湿度管理室の朝 ――官僚の祈り
滝庁の一日は、湿度の確認から始まる。
夜明けとともに、庁舎の壁に埋め込まれた巨大な湿度計が静かに脈動を始める。
銀の針がゆっくりと八十二を指すと、職員たちは無言で席を立ち、
「本日の湿度報告書」に朱印を押した。
印を押す音は、まるで雨粒が地面に落ちる微かな連打。
その音の合間に、庁舎の上層階から重々しい声が響く。
「湿度八十二――理想的だ。」
庁長リュカ・ド・フォルマンが、霧のように声を落とす。
その瞬間、百名を超える官僚たちは一斉に目を閉じ、
“祈祷の黙読”を始める。
それは言葉を持たぬ詩――一行の息を合わせることで、
今日という湿度を祝福する儀礼だった。
机上の書類はすべて防水紙。
インクは水を弾くように書かれ、やがてその弾かれた跡が
虹色に光るのをもって“祈祷完了”とする。
議事録の末尾には、
「本日の結露指数」「発話による蒸発率」といった欄が設けられており、
職員たちは真剣に、自らの言葉の湿度を測定していた。
沈黙が庁舎を包み、
窓の外では霧雨が屋根を洗う。
そんな中、クレアが静かにリュカの執務机へ近づく。
彼女の髪には、外気の水滴がまだ残っていた。
クレア:「庁長、湿度が下がってきています。」
リュカ:「……そうか。ならば言葉を、少し減らそう。」
二人の会話は、声ではなく、呼気の波紋のように空気を震わせる。
誰もその意味を正確に聞き取ろうとはしない。
この庁舎では、会話さえも“湿度の一部”として扱われるからだ。
午後になると、廊下には“乾燥警報”のランプが灯る。
それは火災報知器ではない――
言葉が多すぎるという警告であった。
リュカは立ち上がり、
庁舎の中央に設けられた“滴りの塔”へ向かう。
塔の頂からは、一定のリズムで水が滴り落ちる。
それが、国家の息の音。
「滝の原理は、秩序の呼吸だ。
乾けば争い、濡れれば静まる。
それだけのことを、我々は守っている。」
庁舎の空気は、再びしっとりと整っていく。
どの書類も波打たず、どの声も高ぶらない。
滝庁の朝――それは、
国家の湿度を保つための、静かな祈りの時間であった。




