家を出た理由
正志が家を出て三年が経つ。
食卓の座席にはうっすら埃が積もり、
私はそれを指で払うのが習慣になってしまった。
かつて、三人で暮らしていた空間。
使われずに棚の奥で眠る食器やマグカップ、テーブルには箸も揃えられぬまま、
かつて三人で過ごした日々の気配だけが残っている。
あの子が出ていくずっと前から、この家は静かになりすぎていた。
妻が亡くなってから、私は“人”というものがどうにも信じられなくなった。
彼女は誰よりも強くて、誰よりも優しい人だったのに、
その優しさが踏みにじられるようにして消えてしまった。
何を恨めばいいのか、誰を責めればいいのか。
その答えを探すうちに、私は自分でも気づかぬ道へと踏み込んだ。
正志だけは、同じ道に立たせてはいけない。
そう思っていたはずなのに。
あの日のことは、今でも胸の底に鉛のように沈んでいる。
まだ十七だった息子の目は、恐怖と迷いで揺れていた。
私は「遅くなる」とだけ告げて地下室に降りた……つもりだった。
だが、階段の影に、人の気配があった。
後で思えば、あのとき彼は見てしまったのだ。
夜気の揺らぐ地下室で、私の“もうひとつの顔”を。
並んだ影と、その前で何かを整えている私の姿を。
あの光景が、あの子の胸にどんな思いを残したのだろう。
彼は翌朝、何も言わずに家を出た。
たった一言「ごめん、父さん」と書かれたメモだけを、テーブルに置いて。
あの子は優しかった。
曲がったことを嫌い、正義という言葉を子供らしく信じていた。
だからこそ、私の“仕事”を知ったとき、どれほど苦しかっただろう。
彼が家を出てから、しばらく経った頃。
街では、夜になると不可思議な光や影を見たという噂が広がった。
どこかで静かな騒ぎが起きては、翌朝には跡形もなく収まっている。
そんな日々が続いていた。
私は時折、耳に届く報せに心をざわつかせた。
それは仕事の範囲の出来事に過ぎないはずなのに、
胸の奥が妙に熱く、そして痛むのだ。
そして今日。
玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、そこにいたのは三年前よりずっと大人びた正志だった。
頬はこけ、目は強く——そして痛々しく優しい。
「……久しぶり、父さん」
私は言葉を失い、ただ頷いた。
正志はゆっくり口を開いた。
「本当は、もっと早く帰りたかった。
でも……父さんのそばにいたら、僕はきっと迷ってしまうと思った。
あなたの力も、あなたの弱さも……全部わかってるから」
胸の奥がずきりと痛む。
「だから逃げた。僕は、悪には加担したくなかった。
父さんのことは……大好きだからこそ、遠ざかるしかなかったんだ」
そのときだった。
私の杖に仕込まれた探知機が鋭く震えた。
“敵性反応”——間違いなく、目の前の息子からだ。
正志は静かに腕を差し出した。
上着の袖をまくると、そこには小さなブレスレット型の装置が光を放っていた。
青白く脈打つ光が、手首を中心に広がる。装備展開の前兆だ。
「父さんの野望は、今日で終わらせる」
私はゆっくりと背筋を伸ばした。
長年、誰にも見せてこなかった“首領”としての表情が、自然に顔に浮かぶ。
「……やはり、お前だったのか」
私はゆっくりと背筋を伸ばし、ずっと隠してきた“本当の姿”を晒した。
その瞬間、部屋の光がわずかに揺らいだ。
床や壁に映っていた無数の日常が、まるで風に吹かれる紙のように溶け、消えていく。
冷たく青白い光を放っていた幻影装置は、一斉に沈黙した。
まるで空気ごと入れ替わったかのように、部屋は静寂と無機質な暗闇に包まれた。
息子の目に、先ほどまでの温もりある幻影はもう映らない。
現れたのは、冷たく整然とした鉄と影の空間——
私が本当に支配する世界だった。
「……父さん……」
息子はわずかに息を呑んだ。
その胸に去来する衝撃と覚悟を、私は静かに見守った。
「では―――やってみるがいい。正志……いや、《コウセイバー》よ」
「……光剣降臨!」
その一言とともに、息子の体が青白い光に包まれた。
光は彼を中心に旋回し、空気の振動が低い轟音となって空間に響く。
胸元の装甲が展開し、肩や腕に鋭角のラインが浮かび上がる。
まるで夜空に走る閃光そのものが、彼の体を纏ったかのようだった。
床に落ちていた影や埃が、光に押されて舞い上がる。
その光が収束すると、目の前にはまるで別人のような、青白く輝くヒーローの姿——
鋭い瞳の奥に決意が宿り、握った手には光剣が青く煌めいていた。
「いくよ、父さん」
静寂の中で、変身を終えた息子は私を見据えた。
光と影の対比は鮮やかで、冷たい空気に緊張が張り詰めた。
「終わらせよう。僕たちの——三年分の決着を」
光と影が、震えた。
世界の命運を賭けた、父と息子の対決が始まろうとしていた。




