L-10
俺たちは、本当に苦労して、苦労して、苦労して、王都に結界を張った。
張ってしばらく後、莉恵があっさり大きめの魔石に結界の魔法陣を刻み、しかもそれは魔力の供給を自動で行うという、有り得ない代物で、莉恵の規格外さに言葉が出なかった。打ちひしがれたと言ってもいい。普段冷静なリッツまでもがその理不尽さに叫んでいた。
おかげで今度はその魔法陣を憶え刻むことに苦労している。莉恵がちょちょいと結界石を作ってくれれば良いのに、とはジギスの泣き言だ。正直俺もそう思う。
莉恵はコピペした上圧縮して、大きめだとはいえ一粒の魔石に魔法を刻んでいる。コピペはまだ分かる、だが圧縮って何だ! これはもう人の手には負えない領域だ。フェンリルすら驚いていたのを俺は知っている。
そのフェンリルが、どこから持ってきたのか、大きめどころか大きすぎる魔石を石版に加工し、それに刻めと言い出した。圧縮は無理だが、縮小は出来るだろうと、しれっと言う。シュヴァルツが苦労して縮小した魔法陣を見せてくれた。ぎりぎり石版に刻める大きさになっている。石版はレオほどの大きさだ。これほどの大きさの魔石をどこから持ってきたのか、そっちの方が気になるが、フェンリルにさらっと誤魔化された。
俺たちは、日々石版と向き合っている。フェンリルの目を盗んで、時々シュヴァルツが手を貸してくれる。今の俺の心の支えは、莉恵とシュヴァルツだ。ジギスはユニコに、リッツはフリッツの手を借りているようだ。
そんな中、嬉々として石版に向かうジークの気が知れない。ゴルトまで楽しそうなのが本当に意味不明だ。いくらフェンリルに加護を与えられたとは言え、俺には理解できない。ジークはもしや賢者なのか。そうなのか? そうなんだな。そういうことにしておこう。後世に肩に金色の鷹を乗せた賢者の絵本が世に出回っている光景まで妄想したところで、シュヴァルツに静かに肩を叩かれ我に返った。俺、相当疲れてるな。
いつの間にか新たな巡りを迎えていた。
恒例の国民への顔見せに参加する。今年からは護衛隊が背後に控えているからか、娘たちから上がる声がひときわ高い。悲鳴のように聞こえる。なぜかジークたちがやさぐれているが、人外の美貌をうらやんでも仕方あるまい。
そんなことより、アベラールに潜っている爺様から凄惨な事実が浮かび上がった。一体あの国はどうなっているのか。何故人の生き血を口にすることが出来るのだろうか。魔力を渇望したとして、実際に生き血を口に出来るものだろうか。普通の感覚ではない。
莉恵の何気ない一言により全てが腑に落ちる。呪いか。稀に強すぎる恨みを持ったまま死を迎えると、祝福が呪詛へと変わることがある。だがそれも通常は一巡りほど後に消える。それが消えずに今まで残っているということは、遺骨も消えていないということだろう。爺様が遺骨を探しに再度アベラールに潜る。ただ、王城の結界を通り抜けすぎたのか、僅かに残る痕跡を嗅ぎ付けられたらしく、警備が異常なほど厳重になってしまったらしい。それでも通り抜けられてしまうあたり、力あるものは人を超えた存在だ。
「ルーに出会えてよかった。私の唯一がルーでよかった。この世界に来て一番よかったことだよ」
そんな風に莉恵が言うから、俺は思わず迂闊にも俺たちの子を望んでしまった。どうしても言いたくなった。俺は何時でも望んでいると。莉恵の覚悟が決まらないのは分かっていたのに。俺の我が儘だ。
それが莉恵を追い詰めたのか、ついに莉恵は自分のことに気付き始めた。
単なる長寿などではない。
莉恵は今までの渡り人とは違う、世界を統べる者である。この世界における唯一の存在。
そんな至宝と言われる存在であるのに、事も無げに「私は私以外になりようがない」と言う。更には面倒くさいとまで言っていた。力に溺れてもいいはずなのに、莉恵は変わらない。だからこそ莉恵だったのだろうか。単なる面倒くさがりな気がしないでもないが。
そんな莉恵が俺を望む。それがどれほど俺を満たしてくれていることか。
彼の渡り人の魔力の気配が王城の結界から感じられると言うことは、遺骨を媒介として結界を張っているのだろうか。それはあまりにも死者に対する冒涜だ。本当にあの国はどうかしている。
……莉恵の様子がおかしい。空元気だろうか。いつも以上に機嫌良く振る舞っている。何となくだが不安だろうか、怯えだろうか、少し心が乱れている。
聞けばやはり不安を隠していた。
どうやら呪いは莉恵にしか解けないらしい。フェンリルですら無理だと言う。結局は莉恵が矢面に立つことになるのか。出来ればそういう事とは無縁の場所で、俺たちに守られて生きていて欲しいが、思うようにはいかない。
莉恵がその不安からか、俺の側から離れられなくなり、ついに自ら彼の国に乗り込むと言い出した。その焦りようによくよく話を聞けば、事態は一刻を争う。フェンリルに繋げられた彼の渡り人の意識は、もう呪詛に飲み込まれる寸前だった。飲み込まれてしまえば、彼の国の大半はその呪いに巻き込まれて死の国となるだろう。それほどの呪詛を溜め込んでいた。
