沈黙の反応 ――異様な一言
司祭が、金の巻物を開いた。
一枚の羊皮紙が、乾いた音を立てる。
その瞬間、空気がかすかに軋んだ。
「これより罪人を引き渡し、王国の法のもとに――」
その定型句の「もとに」を言い切る前に、
アメリアが、ゆっくりと、口を開いた。
「滝の音を、聞きに行きますの」
その声は、囁きでも叫びでもなかった。
まるで、風景のほうが話したような声だった。
一瞬、世界の輪郭がふるえた。
音も風も、群衆の息づかいさえ止まった。
そして、滝の音だけが残った。
白鳩が一羽、空へ舞い上がる。
羽音が遅れて響く。
その音がやけに重く感じられるのは、
広場の空気が――水を含み始めているせいかもしれなかった。
「……滝?」
「どの滝のことだ?」
「まさか、本当に行くつもりでは?」
民衆たちは囁き合った。
けれどその声も、どこかぼんやりと濡れていた。
語尾が水に溶けるように曖昧で、
誰も自分の声がどんな音だったか思い出せない。
アメリアは、壇の上から一歩を踏み出した。
石段に触れた靴の底が、かすかに水を弾く音を立てた。
それは錯覚かもしれない。
だが、確かに“濡れている”ように見えた。
「……滝の音を聞きに行く?」
「断罪式の後に?」
「いや、今行くらしい」
誰かの呆れ声が風に散る。
それでもアメリアの表情は、穏やかだった。
彼女はまるで、儀式の外側に立っているようだった。
この世界の乾いた機構の中で、
ひとりだけ水の世界に触れている。
壇上のレオンは、言葉を失っていた。
声を出そうとしたが、喉が乾いて音が出ない。
かわりに、滝の音が喉の奥に流れ込んでくる。
(滝の……音?)
彼の胸の奥で、水が打ちつける。
理性と感情の岩肌を削りながら、
音だけが清らかに響いていく。
アメリアは群衆をすり抜けるように歩く。
ドレスの裾が石畳に触れるたび、
水紋のような波紋が広がっていく――誰の目にも見えない形で。
「この都は、少し乾きすぎていますわね」
誰にともなく、彼女はそう言った。
声は静かで、しかし確かに湿っていた。
まるで、その一言が空気の温度を変えたかのように。
侍従が動揺して彼女を追おうとしたが、
レオンの手がそれを制した。
「……行かせてやれ」
彼の声もまた、滝の水音の一部になっていた。
彼自身がその理由を知らぬままに。
その瞬間、風が吹いた。
旗が濡れたように重たく垂れ、
石畳の上に淡い水の匂いが満ちた。
まるで都全体が――
彼女の言葉を合図に、静かに濡れはじめたようだった。
後に人々は語る。
「断罪式の日に滝が鳴った」と。
だが誰も、滝など見ていない。
ただその朝の空気だけが、
いまもなお、ほんの少しだけ湿っているという。




