第七章:幕開け
コツコツ、と、二人分の足音が通路に響く。
郊外に打ち建てられ、さしたる利用者も望めずにそのまま廃墟となったビルの中を歩くのは、強張った表情の天人とレエン。ここは雑誌やテレビで、本当に出る心霊スポットなんて言われている。二人がこのビルに入る所を見た者があれば、季節外れの肝試しに行こうとしている兄妹、もしくはカップルにでも見えただろうか。
心霊スポットと言うだけあって、到着した時の彷徨える霊魂の数は多かったが、ネクロの力の源をそのままにして置く訳にもいかないのでレエンが全て追い払った。天人に見ることは出来なかったが、蜘蛛の子を散らすように散っていったという。
時刻は午後六時。薄暗くなり始めるこの時間であれば、ここに来ようという者も無いだろう。もっとも元々こんな場所に用がある者など無いだろうが、無関係の人間を巻き込むわけにもいかない為の配慮だった。
積もった埃が一歩を踏み出す度に舞い上がり、視界を濁らせる。あちこちに張ってある蜘蛛の巣が邪魔に感じた。
「ここなら、思い切り動けるわね」
辿り着いた大部屋に、レエンの声が響いた。静かなこの空間が、現実からかけ離れた戦場になると誰が想像するだろう。
「ネクロは本当にここに来るのか?」
「当然よ。私たちの居場所を察知するくらい、訳無いだろうし」
天人は、右手を見やった。この手が武器になる。致命的な一撃を与え、ネクロを消滅させることが出来るのは、この右手に宿った玲菜の冷たさなのだ。
一方レエンは、どこか不安そうな面持ちで、少し顔を俯けた。当然ながら、力は完全に戻っていない。本来の力の七割程は回復できたが、これでネクロとどれだけやり合えるか。
「大丈夫よね。絶対、勝つんだから」
「何か言ったか?」
自分だけにしか聞こえないくらいの声で呟いたつもりが、本当によく響く部屋だ。
「ううん、何でもない」
急いで笑みを返すレエンだったが、天人は眉根を寄せて首を傾げている。
「どうした? 何か――」
「しっ! 静かにして」
天人の追求を止める様に、レエンが口元に指を立てながら言った。来たか、と天人も身構える。
唾を飲む音まで聞こえそうなくらい、室内は静まり返った。耳鳴りがする程の無音の空間が広がる。
しばらくそのまま硬直。しかし、何処からともなく複数の足音が聞こえ、こちらに迫ってきているのが聞こえてきた。
「来るわよ、天人、くれぐれも気を付けて」
「レエンも、あんまり無理するなよ」
部屋への入り口は二つ。南側と北側の逆方向に設けられている。二人は背を合わせ、其々の目の前に有る入り口に神経を集中させた。
ざり、ざりと布擦れの音と足音が混じった音が、段々とこちらに近付いてくる。そしてその音が、入り口のすぐそばまで近付いたその瞬間。
二人は弾かれたように駆けた。レエンはその人並み外れた身体能力で、天人は靴の裏を凍らせスケートの要領で、入り口に向かって走る。
先頭に立つネクロの死人形が視界に映ると同時に、二人は能力を開放した。
手にしたナイフ、包丁、金属バットやバール等の武器を持った人形たちが緩慢な動作で凶器を振り上げているその隙に、細い通路にひしめき合った人形たちの隙間をすり抜け、的確に左胸の核を凍結させ貫き、消滅させていく天人。人形の数はおよそ三十体にも及んだが、的確に心臓を抜き取り、消滅させつつ次の敵の核を潰していく。この程度、商店街の人の波に比べれば大したことは無かった。
無駄な力の浪費を防ぐためにも、全神経を相手の核を抜く事にだけ集中させ、攻撃される前に倒していく。凍結させた靴がコンクリートを踏み出す度に摩擦を無視した高速移動を実現化し、目まぐるしくもあったが攻撃を受ける事無く人形を倒すことに成功していた。
刃物は流石に無理ではあったが、バット等の打撃武器の場合であれば、凍結させて砕くことも可能だった。そうして敵の致死の一撃を未然に抑え、更にスピードアップしつつ押し寄せる人形を次々に消滅させていく。
一方レエンは、流石は持って生まれた能力だけあり、炎を噴出し襲い来る人形を一気に焼き滅ぼすだけに留まらず、長さ五メートルはあろうかという程の巨大な槍を創造し、細い通路に撃ち込んで人形を串刺しにし、はたまた地を疾る電撃を想像して足元から電流を流し、その熱量でもってして、多くの人形の核を焼き焦がし、破壊して消滅させた。
死神と自ら語ったその力は伊達ではない。この現実味の無いものを創造し得る想像力が、彼女が死神として生を受けた証だった。
レエンの方が先に室内に戻ったが、天人も程なくして部屋に戻ってきた。その能力の馴染み様は、能力の主であるレエンも目を見張る程だ。
「これくらいの人形じゃ、私や天人を倒すことは出来ないわよ、ネクロ」
再び静かになった室内に、一際大きな声が響く。
ややあって。
「ほんの余興だよ、死の姫君。そして愚かな人間よ。逃げずして我に向かってきた事、賞賛に値しよう」
何処からともなく響く声。冷酷をそのまま表現する様なその声色は、正しくネクロのものだった。挑発的な言葉に、天人の怒りが静かに灯る。