次々と契約者たちが集まり出す。城からもカールや兄上までが顔を出した。
父上、兄上、マックス、ジル、ロッテに後のことを任せ、カールと一緒に皆で爺様の下に転移する。一通りの策をリッツが皆に話し、カールは万が一を考えここで待機する。
莉恵が皆に加護を与え、それぞれが姿を消し、結界の外で待つフリッツ目掛けて転移する。焦るあまり痕跡を消すのを忘れそうになり、シュヴァルツが重ね掛けしてくれた。おかげで冷静になることも出来、感謝を伝えると、『リーエ様なら大丈夫ですよ』と返ってきた。そうだな、莉恵なら大丈夫だろう。俺が落ち着かなくてどうする。
皆が配置に付いたのが分かると、莉恵がそっと結界に手を伸ばす。
莉恵の手が結界に触れた途端、どす黒く禍々しいほどの絶望に飲み込まれた。
莉恵が多くの男たちに目の前で穢されている。嬲られ、孕まされ、また穢され、嬲られ、孕まされ……延々と繰り返される光景に、やめてくれと泣き叫ぶも、それは終わることなく繰り返される。
心が黒く塗りつぶされていく。泣いても、叫んでも、止まらない。おぞましさに気が狂いかける。
────大丈夫、これは己のことではない。
莉恵の声が頭に響いた瞬間、その光景は色付いた影絵のように少しずつ目の前から離れていく。
そうだ、莉恵は今俺の前に立っているはずだ。目の前の空間をそっと抱き込むと、ほんの僅かに温もりを感じた。莉恵は俺の側に居る。大丈夫だ。繋がっている。
繋がっている。
莉恵と繋がっている。
シュヴァルツと繋がっている。
フェンリルとも、ジークとも、ジギスとも、皆と繋がっている。
繋がりを意識した途端、目の前に光が戻ってきた。瞬けば俺の腕の中にいる莉恵が崩れ落ちる瞬間だった。慌てて支え、腕にその身を抱けば、意識を失った莉恵の重みを感じた。
近くに配置されていた爺様が、グラウに乗って駆けつけてきた。青ざめた爺様が言うには、結界からは彼の渡り人の気配が消えていると言う。
爺様が腕に抱えた莉恵を心配そうに見つめているが、今は莉恵と繋がっているため、心配ないことも分かるようだ。
いつの間にか近くにフェンリルとシュヴァルツが居た。聞けば、莉恵の手が結界に触れたその瞬間から、呪詛を取り込み始めたらしい。
いつの間にか皆が姿を消しながらそれぞれの契りしものと一緒に駆けつけていた。あのおぞましい光景を見たのは、俺や契約者たちだけで、力あるものには見えなかったそうだ。皆莉恵との繋がりを感じていると言う。
一旦、カールの下に皆で転移し、カールと共に家に戻る。
意識のない莉恵を見た瞬間、ロッテが小さく悲鳴を上げたが、ロッテも莉恵と繋がっているようで、直ぐに莉恵をベッドに寝かせるよう動き出す。莉恵をベッドまで運び、ロッテに任せて階下に戻れば、待機していた兄上たちにフェンリルが状況を説明していた。
俺たちが彼の国に転移してから一刻ほどしか経っていない。ほんの僅かな間に、莉恵が一人で全てを解決してしまった。
フェンリルが言うには、その身で呪詛を昇華し、昇華し終わるまで莉恵は目を覚まさず、すでに呪詛は昇華し始めているそうだ。
莉恵、早く目覚めてくれ。
莉恵と関わった皆が、今や莉恵と繋がっている。その繋がりから、莉恵の状況が分かる。莉恵が彼の渡り人に何を語りかけているか、今どの程度昇華し終わっているか、日々それが伝わってくる。
彼の渡り人がその唯一の欠片を守っていたことも、その欠片を壊してしまいそうだったことも、どれほど必死で守ってきたかも、皆に伝わっている。
彼らは再びその欠片を抱えて産まれてくるのだろう。その存在が日に日に愛おしくなっていく。
皆同じ気持ちなのだろう、彼らの親になりたいと、彼らを慈しみたいと思っている。
莉恵、早く目覚めてくれ。
アベラールは一見何の変わりも無いように見えるが、どうやら王位は第五王女の兄が継承する方向に動き始めたようだ。彼しか直系王族が残っていないことに、漸く気が付いたらしい。
エル殿の子をもらい受けようとする動きもあったようだが、カールが事前に握りつぶしたらしい。「今更何を言っているのでしょうね」と無表情で零していた。笑顔すら見せないカールは、フェンリル並みに怖かった。
エル殿には、大まかに説明されている。きっと聡い彼女のことだから全てを理解しているのだろう。その上で、彼の渡り人の欠片を愛おしいと思えるのだと言っていた。エル殿は強い。それに比べ爺様は……儚くなるのではないかと思える程に、憔悴している。
あのむごい光景は、彼の渡り人を直接知る爺様にとっては耐えがたきことなのだろう。
俺は莉恵で見た光景を、爺様はお祖母様で、ジークはロッテで、ジギスは長女で見たそうだ。あの場に居なかった者は、吐き気を覚えるほどの不快感を感じたそうだ。伴侶の居ないアルやフォルク、ユーリは自身の身に起こったこととして見たそうだ。三人とも女性に近寄ることが出来なくなった。……婚姻できるだろうか。
莉恵、早く目覚めてくれ。




