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幸せな男

作者: 和清

 フォークリフトが稼働する音と、ベルトコンベアの回る音が、今日も無機質な金属音を生み出している。

 いつものように次々と到着するトラックも、けたたましいエンジン音を響かせては、吐き出す排気ガスで倉庫内を隅々まで丁寧に汚染してゆく。

 大手運送会社が運営する東京湾に面した物流センター。

 二時間くらい前に昇った朝日は、未だこの薄汚れた海をキラキラと輝かせていた。俺は、忙しく動かしていた手をふと休めて、その風景に見惚れた。あまり気付いている者はいないが、その風景は、ここでの一日で一番綺麗な瞬間なのだ。

 と、同時に思う。

 ――あの人も、この風景に一瞬でも気付けるような心の余裕があれば、朝からあんな怒鳴り声を出す事も無いのだろに…… と。

「何やってんだ橋谷! また間違ってんじゃねえか!」

「スミマセン、ヘマばかりでスミマセン」

「そう思うならドジんじゃねえよ、バカヤロー!」

 いつものように響き渡る安藤主任の怒鳴り声。それは、無機質な金属音よりも、トラックのエンジン音よりも、ここで一番響き渡っている音だった。

 その声は、ここ一週間、新人アルバイトの橋谷さんに向けられていた。主任は本当によく怒鳴る人なのだが、橋谷さんが入ってからと言うもの、それは更にひどくなり、

 ――よく声が枯れないな……

 と、呆れてしまうほどだ。

「ハハ、またやってるよ……」

 周りから、小さく嘲笑する声が聞こえる。

「今度はどうしたんだい?」

「今度ってか、いつもの事だよ。足立区の荷物を台東区方面に流しちまったらしい」

「はあ? 足立と台東じゃ別レーンじゃねえか。アハハ、どうすりゃ間違えられるんだ?」

「向いてないんだよ。それよりも俺は、あの怒鳴り声に朝から疲れちまうよ……」

 身をよじらせたおかしな格好で、ペコペコと頭を下げ続ける橋谷さん。

 未だに怒鳴り続けている主任。

 ハタから見ればイジメているようにしか見えない。

「やれやれ、いつまで続くんだい……」

 俺の隣で作業している斉藤のオジサンが、疲れた顔でそんな言葉をぼやく。周りからも似たような言葉が飛び交い始め、二人には冷ややかな視線が注がれ始めた。

 仕方なく、安藤主任の部下である俺は止めに入ることにした。

「主任! 板橋方面のレーンが人足らなくて回らないみたいなんですけど」

「じゃあ栗原、オマエ回れ」

「俺が離れたら、ここが回らないっスよ」

「しょうがねえな――橋谷、今度ドジりやがったら、ここから追い出すかんな!」

「は、は、は、はい!」

 橋谷さんは、相変わらず身をよじらせ、オドオドと返事をする。主任は、そんな橋谷さんに舌打ちしながら板橋方面のレーンへとヘルプに向かった。

 さて……

「橋谷さん、いいですか」

 俺は、橋谷さんにそう呼び掛けながら向かった。

「何度も言うようですけど、慌てなくていいですから。キチンと荷札を見て流しましょう」

 橋谷さんの作業は、特別難しいものじゃない。

 ってか、ハッキリ言えば小学生でも出来る仕事だ。

 各方面に仕分けされた荷物が台車に乗ってその方面のコンベアの前に運ばれる。橋谷さんは、それを目の前のコンベアに乗せて流す。

 ただ、それだけだ。

 しかし、この人はありえないミスをする。ときたま隣のコンベアに荷物を流してしまうのだ。俺も色々と使えない人間は見てきたが、この手のタイプは初めてだった。

「はい、はい」

 橋谷さんは、相変わらずオドオドした返事を俺にしながらも、言っている側から間違えて流している。俺は慌てて正しいコンベアに荷物を流し直す。初めは頭が痛かったが、いい加減もう慣れた。

