風船葛の君
饕餮サマ主催『風船葛企画』参加第二弾。
『風船葛と夕立』の青年視点です。
軒から下げている網に風船葛が絡みつき、涼やかな緑の影を縁側に作っている。
今年も小さい白い、可愛らしい花を咲かせてくれた。
手入れしなくとも元気に育つそれは、彼女のお気に入り――。
その日僕は、大学の友人の家に行っていた。
「で、見合いをする気になったのか?」
「いいや、ちっとも。そんなに急ぐこともないのにねぇ」
友人宅の座敷で、ごろりと寝転がった友人を他所目に、適当な本を読む僕。
適当に会話して、適当に時間を潰して。
親がしつこくもってくる縁談にうんざりして脱走してきたんだが、いつまでも友人宅にうだうだと居座り続けるのも申し訳なくなってきた頃。
そろそろ帰ろうかと腰を上げたところで窓の外を見上げると、空がどんどん暗くなっていくのが判った。
ああ、夕立が来るな。
そう思いつつも、別に今は夏だし濡れても構わないかと思い、
「じゃあ帰るわ」
と友人に声をかけると、
「おう。っと、雨が降りそうじゃないか。そこの蝙蝠傘、持って行けよ」
それまで寝転がっていた友人は起き上がり、僕の視線を追って窓の向こうの空模様を窺ってから、玄関横に置いてある傘立てを指差した。
せっかく友人が好意で言っているのだから、断るわけもない。
「ああ、ありがとう。借りていくよ」
「返すのはいつでもいいぞ」
「わかった。じゃあな」
部屋の中にいる友人に軽く手を上げてから、僕は外に出た。
表に出た途端に、ムッとした湿気にまとわりつかれる。
ああ、もうすぐ降り出すな。
そう思い歩を早めたのだが、いかんせん、降り出しの方が早かった。
大粒の雨がまばらに水玉模様を地面に描き出した次の刹那には、盥をひっくり返したようなどしゃ降りに変わっていた。
地面はあっという間に泡立ったかのようになっている。
傘を持っているとはいえ、さすがにこれでは歩けない。
僕は手近な軒下へと避難することにした。
あまりの雨の勢いに、周りが霞んで見える。
別に急ぐこともないからぼんやりと周りを見ていると、僕の避難している軒下の通り向こう、斜め前の家の軒下に、同じように雨宿りしている少女の姿を見つけた。
どこかいいところのお嬢さんなのだろう、着物と袴をきちんと着ていて背筋がしゃんと伸びている後ろ姿は、雨に煙ったおぼろげな視界の中ですら凛として美しい。こちらからは花の顔が窺えないのが残念だが、その纏う雰囲気に目を離せなくなった。
何かに気をとられているのか、僕の方には背を向けているので、気になってそちらを見るも、遠いのと雨の霞で見ることができない。
それでも僕はしばらく彼女の様子を眺めていた。
しばらくすると雨脚が弱くなったので、僕は傘をさして彼女の方に向かって歩き出した。
すぐ後ろに僕が近付いても気付かない彼女の視線を追うと、そこにはびっしりと風船葛の花が咲いていた。そうか、さっきからこれを熱心に見ていたのか。
「かわいらしい花ですよね。風船葛というのですよ」
あまりにご執心なようなので、思わず僕は声をかけてしまった。
驚きに見開いたとび色の瞳は大きく愛らしくて。少し開かれた唇は瑞々しい果物を連想させる……。なめらかな肌は、突然のことに恥じらってか少し赤みがさしていて、それがむしろ健康な感じがして好ましい。
――僕の声に弾かれたように振り向いた少女は、とても綺麗だった。
「え……?」
そう言ってちょこんと小首を傾げる様子は、僕を不審者と思ったのだろうか。誰だろうかと逡巡している様子が手に取るようにわかる。
しまった、怯えさせたか?
いきなり見ず知らずの女性に声をかけてしまうなんて、今まで一度たりともしたことがなかったのに。 いつもの自分らしくない行動に我ながら呆れてしまった。
「突然に声をかけてしまってすみません。貴女があまりにもその花を熱心に見ておいでだったのが微笑ましくて、つい」
頭を掻きつつそう言い訳してみる。頭を掻くのはばつが悪い時だな、と友人たちに指摘された僕の癖。 いやもう、気恥ずかしいとしか言いようのないこの状況。
しかし彼女はその華奢な手を、先程よりもさらに朱に染まったほほに添えて、
「まあ。それはとんだはしたない姿をお見せしてしまいましたわ」
目を伏せて恥じらう。その姿も実に愛らしくて、僕の頬が緩むのが判った。さっきから僕はずっとデレデレしっぱなしじゃないか?
