51 思い
この国はひとつの大陸に在る。
三番目に大きな絶対武力主義国もひとつの大陸に在る。
一番大きな国であるレイバンズなんとかは、一番小さな国の絶対魔力主義国と地続きで、ひょうたんの大きい方がレイバンズなんとか、小さい方が絶対魔力主義国だ。
ひょうたん大陸と絶対武力主義国の大陸は近く、この国の大陸は少し離れている。
位置的に元の世界に当てはめると、アメリカ大陸がこの国、ユーラシア大陸がひょうたん、ヨーロッパ辺りが絶対魔力主義国で、絶対武力主義国はアフリカ大陸になる。
「俺、前に言わなかったか?」
国の位置を説明しているルドルフに呆れられた。聞いたような気もする。……憶えてなかったけど。
私は妃教育を受けていない。妃としての公務からは外れている。
エルさんたちを見ていると、自分だけ楽をしているようで申し訳ないと思うのだが、同じように出来る訳もないので、それについては私からは何も言わずにいる。
国の方針に口を挟めるほど偉くもないし、賢くもない。残念ながら私の努力でなんとかなる問題でも無い。
「リーエ! あなたが行くことになったのですって? 私は大丈夫だと言いましたのに!」
怒りながら顔を出したのはティアさんだ。
丁度ロッテと二人、お昼寝中のレオに隠れてこっそりおやつを食べ終わったところだったので、思わず二人してびくついてしまった。
ティアさんに続いてカールさんもリビングに顔を出した。
「ティア、そうは言っても馬車での移動は厳しいでしょう?」
「懐妊を理由に王都まで転移させて貰えるよう頼めばいいでしょう」
「わざわざ身重のティアを寄越さなくても、第三王子がいるだろうと言われるのが落ちですよ」
ティアさんが興奮しているのでカールさんが「落ち着いてください」と宥めている。猫サイズのヴァイスがティアさんとカールの間を行ったり来たりしている。人の家で夫婦喧嘩はご遠慮くださいな。
「なによ、カールはリーエが心配ではないの?」
「心配ですよ。ですから万全の体制で臨むつもりです」
「だったら……」
「ティアさん。私が、行ってみたいんです」
思わずティアさんの言葉を遮り、思っていることを伝えた。
ルドルフの妃となった今、妃としては何も望まれていないことを、正直楽でいいと喜んでいる。
私に妃としての公務が務まるとは思っていない。この世界の常識にすら疎い私が、国を代表する立場で何かが出来るとは到底思えない。
周りが甘やかしてくれることに甘えて、今の私ではそれでいいとさえ思っている。自分の自己満足のために、誰かに迷惑を掛けてまで、自らやることではないとも思っている。
でも。
役に立つことがあるなら、私に出来ることがあるなら、そう判断されたのなら、役に立ちたいと思う。迷惑を掛けてしまうかも知れない。失敗してしまうかも知れない。それでも望まれるなら、私は私の出来ることをしたい。
ティアさんもカールさんも、時々言葉に詰まる私を急かすでもなく、ただじっと黙って聞いてくれた。
「……リーエはちゃんと分かっているのですね。見た目が若いからつい騙されてしまいますが、実は私よりも年上ですものね。なんだか初めて実感しましたわ」
ティアさん、さりげなく貶してますよね。
カールさんも小声で「同感です」って言ってますけど、聞こえてますから。
「今日は帰ります。リーエ、また来ますわ。実はこっそり抜け出して来ましたの」
えへっと笑いながらティアさんが言う。なるほど、だからカールさんが追いかけてきたのか。カールさんに「ほら、急ぎますよ」と急き立てられながら、ティアさんは帰って行った。
「王族を、しかも妊婦なのに立ち話させてしまった」
「……リーエ様も一応王族ですよ。それにしても、リーエ様もちゃんと考えてるんですねぇ」
ロッテ、一応ってなんだ? しかもちゃんとってなんだ? もしかして貶してる?
