二話 しかし今日から下僕になりました
「大丈夫かしら?」
――声が聞こえた。綺麗で透き通ったその声が脳内を刺激し、俺はうっすらと瞼を開く。
あれ、俺は何をしていたんだっけ。
確か、森で、スライムを倒して……スライム?
眼前に映ったのは、トラウマとでも言うべき緑色。
「うあああああああ!」
俺は叫び、手をばたばたと動かして武器を探ろうと――。
「もうスライムはいないわよ、馬鹿」
俺が見ていたのは、スライムではなかった。
眼前に居たのは、美少女。長い睫毛に翡翠の瞳が特徴的で、勝ち気なそうな眉が不機嫌さを隠しもせずに跳ねる。
つんと尖った目が俺を睨み、その美少女は言葉を続けた。
「今この目をスライムと間違えたりしたでしょ? 殺すわよ」
下を向いているため、彼女の長く艶やかな金髪が俺の顔にかかる。いい匂い、心くすぐるような甘い匂いは俺を包み込んだ。
「え……?」
何この状況、としか言えなかった。
辺りにスライムはどこにも存在せず、仰向けに倒れた俺の上には金髪の美少女。少し下の方へ視線をずらせばそこは天国。
少しばかり膨らんだ胸が服の上からでも確認でき、うなじと鎖骨が奏でるハーモニーが。
「どこ見てんのよ」
胸ぐらを掴まれた。
そのまま引きずり起こされ、彼女の顔がより近付いたことで俺の心拍数が急上昇した。だらしなく口を開けたままガチガチに固まる、俺。
それを見てか美少女は呆れ顔を作り、こう言った。
「……まあいいわ。アンタがスライムのオブジェにされてたから私が助けてあげたのよ。ほんっとに気持ち悪かったんだからね。あいつらの粘液まだ付いてるし、ってかスライム如きに何やられてんのよ。……それにしてもダサい装備ね、アンタ。何しにこんな森まで足を運んだの?」
どうやら、彼女が俺を助けてくれたらしい。何とか状況を飲み込んだ俺は、とりあえず感謝の言葉を述べる。
だが彼女は「そんなのはどうでもいいのよ」と呟き、言葉を続ける。
「……ところで。私が助けてあげなかったら、アンタ死んでたのよね? スライムに窒息させられて、無様に」
未だに顔が近いまま話してくるので、その吐息が俺に掛かる。艶めかしく甘い香りがまだ覚醒し切っていない俺の頭を一杯にし、ああと頷くだけしかできなかった。
返事をするなり悪い笑みを浮かべた彼女は、唐突に掴んだ胸ぐらを離した。そのまま後頭部から地面に激突し、半ば強制的にぼんやりとしていた目が覚める。
「んじゃ決めた。アンタ、これから私の下僕だから。拒否権はないわ。だって、アンタの命は私が助けたんだもの。アンタの命は私の物よ」
「……は。はぁ!?」
何言ってんだこいつ。
にこりと笑った彼女を見て、俺は唖然とする。それは悪魔の笑みだった。
いや助けてくれたのは嬉しいんだけど、下僕って何? 何なの? 人助けしたら下僕にできるの? そんなわけがないだろう常識的に考えて。奴隷市場に行って奴隷でも買え。
いや、しかし……考えろ。こんな美少女の下僕なら悪くないかも……何考えてんだ俺、違うだろ。
「はぁ? じゃないわよ下僕」
「いや、ちょっと、もう下僕扱いなの……? それ本気で言ってんの? ネタじゃなくて?」
「当たり前よ」
冷徹な瞳で俺を見下す美少女は。確かに本気そうだ、冗談を言う顔じゃない。
「……ゴメン、それはできない」
確かに美少女の下僕は男の俺にとって甘美な提案だ。だが、それはできない。助けてくれたのは本当にありがたいと思っているが、そんなことはしてやれない。俺には下僕になっている暇などないのだ。
何故なら。
両の拳をキュッと握り締める。
「俺は、勇者だ。――勇者は魔王を倒さなければならない。そのためには、こんなところで下僕なんかやって立ち止まっているわけにはいかないんだ」
俺が魔王を倒さなければならないと誓ったのは、今から二ヶ月前のこと。
魔王が現れたのもその時だ。勇者が魔王を討ち取って平和を手に入れてから早五年、突如現れた新しい魔王はモンスターの軍隊を引き連れて俺の村を襲った。大人達は子供達を地下に逃がして魔王軍に立ち向かい、全員殺された。全てが終わってから俺達が外に出ると、皆死んでいた。
俺の親も、幼馴染みの親も、嫌いなあいつの親も、知り合いのおじさんやおばさんも。全部。全員、ただの一人も生き残っていなかった。
残された子供達は自分の力で生きていくしかなくなった。ぼろぼろの家で暮らすしかなかった。
生き残った俺は絶対に魔王を許さない。絶対に叩きのめしてやる。今も魔王は他の村や都市を襲って蹂躙して破壊行為を繰り返している、そんな奴は一刻も早くやっつけてやる。
だから。
「……へぇ」
神妙な顔で俺を見つめた彼女は、しばらくしてから鼻で笑って吐き捨てた。
「スライムにも負ける勇者? 笑い話にもならないわね」
「なんだ、と」
「駄目ね、ぜんっぜんダメ」
「……――ガッ?」
それは余りにもいきなりで。
首筋に、強烈な衝撃が走った。急激に意識が遠退く。意識がぼやけていく。
そんな中、冷徹な笑みを浮かべる美少女の顔が見えた。そこで、俺の意識は完全に途絶えてしまった。