引き締めようにも、やはり彼女の可愛らしさには勝てるはずもない。無駄な抵抗はこの際きれいさっぱり放棄することに決めた僕は、彼女に向かってにっこりと笑った。
「いいえとんでもない。花がお好きなのですね」
「ええ、花は好きですわ。……これは風船葛という名前なのですね。初めて見ました」
風船葛を初めて見たという彼女。だからあんなに熱心に見ていたのかと得心する。
僕は得意のこととて、もう少しこの花のことを彼女に説明した。
「その実が風船のように膨らむので……そう、ちょうどホオズキのような感じの実です」
「まあ、そうなのですか。よくご存知ですのね」
「大学で植物を学んでいるのです」
「だからお詳しいのですね」
僕の説明を、とび色の瞳を輝かせて聞く彼女。
大学なんて別に行かなくてもいいやと思っていた僕に、親は絶対に行けと強制した。うちの家は官僚の家だから、本当は政治経済を学んでほしかったみたいだけど、家はどうせ長男が継ぐから次男である僕は自由にできる。だからせめて興味があることを学ぼうと思って植物学を専攻したんだんだけど、今日ほど感謝したことはない。過去の自分をほめたたえておこう。
しかし、彼女との会話が弾んだのには驚いた。
ずっと学校には男しかいなかったし、兄弟も兄だけ。まともに女子と話したことなんてなかった僕なのに、なぜか彼女とは穏やかに話せる。
不思議な少女……。
彼女の好奇心に輝くとび色の瞳を、可愛らしい鈴の音のような声を紡ぎだす小さな唇を、もう少し見ておきたいと思うが、かなり時間は遅くなってきている。
腕時計で確かめても、これ以上遅くなってしまうと、どう見てもいいところのお嬢さんのような彼女の家の者が心配するだろうという時間が迫っている。しかも雨宿りの時間も入れると結構長い時間立ちっぱなしでいるから、そろそろ彼女も疲れてきているかもしれない。
名残惜しい気持ちはあるが、彼女のことが最優先だ。
雨脚もかなり弱まってきている。これなら彼女の綺麗な袴の裾を汚すこともないだろうと判断した僕。
「あまり遅くなってはおうちの方も心配するでしょう。雨脚もずいぶんとマシになりましたから、よろしければ送っていきましょう」
帰らなければならない時間は迫っているが、今しばらくは一緒にいたい。願いを込めてそう提案すれば、
「ありがとうございます。家までそう遠くないのでお言葉に甘えてもよろしいですか?」
という嬉しい返事。もちろん僕に否やなどない。
「ええ、どうぞ」
喜んで僕は彼女に傘をさしかけた。
そもそも濡れて帰るつもりだったところに借りた傘。僕は濡れても平気だけど、彼女が濡れてしまうのは忍びない。夏とはいえ、雨に濡れて、それこそ風邪でも引いてしまったら大変だ。
自分のことは棚に上げて、しっかりと完全に彼女を傘に入れる。
少しぶつかる腕同士がくすぐったい。
送っていく道すがらも、先程の風船葛のことで話が弾んだ。
10分もなかったくらいの距離を歩いたところで、
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
と彼女が立ち止まった。
店先だな、と思い何気なく看板を見ると、そこはなかなかに商売上手だと評判の貿易商の店であった。
そうか、ここのお嬢さんだったのか。
何も言われていないのにそう合点した。そう合点するのがしっくりきたのだ。
深々とお辞儀をする彼女が再び僕と向きあった時。
「あっ……」
僕を見て瞠目し、にわかに慌てだした。どうしたのだろうかと怪訝に思い、じっと見つめていると、
「少し使ってしまったもので申し訳ないのですが、とりあえずはこれをお使いくださいませ。私のせいで不快な思いをさせてしまって申し訳ございません」
そう言って手にしていた風呂敷包みの中から手拭いを取り出すと、僕の、傘を持っていない方の腕――彼女を濡らすまいと犠牲にしていた方の腕――を拭きだした。
初めはびっくりしたけど、必死な顔で一所懸命拭ってくれる彼女がいじらしく、されるがままにしておく。
今にも泣きだしそうな潤んだ瞳に、自分を気遣う優しさを見て心が温かくなり、
「貴女が気にすることなど何もないのですよ。僕が勝手に送っていくと名乗り出ただけのことですから」
と、少しでも彼女の気持ちを軽くしてあげたくて声をかけるのだが、
「しかし私が濡れていないのに、傘の持ち主である貴方が濡れてしまいました」
ますます申し訳なさそうに眉を下げる。
なんて健気で優しいお嬢さんなんだろうか。
彼女の愛らしさに、僕の口は、自然と弧を描いた。
「そんな使いさしではなく、新しいものを持ってきます」という彼女の申し出をあっさりと却下して、僕はその手拭いを手に入れることに成功した。そしてそれを返すときに風船葛の種を一緒に持ってくる約束をして……。
それは、また再び会うための約束。
また君に会うための口実。
彼女が家の中に消えるまで見送り、そのまま自分の家へ急いだ。それはもう、駆けださんばかりの勢いで。
家に着くなり、
「見合いする! というかしたい、です!」
居間にいる両親に向かって開口一番そう伝える。
「何だお前、いきなり」
「あんなに嫌がっていらっしゃったのに?」
あまりに突飛な僕の行動に、両親ともに訝しんでいる。さっきまであんなにうるさく見合いしろと言っていたくせに。しかしそんなことは気にしていられない。あんな大店のお嬢さんだ、いつ見合いの話が舞い込んでくるとも限らない。いやもう来ているのかもしれない。とにかく急がないと、彼女が手に届かないところへ行ってしまう。
「する気になったんだからどっちでもいいでしょう。大通りにある貿易商のお嬢さん、あの人とお見合いしたいんですけど」
僕は勢い込んでそう訴えると、
「ふむ、嫌がって逃げていたと思ったら、今度はいきなり指名か」
父親が、若干呆れながら言う。
「まあ、その方でしたらお見合いの候補として提示していましたけど? やっぱり聞いていなかったのですね」
母親も、呆れのため息を隠そうともしない。半目でこちらを見てくる。
……ん? 母さん、今何て?