「いやですわ、リーエ様。存分に褒め讃えておりますよ。リーエ様は素晴らしいなぁって」
ロッテ……まるで心がこもってないよ。
仕事を終えたルドルフにまで「リーエも色々考えてるんだな、偉いな」と言われた。カールさん、チクったな。
「フェンリルと相談したんだが、道中フェンリルの魔力で転移すればバレないらしいから、毎日夜はこの家に帰って来られるぞ」
最近ルドルフとフェンリル、シュヴァルツまでが私の知識から俗語を話すようになった。
先日ジギスさんに「お前ウザい!」と言っているのを聞いた。おまけに契約者内でひそかに流行っていると言う。「ウザい」「マジ」「空気読め」「ヤバい」と言う言葉が聞こえてくると、乾いた笑いが出てしまう。
先日マックスが「お前、マジでウザい」とジギスさんに言っているのを聞いて焦った。王族が使っていい言葉じゃない……。
それはともかく、毎日ベッドで眠れるのはありがたい。今更あの寝台で眠れるとは思えない。出来ればこっちでご飯も食べたい。そういう訳にはいかないだろうけど。
「フェンの力だとどうして分からないの?」
「力の痕跡を消し去ることなど造作もない」
「へーえ。使えるのは上位だけ?」
「そうだ。我ら上位と我が主によって上位となった者も可能だ。今ではルドルフも使えるだろう」
「え? ルー、そうなの?」
「ああ、フェンリルのしごきに耐えてきたからな」
「すごいね、ルー!」
本気で尊敬する。
ルドルフたちの言う古代魔法を、この短期間で使えるようになることもすごいけど、あのフェンリルの扱きに耐えられるとは、素晴らしい精神力だ。
先日つい出来心で訓練中の契約者たちを覗き見たら……。フェンリルが無表情で扱いていた。いや、指導していた。無表情かつ平坦な声で、皆を無能呼ばわりしていた。ものすごく美形だからこそ、無表情ってだけで恐ろしい。ジギスさんが「心が折れる」と言っていたのがよーく分かった。あれにくらべたらカールさんのいい笑顔なんて可愛いものだ。
「我が主も使えるはずだ」
「そうなの?」
「そのように意識するだけで使えるだろう」
試しに冷蔵庫からクラブハウスサンドを一切れ、「こっそりねー」と心で唱えながら転移させてみた。
「リーエ! スゴイな!」
……出来たらしい。私って何だろう、本当。
ルドルフが「俺、ひと月も掛かったのに……」とうなだれていた。なんかごめん? 転移したサンドイッチを「あーん」と言ってルドルフの口に押し込んでおいた。
「そうだ、フェンたちも護衛隊の格好で一緒に行くんでしょ? だったらいい加減その“我が主”ってのはやめようよ。あと“我”ってのも変だよ」
「では私は莉恵と呼ぼうか」
「あ、スゴイ! フェン、莉恵って言えるんだね」
「私も言えますよ、莉恵様」
にやりと笑って言うフェンリルに続いて、シュヴァルツまでが言えてる。ルドルフが驚いた顔でフェンリルとシュヴァルツを交互に見た後、「莉恵」と呟いた。
「ルーまで!! どうして? 今まで言えなかったよね?」
「ああ、どれだけ練習しても言えなかったんだが……そうか! 繋がったからか!」
「そうだ。いつ気が付くかと思っていたのだが、いつまで経っても気付かぬとはな。シュヴァルツと随分焦れたぞ」
「なんだよ、教えろよ。何度練習しても呼べなかったから、呼べないもんだと思い込んでいたじゃないか」
莉恵と呼ばれただけで、なんだか心がほわんと温かくなり満たされる。莉恵と呼ばれるのがこれほど嬉しいとは思わなかった。自分ではすっかりリーエだと思っていたのに。
だったらもしかして……。
「ルードルフ?」
ルドルフが驚いた顔で見ている。そしてそっと手を伸ばし、私の頬に優しく触れ、その頬を包み込んだ。
「ああ、漸く呼んで貰えた。嬉しいものだな。
俺は莉恵のものだからな、いくらでも縛り付けるといい」
ルードルフが優しく笑いながら抱きしめてくれる。
そうか。
今、解った。
私は名を縛ることが出来る。だから皆の名前を呼ばなかった。
呼べなかったのではなく、呼ばなかったのか。
聞き取れないのではなく、聞き取らなかったのか。
ああ、ルードルフはそれを解っていて、その上で何も言わずにいてくれたのか。
私はどれだけこの人に守られているのだろう。
私の知ることも、知らないことも。
「皆の前では今まで通り、リーエと呼べ。我が主の真の名は力を持つ故、扱いが難しい」
「そうだな、莉恵と呼ぶのは二人だけの時にしよう」
ルードルフが厭らしい顔でそう言った。……呼ばなくていいから。