「スミマセン、スミマセン」

 橋谷さんは、また身をよじらせて俺に何度も頭を下げる。だが、俺は笑顔で言った。

「そんなに謝らなくていいっスよ。とにかく、がんばりましょう」

「はい、はい」

 まだ身をよじらせたままの橋谷さんは、オドオドした笑顔を浮かべ、また何度も俺に頭を下げた。

 橋谷さん三十三歳、主任は三十歳と、実は主任の方が年下なのだ。だから初めは主任も橋谷さんには敬語を使っていた。しかし、橋谷さんは、入社してきた時から態度がおかしかった。

 まず、人の目を見て話そうとしない。それは、うつむいて話すとか、そんなレベルじゃなく、体自体を相手から背ける、つまり、常に身をよじっているのだ。

 それから、背後から声を掛けるとビクンと肩を震わして、「はははは、はい……」と物凄くドモリながらビクビクと返事をする。

『あの人は様子がおかしい』と、その日の内に周りから噂された。もちろん主任も、おかしいとは感じていたようだが、あの通り体育会系の人だから、

「俺が一から鍛えなおすよ」と、笑って、初めの内は本当に根気よく橋谷さんの指導に当たったのだ。

 が、主任は体育会系だ。いかんせん気が短かい。

 二日目の午後には「橋谷!」と、呼び捨てで怒鳴っていた。

 主任の怒鳴り声などいつもの事だし、気にもならないのだが、今回は度が過ぎている。

 それでも俺にしてみれば知ったこっちゃないのだが、それによって職場の雰囲気が悪くなるのは、ちょっと見過ごせなかった。

「仕方ねえなぁ……」

 何でもない作業を必死にやっている橋谷さんの背中を見詰めながら、俺は溜め息交じりにそう呟いた。


 倉庫内に昼休憩のチャイムが鳴り響き、作業員達は皆「腹減ったぁ……」なんて言葉を口々にしながら持ち場を離れてゆく。

 そんな中、俺は橋谷さんに声を掛けた。

「橋谷さん、お昼一緒に食べましょうよ」

 橋谷さんは、ビクンと肩を震わした。

 しまった。つい背中から声を掛けちまった……

「ははは、はい、栗原さん。何を食べましょう」

 何だかよく分からない返答をする。これは橋谷さんの特徴だ。俺は苦笑を浮かべながら言った。

「なんでもいいっスよ。なに、橋谷さんは弁当? それとも社食っスか?」

「ぼ、僕はいつもパンを持ってきてます」

「俺も、いつもコンビニ弁当なんスよ。今日は天気もいいし、中庭にでも出てのんびり食べましょうよ」

「は、はい」

 オドオドする橋谷さんを連れて、俺は中庭へと出た。

 中庭では、手早く昼食を済ませた人達が午前中の疲れを癒すようにベンチや芝生の上にゴロリと横になっているのが見えた。設置された赤缶の灰皿の周りや、その他の場所では、何人かがグループを作り、昼食を食べながら、煙草を吸いながら、競馬やパチンコの話で盛り上がっている。いつも通りの昼時の風景だ。

 そんな中、俺は橋谷さんと空いている場所を見つけ、そこに座り込んだ。春の暖かい日差しが芝生を暖めてくれていたから、とても座り心地が良かった。

 橋谷さんは、ここに来る前に自分のロッカーからバッグを持ってきていた。バッグの中から出てきたのは、出勤途中、コンビニで買ってきたと思われる菓子パンが二つと、パック牛乳が入ったレジ袋だった。

『レジ袋だけを持ってくればいいものを、どうしてわざわざバッグごと持ってくるのか?』

 そんな疑問を橋谷さんに持っては駄目だ。こういう人なのだ。

 橋谷さんは何も喋らず、ただ黙々とパンを食べ、パック牛乳を飲んでいる。俺も黙々とコンビニ弁当を食べる。

 なんだか気まずい……

 橋谷さんの方から何か喋りだすのを待っていたのだが、食事中に何も会話が無いのは、なんだが耐えられなくなってきた。

「こう春の日差しが気持ちいいと、仕事なんかどうでもよくなっちゃいますね」

「あっ……そ、そうですね……」

 橋谷さんは、口にしていた牛乳を鼻から出してしまいそうなくらいの勢いでビクリとして、オドオドとそんな言葉を返す。

「ところで、橋谷さんはここに来る前は、どんな仕事をやってたんスか?」

「ダダ、ダンボールを作ったりとか、掃除したりとか、色々です……すみません……」

 いや、そこ謝るとこじゃねーし……

 ……俺が、橋谷さんと昼メシを食べようと思ったのは、実は、一つ聞きたい事があったからだった。どうしてもハッキリさせたい事だったのだが、それはとても聞きづらい事でもあった。だから、なるべく遠まわしに聞こうと思っていたのだが――