驚きに目が開く。
「母さん……、今なんて言ったの?」
「だから。そこのお嬢さんだったら、貴方のお見合い相手として前にお話したわよねって言ったんですよ」
やれやれといった感じで肩をすくめながら、母親はもう一度繰り返してくれた。
は? お見合いの候補だって?!
確かに母親からはあちこちのお嬢さんの話を聞かされてきた。どれも見合いの候補として。でも僕は本当に興味がなかったから、毎回「ハイハイ」と相槌を打つだけで耳を土管状態にしていたのだ。
まさかその中に彼女がいたなんて……!
しかしこれは好機というべきだろう。
「その話、ぜひ進めてください!!」
僕は二人に頭を下げた。
「まあ、向こう様に他の縁談がきていなかったらいいですけどね?」
「うっ……」
母親が嫌味を言ったのに、僕は詰まってしまう。
「まあ、それはいいとしてだ。望んで見合いをしたいのなら、お前は学業にもう少し身を入れたらどうだ? 見合いをしたはいいが、留年などでは格好がつかないぞ」
「もちろん精一杯頑張りますよ!」
「少しは結果を出して来い。話はそれからだ」
「それでは時間がかかりすぎて、向こうに新たな縁談が行ってしまうかもしれないじゃないですか」
これまで適当に過ごしてきて、なんとなれば留年してもいいかというだらけた気持ちで大学に行っていたからだ。
確かに父親の言うとおり、留年寸前の男など、彼女の前で恰好がつかない。
だからと言って今から勉学に励んだところで、結果が出るまでに時間がかかり過ぎりて、彼女が他所に行ってしまうかもしれないのだ。
俄かに僕は焦り出す。
「あら、それなら私が先方に上手く言っておきますわ。だからあなたはお父様のいうようになさったらどうかしら?」
母親が助け船を出してくれた。
それからしばらく。
必死に頑張って、なんとか成果も見えてきた。卒業もこのままいけば大丈夫というところまでこぎつけた。
心が折れそうになった時には、彼女と出会ったあの雨宿りの軒下の風船葛を見て、何とか己を奮い立たせた。
いつしか風船葛はその実を膨らませ、もうすぐ種を宿すだろう。
ああ、ようやく――。
「また風船葛を見ているの?」
「あら、帰っていらしたのですね?」
先ほどから縁側に座り込んで動かない彼女の後から、その柔らかな体をそっと抱きしめる。
彼女の暖かさと甘い香りに、一日の疲れも癒されていく。
「風船が風に揺れるのを見ているのが面白くて。あ、そうだわ。もうすぐ種ができそうなんですよ! 今年初めての種ですね!」
くすぐったそうに微笑む彼女は、種ができかかっているという実を指差した。そこには確かに彼女の言うとおりの実があった。
またあのロマンティックな種を、彼女は嬉しそうに摘むのだろう。そして嬉々として庭に植えるのだろう。それが容易に想像できて、知らず口元が緩む。
「種が取れたらまた植えたらいいよ。でもこちらの種はいつ出てくるんだろうね」
「まあ! ふふふ」
僕は、彼女の丸いお腹にそっと手を当てる。もうすぐ臨月。
お腹の子に会えるのはいつだろう。
二人で見つめ合い、微笑む幸せ。
これはきっと、風船葛が運んできたんだろうな。
読んでくださってありがとうございました(*^-^*)