとの死闘の末、殺されてしまったのです」
「だからこそ、皆テンセイシャが嫌いなんです。お母さんの、先代の長の敵だから」
彼女はそう言って、いったん話を区切った。
顔を逸らしてこちらへ顔を見せないようにしているものの、語尾が震えている。
彼女というダムは、今にも決壊してしまいそうであった。
「……転生者を恨んでいるか」
「全く、といえばウソになります。……でも、私はきっと一生この感情を引きずって生きていくんです。だから、あとはけじめをつけるだけです」
「けじめ、か」
「……私は母さんの、先代長の娘です。でも、まだ誰の期待にも応えられていません。あんなに偉そうなことを言いましたが、本当に恩義に報いなければならないのは私なんです。私が皆を守る長にならないと、死んだ母さんは笑ってくれません。それが私のけじめです」
水を打ったような静寂が満ちた。
どちらもこの場に適した言葉を選びあぐねている。
おそらく、どれもが不正解だ。
だからこそ彼女は泣き顔を隠して、気丈に笑って見せる。
「はは、なんかすみません! 勝手に湿っぽい話を長々と、はは、もう上がりましょう! 皆が待っていますから! イサハイ様も……あれ?」
「……ん?」
そういえば、先ほどからやけに静かだと思えば、飯酒盃の姿が見えない。
さすがの飲んだくれとはいえ、空気を読んでこっそり風呂を上がったのだろうか?
しかし、あの馬鹿でかいヒョウタンは浴槽の外側に置いてあるし、赤い盃がぷかぷかと湯船に浮かんでいるが……まさか!
俺は慌ててじゃばじゃばと湯をかき分けて、飯酒盃がいたあたりへ駆け寄る。
そのまさか、飯酒盃はぶくぶくと泡を吐き出しながら、真っ赤な顔で温泉の底に沈んでいるではないか!!
「こ、このバカ野郎!」
「キョウスケ様一体どうし……きゃあああああ!?!?」
――こいつ、色んな意味で最悪だなホント!!
かくして俺とレトラはぐでんぐでんに茹ってしまった飯酒盃を温泉から引き上げ、二人してこの大馬鹿野郎の介抱に勤しんだわけである。




