前兆 ――乾きの気配
滝庁の朝は、いつも湿度計の針の角度から始まった。
だがその日、職員たちは誰も声を上げられなかった。
壁一面に並ぶ計器の針が、どれも一様に「0」を指していたのだ。
湿度の消えた庁舎は、不思議なほど軽く、空気が透きとおっていた。
いつも曇っていた窓ガラスが澄み、遠くの山並みがくっきりと見える。
それは美しかった。あまりに、恐ろしいほどに。
「これは……誤差では?」
若い書記官が震える声で言う。
「ありえません。昨夜まで八十二を維持していました」
「……つまり、本当に乾いたということか」
誰かが呟いた瞬間、庁舎全体に“パサリ”という紙の音が響いた。
書類が、湿りを失ってめくれた音だった。
外へ出ると、王都の噴水が止まっていた。
石畳はひび割れ、昨日まで靴底にまとわりついていた水気が跡形もない。
霧のない街は、まるで裸にされたようだった。
詩人たちは詩を詠めず、喉を潤そうとしたリュカの指先からも、
インクのように黒い乾きが滲み出た。
クレアが駆けこんできた。
髪にまとわりついていたはずの湿気は消え、
彼女の瞳には、いつもより鋭い光が宿っている。
「庁長……滝が、止まりました」
その報せは、あまりにも静かだった。
風も吹かず、紙一枚すら動かない。
リュカはゆっくりと机に手を置いた。
その手の下で、木の感触が異様にざらついている。
水を失った世界の肌触りだった。
「……水の終わりだ。国家の終焉だ。」
声は、乾いた空気に吸い込まれていった。
響くことを忘れた音だった。
――その頃、滝庁の北窓にひとり立つ女がいた。
アメリア・ド・リュミエール。
白衣の袖を風に揺らしながら、ただ遠くの山を見つめている。
その瞳の奥には、干上がった滝ではなく、
まだ見ぬ“深い底”の光が宿っていた。
滝庁廃庁の報せが届くのは、その日の午後だった。
だが彼女は微動だにせず、ただ、
どこか遠くの音――聞こえないはずの水音に耳を澄ませていた。




