23 勢い
バスローブ姿で結界を張りに行くフェンリルを見て、フェンリルの着替えをルドルフに頼み忘れたことに気付く。
慌てて仕事部屋を覗くと、ルドルフはまだそこにいた。机に向かい何かの書類を確かめている。
「よかった、まだいた。ジークさんは?」
「ジークは陛下の侍従に面会の許可を取りに行っている」
「ジークさん、まだ機密契約してないのに一人にしていいの?」
「ジークには既に秘密契約を施してあるからな」
「機密契約と秘密契約って違うの?」
「簡素に言えば、機密契約は一生、秘密契約はひと巡りだな」
ひと巡りとは一年のことだ。
秘密契約は一年ごとに契約のかけ直しをするそうだ。ルドルフの乳母だった青の看板の宿屋の女将さんも、乳母だった間秘密契約を施されたらしい。契約解除すると秘密契約の内容は忘れるそうだ。ちょっとコワイ。
ルドルフが出会った頃に、自分に縛り付けると言っていたのは、この秘密契約のことだったらしい。
「リーエだって俺に秘密契約を施したことがあるだろう?」
「え? ないよ」
何かを推し量るようにじっと私を見るルドルフ。
ほんの一瞬心の奥まで覗かれたような、少し心許ない気持ちになる。
ルドルフがふっと目元を和らげる。
「やはり無意識だったのか。
最初に会ったときに自分のことを秘密にするよう俺を縛っただろう? だから俺は誰にも話せず、文献を当たるしかなかったんだ。爺様なら渡り人に会ったことがあるから、色々聞きたかったんだがな。
リーエに渡り人のことを話したときに縛りが緩み、陛下にリーエのことを話す許可を貰ったときに切れたんだ。
露天風呂のことだって、日替わりにすると縛っただろう? 母上と露天風呂に籠もって俺の順番を抜かしたときに切れたがな」
いや、縛ったつもりはない。無意識に縛るって……大丈夫だろうか、私。
「あれ? でもルドルフ記憶あるよね。契約解除するときに内容忘れるんじゃないの?」
「そうなんだ。そこがよく分からない。リーエ独自の縛りなのか? あとでフェンリルに聞いてみるか……」
ルドルフが何かを考えるように私の顔をじっと見ていたかと思ったら、ふいに席を立ち近付いて来た。目の前に来たかと思ったら、いきなり自分の指を私の口の中に入れた。
「んがっ」
さっきのお返しかと思っていたら、私の口から引き抜かれた指を自分の口に入れる。指を舐め、何かを考えているような顔をして、その指を自分の口から引き抜き、再度私の口に入れ、口の中をなぞるように動かす。再度私の口から指を引き抜き、その指を舐める。
かーっと顔が熱くなる。顔だけじゃなく体も熱い。
「な、な、な、何すんのよ! ルドルフ!」
「体液を摂取すればするほど力が大きくなるな。今までこのようなことは聞いたことがない。リーエに限ったことなのか?
フェンリルは力あるものの体液で、と言っていたよな。どんな法則があるんだ?
後でもう一度フェンリルに聞くか。いや、リーエの理解力も使えるみたいだな。ならば後でじっくり考えるか……」
はくはくする。人の口に指入れるって! しかも目の前でその指舐めるって! 二回も!
「この理解力、素晴らしいな!
ん? どうした? リーエ」
なんだかものすごくムカついた。勝手に人の唾液を舐めるとは!
ものすごくムカついたので、両手でルドルフの襟をつかみ、引き寄せ、口をふさいだ。驚くルドルフが何かを言いかけて口を開けた瞬間、舌を入れる。先ほどルドルフが指を動かしたと同じように、舌を動かす。
満足するまで舌を動かして、体を離すと、ルドルフが真っ赤な顔をして口を押さえた。
うん、気が済んだ。ざまあみろだ! 研究馬鹿! これで体液摂取が出来ただろう!