 なんだか面倒くさくなってきた。

 いいやもう、ストレートに聞いちまおう。

「橋谷さん、スッゲー聞きづらい事なんですけど、聞いてもいいっスか?」

「はは、はい?」

「橋谷さんって、以前に心療内科とかで何かの恐怖症って診断された事ありません? もしくは、誰かに似たような事を言われたとか?」

「あ、あ、あります……」

 随分とアッサリ答えられてしまった。

「ま、前の仕事場に、オマエ絶対病気だから精神病院行けって、親切に教えて下さった方が居て……」

 いや、それって親切って言うのか…?

「そそ、それで、電話帳で病院を調べて診察してもらったら、対人恐怖症と言われました」

 まさかとは思っていたけど、やっぱりそうだったのか……

 話す橋谷さんは、いつも以上に俺から体を背けている。きっと誰かと面と向かい合うのが怖いのだろう。そんな人が怒鳴られたりしたら……

 たまに頭をかきむしってパニックになってるのを見かけるし、この人がどうして何でもないミスを連発するのか、その理由がよく分かった気がする。

「びょ、病院には今でも通っているんですけど、先生が言うには、とにかく人に慣れるしかないとおっしゃるもので……」

「大変だなぁ、じゃあ頑張んなきゃですね」

「はい、はい、ありがとうございます、ありがとうございます」

 橋谷さんは、未だ体を背けたままの変な格好のお辞儀を何度も俺にするのだった。

 さて、次は主任の番だ。


「そんなものはな、性根が弱いからそうなるんだよ」

 仕事が終わった後、晩飯がてらにと、俺は主任を誘って居酒屋へと行った。そこで、とりあえずのビールを一杯飲んだ後、早速のように橋谷さんの事を切り出した。で、返ってきた言葉がそれだった。

 まあ、主任らしいと言えば主任らしいのだが……

「でも、精神疾患って、そんな簡単なものでもないらしいですよ」

「まあ、気の毒だとは思うけどなぁ……」

 言ってから主任はジョッキを飲み干し、新たに中ジョッキを注文した後、言葉を繋げた。

「なんだ、本人はその……トラウマって言うのか? そんなような事が昔あったのか?、悲惨な幼児体験とか?」

「いや、そんなような事は言ってなかったスね。前にテレビでやってましたけど、ああいうのは突然なるようなものでもないらしいっスよ。徐々になっていっちまう、って言うか……」

「なんだ、やっぱり性根が弱いんじゃねえか」

「いや、そういう事じゃなくって、日々のストレスが溜まり過ぎると発症するとかなんとか――つまり、酒を飲みすぎてる奴が肝臓を悪くするのと同じで……」

「そんなの強い肝臓を持ってりゃ問題はねーだろ。鍛え方が足らねんだよ」

 なんだか、この人と話すのがイヤになってきた……

「ストレスなんて俺だって受けてる。アイツの何十倍もな。でも俺はああはならねえ。つまりだ、アイツは根性が足らねえから、ああなったんだ。あんな奴は何処に行ったって使えやしねえんだよ」

 何度も言うようだが、主任は体育会系である。根性さえあれば何でも解決出来ると思っている。

 結局、橋谷さんの話はそこで終わってしまった。主任に橋谷さんの事情を話し、橋谷さんの事を少しは考慮してもらって現場の雰囲気がこれ以上悪くならないように俺なりに頑張ってみたのだが、無駄だった。主任の根性主義をこれ以上聞きたくもなかったし……

