第1話 聖女の夜と禁じられた知識
後宮の夜は静かで重く、銀色の月光が大理石の廊下に淡く映る。
貴族令嬢アリエル・リンドフォードは、聖女としての夜の巡礼を終えたところだった。神殿で祈りを捧げ、祝福の灯火を灯す。周囲からは「聖女の微笑」と呼ばれ、誰もが敬虔な眼差しを向ける。だが、アリエルの心は静かにざわめいていた。
「今日も、誰も救えない病があるのだろうか……」
祖母の書斎からこっそり持ち出した古い蔵書には、薬草の効能や毒物の調合法が詳細に記されていた。誰にも知られてはいけない、禁断の知識。だが、アリエルは知っていた。祝福や祈祷だけでは、人を救えないこともあるのだ。
その時、侍女のエレナが駆け込んできた。
「アリエル様! 皇太后が倒れられました! ご様子がおかしいとのことです!」
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。皇太后は後宮で最も尊敬される存在。誰もが祈る聖女の力でも、病には抗えないという事実が、恐ろしいほどに現実感を持って迫った。
「落ち着いて、エレナ。詳細を教えて」
「高熱で、意識もはっきりしていません。医師も魔術師も、原因を突き止められないそうです」
アリエルは一度深呼吸をした。聖女としての責務、そして密かに学んできた薬草学の知識——すべてを駆使する時が来たのだ。
夜の闇を裂くように、アリエルは後宮の秘密の書庫へと足を運んだ。石の扉の奥には、誰も触れることのない薬草と毒の書物が並んでいる。指先で頁をめくるたび、知識が彼女を力づける。
「この病、ただの熱病じゃない……毒か、魔術か、それとも未知の病原……」
考えが交錯する中、義務婚約者の侯爵リオンが静かに廊下に現れた。
「アリエル。こんな夜に一人で……危ないだろう」
リオンの瞳は、懸念と少しの不満を混ぜた光をたたえている。
「大丈夫、リオン。私が見つけ出す。誰も助けられないなんて、絶対に認められない」
彼女の言葉に、リオンは小さく頷いた。彼もまた秘密を抱えているらしい。しかし今は、二人でこの後宮の闇に立ち向かわねばならない。
石畳の冷たさが足元に伝わる。アリエルは魔術師としての知識と聖女としての祝福を胸に、後宮の夜に潜む「病」と「陰謀」の兆しを追い始めた——。