「な、な、な、どういうつもりだ! リーエ!」
「なんかムカついたから」
「は?」
「気が済んだからもういい」
「は?」
「ああ、そう言えば、フェンリルの着替えを用意して欲しいんだけど」
「は?」
「……陛下の面会許可が取れましたが?」
楽しそうなジークさんの声に、ものすごい勢いで振り返ったルドルフが、「これは……」とか「違うんだ……」とかなんとか言っている。
焦るルドルフを見ていたら、ちょっと冷静になってきた。
にやつくジークさんに、「面会の時間に遅れます」とせき立てられているルドルフを残して、仕事部屋から出る。
冷静になるにつれ、自分のしでかした事が無性に恥ずかしくなってきた。
……露天風呂にでも入ろう。
露天風呂に入りながら考える。
ルドルフに対して恋愛感情はないと思う。
好意はあるがそれは愛とか恋とかではないと思う。なのになぜちゅーとか出来るんだ? しかもでぃーぷなやつだ。
あの時は単純にルドルフに一泡吹かせたかっただけの、勢いってヤツだ。勢いってコワイな。今更ながら恥ずかしくなる。うわーぁ。もう本当何やってるんだろうなぁ、私。
自分でも気が付かないうちに好きになっていた、なんて甘酸っぱい展開はない。うん、よく考えてもそれはない。
自分のことに関しては、あの解るという感覚が働かない。
あの解るという感覚、最近は理解力と呼んでいるが、あれはこの世界に関することしか解らないようだ。
うーん。
でも前に、ルドルフは信用できる、と解ったのは何でだろう? この世界の人だから? でもルドルフ以外に解った人はいない。なんとなく悪い人じゃなさそうだ、くらいの感覚はあっても、あんなにはっきりと解ることはなかった。
ルドルフに対してだけは、そのままの自分でいられる。
それが相手にとっては我が儘だと思われそうなことであっても、それが自分の本心であれば、言葉を選ばずそのまま伝えることが出来る。
今まで誰に対してもそんなことは出来なかった。
まずは相手がどう思うかを考えて、それでも伝えなければならない時は、慎重に言葉を選び、表情を取り繕っていた。
ルドルフにはそれが必要ない。
思ったことをそのまま言えるし、自分がどんな顔をしているかなんて考えることもない。
友達とは違う、もっと近い、家族のような感覚だろうか。それよりも気安いような気もする。
うーん。
やっぱりただの甘えだろうか。
この世界で最初に出会った人だからなのか、刷り込みのごとく頼り切っている気がする。どうしてなのか自分でも分からないくせに、絶対と言うほど信じられる。
うーん。
「主、ここか。なにをしている?」
露天風呂の目隠しの板塀の上に前足を掛けて、フェンリルが覗いている。板塀壊れるよ、みしみし鳴ってるよ!
「お風呂。フェンリルも入る?」
「いや、我はいい」
そう言えば実家のシロもお風呂は嫌がったな。
板塀を跳び越えながら空中で人型に変わったフェンリルは、濡れないよう端を通って家の中に入ろうとする。
「ちゃんと足の裏とか浄化してね。だいたいさっき着ていたバスローブはどうしたのよ」
「ああ、姿を戻すときに邪魔だったので剥がした」
「脱いだって言うんだよ。で、脱いでどうしたの?」
「……その辺にあるだろう」
「……拾ってきなさい」
家に入ろうとしていたフェンリルが、また端を通り、板塀を跳び越えながら姿を変えていた。姿を変えたときに洋服を着ている状態に出来ないのか、あとで聞いてみよう。姿を変える度に素っ裸はどうかと思う。
フェンリルには裸を見ても見られても何も感じない。綺麗な体だとは思うが、それだけだ。シロに裸を見られても何も感じないのと一緒のような気がする。フェンリルも何も感じてなさそうだ。
種の違いだろうか。
あんなにイケメンなのに、ときめかないのもそのせいだろうか。なんだかものすごくもったいない。イケメンなのに。ものっすごくイケメンなのに……。
あれ? 露天風呂には不可視の結界を張っていたはずだったんだけど……何故フェンリルには見えているのか。
……ああ、人に対する不可視だからか。魔獣に対する不可視の結界も張った方がいいだろうか。うーん。
ま、いっか。




