哲学官僚リュカの“滝理論”
王立学院の哲学棟は、いつも少し冷たい。
石造りの廊下には朝の霧が溜まり、
誰かの靴音が響くたびに水気を含んだ空気が小さく揺れる。
その一室――第七講義室の窓際で、
リュカ・ド・フォルマンは一冊の古びた原稿を開いていた。
表紙には消えかけた文字でこう書かれている。
『沈黙の国家論(未完)』
未完のままにしておくつもりだった。
だがあの日、滝が“言葉を話した”と聞いてから、
彼の思考は、再び流れを取り戻してしまったのだ。
「――本日の講義は、『滝と断罪』です」
そう宣言すると同時に、教室の空気がわずかに湿った。
前列の学生が、慌てて水瓶の蓋を開ける。
机の上には一様に並んだ透明な瓶。
そこに水を一滴でも欠かしてはならない――
それが、哲学棟の新しい礼法であった。
「断罪とは、高所からの落下である」
リュカは、黒板にチョークを走らせながら語る。
その線はまっすぐに下へ伸び、
やがて白い粉が滴のように床に落ちた。
「滝は、それを自然が模倣した構造だ。
つまり、罪は形を変えて降り続ける。
水は罪を抱えながら落ち、地にて赦される――」
学生たちは息を呑んだ。
その瞬間、どこからか微かな水音が聞こえたような気がした。
リュカは眼鏡を外し、額をぬぐう。
指先に滲む汗が、まるで滝の霧のように光る。
講義室の窓を打つ雨が、静かにリズムを刻んでいた。
「哲学とは、乾きを恐れぬ営みである。
だが――」
彼はそこで言葉を止め、
目の前の水瓶を見つめた。
瓶の中の水が、微かに揺れている。
「だが、私はもう、湿ることを恐れなくなった。」
その言葉の響きは、講義室全体に静かに滲み、
学生たちは一斉に深呼吸をした。
誰もが、知らぬ間にその“湿度”を分かち合っていた。
授業の終わり、学生のひとりがそっと訊ねた。
「先生……滝は、なぜ落ち続けるのですか?」
リュカは少しだけ微笑んだ。
「それが、思想の習性だからです。
上にあるものは、いつか必ず流れ落ちる。
それを止めることは――理性の傲慢です。」
外では、いつのまにか本降りになっていた。
雨樋を流れる水の音が、
まるで講義の続きのように響いていた。