 後は、主任がマジギレして最悪の事態にならない事を祈るだけだ。


「オマエ、もうクビだ」

 俺はその日、世の中に神様なんて居ない事を改めて実感した。まさか昨日の今日、しかも朝っぱらから、いきなり最悪の事態になるなんて……

「あーあ、橋谷の奴、とうとう言われちまったよ」

「どうしたの一体?」

「まただよ。荷物を別レーンに流しちまったんだよ。しかも今度は一個や二個じゃなくて大量に。おかげでレーンを止める事になっちまって、運転手はトラックの出発時刻が遅れたもんだからキレちまって、シッチャカメッチャカってやつだ。もっとも、配送品台車も元々間違ったレーンの前に置かれてたらしいけどな」

「なんだよ、それじゃあ台車を置いた奴が悪いんじゃねえか」

「だからって言い訳にはならねえよ。流す前に荷札を確認するのは決まりなんだから」

 そんな芸当があの橋谷(おバカ)さんに出来るのなら、初めから俺のあの苦労は無い……

「スミマセン、スミマセン、スミマセン……」

 橋谷さんは何度もそう言いながら、相変わらず相手から体をよじらせたおかしな格好で、何度も頭を下げている。

 主任は、それが余計にカンに触るらしい。顔を見れば分かる。怒り心頭、今にも口から火を吹きそうな勢いだ。

「駄目だ駄目だ! もうオマエなんかアテに出来るか!」

 言うまでもなく現場の雰囲気は最悪。溜め息を吐く者、鬱陶しそうに舌打ちをする者、苦笑を浮かべる者、人によって反応は様々だが、思っている事は一つだと言う事だけは分かる。

『朝からギャーギャーうるせーよ。もう仕事のやる気なんか失せちまった』

 勘弁してくれ。今日は特に忙しいってのに……

 だが、ああなってしまっては、さすがの俺も、もう止める事は出来なかった。

「とっとと出てけ! ここにはもうオマエの出来る仕事なんか一つもねえよ!」

「スミマセン、スミマセン、スミマセン……」

「いいから出てけぇぇ!」

 主任は、更に声を張り上げて怒鳴った。

 と、橋谷さんは、まるで電池が切れたオモチャみたいに、頭を下げる途中の中途半端な所でピタリと動きを止めた。それから、今にも泣き出しそうに顔をクシャクシャにして、頭は何故か中途半端な位置のまま、主任に背を向けて出口へと向かって行った。

 主任は、未だしかめっ面で、そんな橋谷さんの背中を睨み続けている。

 ……しかしまあ、もしかしたらこれで良かったのかもしれない。元々橋谷さんに、この職場は向いてなかったのだ。これで現場は通常に戻って主任も落ち着くだろう。

 とは言っても、一日一〇〇回怒鳴っていた声が五〇回に減るだけだが……

 まあ、それでもマシだ。それなら前通りだし、そんな程度ならみんな慣れているし。

 そんな時だった。

「栗原君……」

 と、小さく俺を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、トラック運転歴十年のベテランドライバー鈴野さんだった。俺が振り返ると同時に、鈴野さんは言いにくそうに俺に言った。