「お前だけは、絶対に殺してやると決めたからな」
「思い上がるな、力無き者。我が指一つで受けた力を忘れたか」
続く言葉と同時に、何も無い空間からフェードインする様に姿を現す黒のロングコート。明かりの灯らぬ室内でも、その銀髪と白い肌、そして氷の様な銀の双眸は輝いていた。その余裕に満ちた表情は、逆に彼の秘める残虐さを象徴しているかのように見える。
「今日は逃がさないわよ、ネクロ」
睨み付けながらレエン。ネクロは其れに対し、鼻を鳴らして口だけ笑みを浮かべた。
「我が逃げる等とは、有り得ぬ事。姫君よ、どうやら我の力を過小視している様であるな。姫君が世に生成されて以来、我が同胞が幾人も滅せられたと聞く。その力は確かに強大なものであるが、其れ故に姫は自分の力を絶対的なものと思い上がってはおらぬか」
ただ坦々と語るその目に宿るのは、この上ない殺意だ。静かに両手を水平に伸ばし、手に握られた骨を砕いて空中にさらりと落とすや、骨の欠片を核とした新たな人形が生成される。
白い顔、濁った目、死体と同じ、同じ顔をした意思の無い兵士たち。広い部屋内を埋め尽くすかの様に、次々と生成されていく其れ等は、戦闘の指示を待つかのように、動かずに静かなままで硬直していた。
「同胞、ね。あなたが他のイーヴルたちをそんな風に見てたなんて、意外だったわ」
「無駄口を叩く暇など無いはずだが、死の姫君。その魂の力、貰い受けようぞ」
ネクロが右手を二人に向けた。その瞬間、人形たちが一斉に武器を掲げて襲い来る。
「天人、私が中央をこじ開けるわ。ネクロに一撃叩き込んであげるのも、なかなか面白いでしょ」
レエンの呟きは人形たちの足音に消え入りそうだったが、天人の耳には届いていた。小さく頷き、敵の一団の中央、ネクロの元へ向かってコンクリートの床を滑走する。
「質より量じゃ、私たちは倒せないわよ、ネクロ」
にやりと口端に笑みを浮かべると、レエンはその右手を、先程のネクロと同じように突き出した。
途端、人形の中央で突如爆発が起こり、人形を宙へと弾き上げ、あるいは核もろとも破壊し、天人とネクロを結ぶ直線状に穴を開けた。床に溜まった埃の山が、人形の破壊と同時に吹き上がる。正に魔法と称するに相応しい能力の開放。衝撃や熱など一切無かった。
爆発の被害を受けまいと、人形の隊の一部を自分を庇わせる方向に向けたネクロだったが、それが逆に仇となった事に気付いたのは、目の前を覆う程の埃と、自ら作り出した人形の残骸で構成された煙幕を確認したときだった。
天人は床を滑走のスピードを上げながらネクロの左手側の死角から回り込み、隙を見せた敵の胴を掴むや、そのままの勢いで大きく腹を抉りながら駆け抜けた。ネクロの腹部がごっそりと削り取られ、皮一枚で繋がった状態になり、ぐらりと上体を歪ませる。
もう一撃、と天人は駆ける軌道を変えた。この大きな隙を見逃すか、もう一撃叩き込める!
「天人、戻って!」
レエンの叫びに弾かれるように、天人はすぐさま後方に飛び退いた。が、横腹に走る大きな衝撃を感じた時にはもう遅かった。
ネクロは腹からほぼ真っ二つに裂かれたにもかかわらず、天人を払うように攻撃を繰り出してきたのだ。バランスを崩したと見たが、天人の方にぐらりと倒れこんだ上体を生かしてリーチを伸ばし、横薙ぎに振るった拳は、本来ほどの威力は出さなかったものの天人をレエンの元まで弾き飛ばすには充分な威力だった。
レエンの声にすぐさま反応して体を退いた為にそれほど大きなダメージを受けることは無かったが、あの体勢からここまで強力な一撃を繰り出せるとは。
床を転がり、埃まみれになる天人。
「大丈夫?」
「ああ」
短く答えて立ち上がる。
本体へのダメージを与えることに成功した事は大きかった。天人が再度ネクロに向き直った時には既に抉った胴は復元していたが、あれで力の一部をダイレクトに削ぐことが出来たのだ。
「見事だ。我に一撃を与えようとは、まことに見事」
賞賛の言葉を吐くネクロだったが、吊りあがる眉と氷の銀が、格下と見ていた者からの不意打ちを受けたことに対する怒りを露にしている。
「しかし、我が怒りを呼び起こしたその行い、万死に値しよう。覚悟せよ、姫君、そして愚かな人間よ」
ざわ、と大気が震え騒いだ様な気がした。ネクロの放つ殺気とその強大に膨れ上がった力が、空気を振動させる。天人はその気だけで肺が圧迫されるような感覚を覚えたが、唇を噛み締めてそれに耐えた。生温い汗が首筋を伝う。
「滅せよ。その魂を喰らい、人間は骨一片、毛一筋残さぬほどに、抹消してやろうぞ」
ネクロの手には、新たな骨片が握られていた。
今まではほんの余興のつもりだったのだろう。これから造り出す人形は、恐らく先程までのものとは一線を画した力を持つものになると予想がついた。
「天人、気をつけて」
「お前もな」
短い会話の後、きゅっと口を横に結んで身構える天人とレエン。
これからが、本当の戦いになる。徐々に完成していく人形の影を睨みながら、天人は右手に力を込めた。