「あのさ、車に積んである荷物(パレット)、下ろしてもらいたいんだけど……」

「フォークマンは田辺さんだよ。田辺さんに頼めばいいじゃないっスか」

「それがさ、さっき言ったら、今手が離せねえって怒鳴られちゃって……」

 この人、運転は上手いのだが気が弱い。

「だから頼むよ。出発時間遅れてんだ……」

 頼むよ、の言葉の意味は直ぐに分かった。実を言うと俺はフォークリフトを運転出来ない。こういう忙しい日は、何を隠そう安藤主任の出番なのだ。

 今、話しかけたくねぇ……

 でも、この見るからに気弱なオッサンに、自分で言え、て言うのも酷だしなぁ……

 仕方ない、これも仕事だ。

「主任、鈴野さんがフォークお願いしますって」

「ああッ? 田辺はどうした!」

 不機嫌丸出し。イキナリ怒鳴るなよなぁ……

「今、手が離せないらしくって……」

「ったく、しょうがねえな! それでも何とかするのがアイツの仕事だろうがよ!」

 そう怒鳴って主任は、コンベアの足を蹴っ飛ばした。それから柱に掛けてあったヘルメットを手に取りながら、

「いい加減、新しいフォークマンくらい雇えよ」

 だの、

「どいつもこいつも使えねえ」

 だの、グチグチ言いながら外に停めてあるフォークリフトに向かう。

 鈴野さんの、

「悪いね安藤ちゃん……」

 という愛想笑いにもやっぱり、

「鈴野さんもいい加減フォークくらい運転出来るようになれよ」

 と、グチグチグチグチ……

 まっ、今だけの辛抱だ。

「さあ仕事仕事。とは言っても、まずはアレを直さなきゃ仕事にならねーか……」

 俺はうんざりして橋谷さんがメチャメチャにしてくれた、未だ止まったままのコンベアを見詰めた。ふと横を見ると、斉藤のオジサンが居た。

「すみません斉藤さん、手伝ってもらえますか…?」

「おう、急いで直しちまおう」

 俺の愛想笑いに斉藤のオジサンは明るい笑顔で答えてくれた。やっぱりこの人の人柄の良さはこの職場でナンバーワンだ。

 しかし、俺と斉藤のオジサンが、止まっているコンベアへと向かおうとしたその時だった。

「あぶねぇ!」

 誰かが叫んだ。俺と斉藤のオジサンは、コンベアに向かおうとしていた足を止め、反射的に声の方向を振り向く。

 続いて、また誰かの叫び声が上がった。

「人がフォークに轢かれたぞ!」

 ――事故った!

 そう思うより先に、俺は駆け出した。

 現場に着くと、フォークリフトの座席上で安藤主任が硬直していた。

「知らねえ……知らねえぞ……コイツがいきなり飛び出してきたんだ……俺は知らねえぞ…!」

 フォークリフトの爪に挟まれてる形で倒れていたのは、橋谷さんだった。

「な、なんで……」

 橋谷さんはグッタリとしたまま、ピクリとも動かなかった。

 現場は騒然となり、作業は全て一時中断となった。

 この物流センター中の人間が現場に集まり始め、事務所からも上役達が血相を変えてやってきた。

 訳が分からず茫然と立ち尽くす俺の耳に、救急車の非常サイレンが聞こえてくるまでには五分程かかった。


「303号室、橋谷幸雄と――あった。橋谷さんの病室、ここみたいっスよ」

 事故から一日が経った。

 俺は、笹野課長、和田所長の二人と一緒に橋谷さんが入院している病院へと出向いていた。

 幸い、橋谷さんの怪我は大事には至らなかった。フォークリフトの爪に当たった時の衝撃で右足の骨にヒビが入っただけで、一ヶ月もすれば全治するという話だった。あの時ピクリとも動かなかったのは、突然の出来事に驚きすぎて気を失ってしまっただけらしい。

 しかし、軽い怪我というものはあっても、軽い事故というものはこの世には存在しない。

 事態を重く見た笹野課長と和田所長は、主任には処分が決定するまで謹慎を命じ、橋谷さんには出来る限りの謝罪をする事を決定した。

 そうして今日、俺は二人に付いてやってきた訳だが、別に付いて来いと言われて付いて来た訳じゃない。俺は自分から「一緒に謝罪しに行きたい」と、願い出たのだった。

 もちろん、今回の事故に関して俺は第三者だが、ある意味あの事故は自分が引き起こしてしまったような責任を感じていたからだ。

 俺が主任にあんな中途半端な説得をせず、もっと強く主任に橋谷さんの対人恐怖症を考慮するように言っていれば橋谷さんがクビを言い渡される事も無かったろうし、あんな事も起こらなかったと思う。どうして橋谷さんが主任の乗るフォークの前に飛び出したのかは分からないが、事故と言う現実だけは確かだ。一度謝らなければ自分の気が治まらなかったのだ。

 病室のドアを開けると、四つ並んだ白いベッドの一番奥、窓際のベッドの上でギプスをはめた右足を吊るされた格好のまま、イヤホンを付けてテレビを見ている橋谷さんが直ぐに目に入った。

「橋谷さん、具合はどうっスか?」

「くく、栗原さん」

 橋谷さんは相変わらずビクンと肩を震わせると、慌ててベッドから降りようとした。言うまでも無く、慌てるあまり橋谷さんは、自分が怪我人だという事を忘れているらしい。

「イテテテ…!」と、橋谷さん声を上げる。

 俺は、慌てて橋谷さんに駆け寄った。

「いいっスよ、橋谷さん。無理しなくて」

「スミマセン、スミマセン……」

 橋谷さんは、寝たままの格好で何度も俺に頭を下げた。そうしている内に、和田所長と笹野課長が俺を挟むように橋谷さんのベッドの前に立った。

「橋谷さん、和田所長と笹野課長も見舞いに来てくれたっスよ」

 俺が橋谷さんにそう言うと、同時に二人は、なぜだか身内である橋谷さんにわざわざ名前を名乗り、名刺まで渡した。それから、深々と頭を下げたのだった。

「この度の一件、大変申し訳ございませんでした。見舞いの品も用意せず現れるのは失礼かとも思いましたが、急いで来たものでお赦しください」

 頭を下げたまま、そう謝罪の言葉を口にしたのは和田所長だった。

 橋谷さんはキョトンとしていた。

 いや、俺も思わず同様の顔を作ってしまった。いくらなんでもバカ丁寧すぎる。身内に対する態度じゃない。

 続いて笹野課長が、背広の内ポケットに手を入れ、

「代わりと言っては何ですが、こちらをお納めください」

 と、見舞金と書かれた茶封筒を橋谷さんに差し出した。橋谷さんは、キョトンとしたままビクビクとそれを受け取る。それからまた和田所長が口を開く。

「本来であれば加害者である安藤を連れてくるべきなのでしょうが、そちら様の怒りもまだ冷め遣らぬと思い、今回は控えました。いずれ日を改めまして安藤には謝罪をさせますのでご容赦ください」

 なんだこれ……

 確かに加害者は主任だけど、橋谷さんの不注意だって事故の原因の一つだ。これじゃ、まるで……

「この度の件に関しての我が社の対応と致しましては、治療費は全て労災からの支払いとなりますが、それとは別に、そちら様には十分に慰謝料の支払いをさせていただき、安藤に関しては解雇処分と致しますので、どうかこの事は穏便にお納めください」

 穏便に……、その言葉に俺は、やっぱりか、という気持ちで二人のバカ丁寧の理由を理解した。

 なんて事はない、この二人は事を大きくしたくないのだ。

 ちょっと噂で聞いたのだが、実はこの二人、どうして知ったのかは知らないが、橋谷さんの対人恐怖症を知っていたらしいのだ。だが、この二人はそれを知っていた上で何の対応もせず、安藤主任にすら何も教えなかった。そうして今回の事故に至ってしまった。名前もある会社だ、新聞の一面とまではいかないまでも三面記事にはもってこいのネタだろう。それに主任の橋谷さんに対する態度も知られるところとなれば、

『社会的弱者に対する大企業の態勢を問う!』

 なんて見出しはピッタリだ。一部かもしれないが、その一部にうちの会社は叩かれまくるだろう。

 二人の意向なのか、本社の意向なのかは判らないし、知りたくもないが、要するにこの二人が橋谷さんに言いたいのは、

『金はやるから黙ってろ』

 という事なのだろう。

 まったく……

 この現代社会、やっぱり最後に物を言うのは金だろうし、そういう決着の付け方もあるだろう。そういう事に関して一々文句を言うつもりもないし、そこまで俺もガキじゃない。だが、誠意のカケラも無く金を楯に謝罪しているフリをするだけのこの二人には、俺は冷ややかな視線を送らずにはいられなかった。

 と、そんな時だった。

「あ、あの……」

 珍しく橋谷さんの方から口を開いた。

 と、次に飛び出した言葉は、冷ややかな目付きをする俺の目を一変丸く変えさせるには十分の言葉だった。

「慰謝料なんていりませんし、安藤主任を解雇するのも止めて下さい。悪いのは全部僕なんですから……」

 どこまで素直(バカ)なんだこの人は……

「で、でも、それでも何か保障してもらえるのなら、アルバイトのままでもいいですから、あの会社への僕の雇用を保証してください。お、お願いします……」

 所長と課長は俺と同様、目を丸くして顔を付き合わせたが、多少の同様を見せつつも所長が答えた。

「……わ、分かりました。この場でのご返答は出来ませんが、十分にご検討はさせて頂きます」

「お願いします、お願いします……」

 橋谷さんは寝たままだったが、やっぱり首だけはあさっての方向を向いたままの変なお辞儀を何度もした。

 そうして所長と課長は「失礼します」と橋谷さんに一礼して病室を出て行き、俺は二人に「もう少し橋谷さんと話がしたいから」と病室に残った。

 俺が橋谷さんに改まったのは、それからだった。

「橋谷さん、本当に申し訳なかったっス。俺がもっとちゃんとした対応さえしていれば、こんな事にならなかったのに……」

 俺は深々と頭を下げたが、橋谷さんの態度は相変わらずだった。

「あ、あ、やめてください、悪いのは僕の方です、やめてください。迷惑をかけた安藤主任にちゃんと謝りたくて飛び出したのは僕の方ですから、やめてください、スミマセン、スミマセン……」

 謝りたくて飛び出した?

 つまり、動いてるフォークリフトは目に入ってなかったと?

 橋谷さんらしいや……

 俺は頭を下げたまま、思わず込み上げてきた笑いを堪えるのに必死になってしまった。

 と、笑いを堪えきったところで俺は頭を上げ、一息ついてから橋谷さんに話しかけた。

「それにしても、橋谷さんも物好きっスねぇ。慰謝料ガッポリ貰えば良かったのに。あの仕事がそんなに楽しいっスか?」

「はい」と、橋谷さんは即答で素直に頷き、言葉を続けた。

「色々な荷物を見ながら、この箱にはどんな物が入っているんだろうって、そんな想像をしながら働くのは、とっても楽しいです」

 幸せとか不幸とかってものは、その人の価値観によって決まるものだと俺は思っている。俺は、自分の仕事を楽しいなんて一度として思った事は無いし、ある意味、自分の人生の中で仕事中というのが一番不幸な瞬間のような気もする。それでも金で割り切っている。しかしこの人は、そんな事を抜きにしてあの仕事を楽しい、幸せだと言い切っている。もしかしたら……

 いや、きっとこの人は、世界で一番幸せな人だ。

「橋谷さんの要求はきっと通りますよ。まあ、終身雇用のアルバイトなんて聞いたこと無いけど、戻ってきたらまた一緒に頑張りましょう」

 橋谷さんは顔を背けたままだったが、はい、とまた素直に頷いた。


 それから一ヶ月が経ち、橋谷さんは職場に帰ってきた。さすがに終身雇用のアルバイトではなく、正社員としての採用だった。帰って来た橋谷さんをみんなは暖かく迎え入れた。そして、橋谷さんの肩を叩きながらみんなは、口々にこんな事を言うのだった。

「聞いたよ。なんだかオマエ大変みたいだけど、オマエに限らず他人なんてみんな怖いもんだ」

「要は気の持ちようだからさ、頑張れよ」

「俺達は怖くねえから安心しろ」

 橋谷さんの対人恐怖症は、すでに周知の事実となっていて、しかもみんなはそれを理解し、守らなければいけない人間、という雰囲気が浸透していた。

 だが、それを広めたのは俺じゃない。斉藤のオジサンだった。

 これは後で斉藤のオジサン本人から聞いたのだが、俺が知るより早く斉藤のオジサンは橋谷さんの対人恐怖症を知っていたらしい。入社した時から、その様子のおかしさに橋谷さんをやたらと気に掛けていたのは俺も気付いていたが、仕事を教えている時に橋谷さんは、自分から漏らすように言ったらしかった。

 斉藤のオジサンは、直ぐに課長に「何か対応してやれ」と直談判したらしいのだが、結果は言うまでもないだろう。

 そうして、あの事故を切っ掛けに、斉藤のオジサンはとうとう我慢の限界に達したらしく、周りを味方に付ける作戦に出たのだと言っていた。

 斉藤のオジサンは、立場はアルバイトだが勤続年数はもう十年以上になり、新人の面倒見も良く、誰よりも人望に厚かった。みんなは斉藤のオジサンの意見に賛同し、騒ぎ始めた。恐らく、所長と課長のあの橋谷さんに対する対応も、斉藤のオジサンの行動が決め手だったのだろう。

「橋谷はさ、対人恐怖症だが何だか知らねえが、根はバカが付くほどの正直者なんだよ。黙ってりゃ分からねえようなミスだってわざわざスミマセンって謝るんだ。正直者がバカを見るような世の中は作っちゃいけねえよ」

 斉藤のオジサンの人柄に俺は、拍手を送りたい気分だった。

 ――で、安藤主任はと言うと、橋谷さんのおかげでクビだけは免れたが、主任業務からは外され、平に戻された。

 だが、落ち込んだ様子などは見られなかった。それどころか、以前のような一人でピリピリしているようなムードも無くなり、返ってリラックスして仕事をしているように見えた。しかし、何と言っても驚きなのは、あの人が怒鳴らなくなった事だ。恐らく、以前までのあの人は主任という立場からくるプレッシャーやストレスを溜め込んでいたのだと思う。もしかしたら、あの人も病気だったのかもしれない。

 どちらかと言えば職場の嫌われ者だった安藤元主任は、今では職場の人気者になりつつある。仕事は出来るし、それに元々、下の者の面倒見は良い方なのだ。なんと言っても安藤元主任は体育会系なのだから。

 橋谷さんはと言うと、やっぱり仕事は相変わらずだったが、そんな橋谷さんを怒る者など誰一人居なかった。みんなは笑って橋谷さんをフォローした。見かねて安藤さんも橋谷さんを手伝う事はあったが、もちろん怒鳴ったりしない。

「しょうがねえな」

 と、苦笑を浮かべつつ手伝っている。

 そんな事もあって、橋谷さんの対人恐怖症とやらは次第に和らいでいっているように俺には見えた。笑顔が多くなってきたのである。

 それによって、職場にもみんなの笑顔がよく見られるようになり、以前とは比べ物にならないほど雰囲気が良くなっていった。

 幸せな人は周りも幸せにする、なんて話を聞いた事があるが、橋谷さんはまさにそれだった。

 そんな『幸せな男』橋谷さんは、その人柄で人望を集め初めると、三ヵ月後には周りの推薦で、気が付けば現場主任になってしまっていた。

「スミマセン、栗原さんより先に主任になってしまってスミマセン……」

 だからそこ、謝るとこじゃねえって……


 そんな事があって、それは橋谷さんが主任になって初給料日の日の事だった。

 俺は、橋谷主任と一緒に振り込まれた給料の明細を取りに事務所に向かっていた。

「俺、今月の給料は超楽しみなんスよ。先月は忙しかったからスッゲー残業したし。橋谷主任も楽しみでしょ? 残業代だけじゃなくって初めて主任手当ても付く事だし」

「そうですね」

 橋谷主任は、明るい笑顔でそう言った。

 俺達二人は、事務所で課長から「ごくろうさん」という言葉と共に給料明細の入った茶封筒を受け取り、事務所を出る。

 と、同時に俺は、封筒を開けて明細を見て声を上げた。

「やった、予想以上…!」

 思わずガッツポーズを取る俺の横で橋谷主任も封筒を開けていた。

 橋谷主任は、明細を眺めながら静かに呟いた。

「よし、計算通り……」

 ――待てよ。

 ――ちょっと待てよ。

 ――もし……もしもだ……

 初めからこの会社の体制を知っていた上で対人恐怖症のフリをしていただけだったとしたら?

 安藤さんの性格を見抜いていたとしたら?

 斉藤のおじさんの人望に初めから気付いていたとしたら?

 常にマヌケなフリをしていただけだったとしたら?

 いくらなんでも、動いているフォークリフトに気付かない人間なんているのか?

 そして、初めから主任なんて地位は足がかりで、もうすでに更に上の地位を見据えているとしたら……

『よし、計算通り……』

 その言葉を呟いた瞬間の顔が、まったく別人に見えたのは気のせいだったのだろうか…?

                                          了

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