14 澱み
それは一瞬の出来事だった。ルドルフが魔法を発動させると同時に彼の背中に彫られた魔法陣が青白く光りながら浮かび上がる。薄着だったせいか、いつも以上に光を放っていた。近くにいた衛兵の一人が異変に気がつく。しかし声を上げ振り返ろうとしたが間に合わず、詠唱はもうすでに完了していた。
世界からは色彩が消え、音が間延びする。そして私たち以外のすべての時間が澱んだ水のようにゆっくりとその場にとどまり続ける。どちらかというと私たちが早くなったというより、みんなが遅くなったという感覚だった。着ていた服や持っていた剣は澱みに飲まれず、私たちと共に同じ時の流れに乗っていた。
「さて、時間がない。さっさと終わらせるぞ」
ルドルフは剣を持つ手に力を入れ直すとすぐに駆けだした。そして近くの衛兵の利き手と足を、一人また一人と斬っていく。斬った瞬間その部分だけ動きが早くなるがすぐに澱みに飲まれていった。
私も近くにいる衛兵の手と足を剣で斬っていく。別に今は殺す必要はない。ただ足止めできれば十分なのだ。時間ギリギリまで剣を振り続ける。そして衛兵を半分まで減らした時だった。急に時間の流れは元に戻り、それと同時にすぐそばでルドルフが叫び声を上げた。
「ぐああああ!」
それに一瞬遅れて手や足を斬られた衛兵たちの断末魔が闘技場に響き渡る。残った衛兵や観客たちは何が起こったのか分からずその場に固まった。辺りには沈黙という音が響き渡る。
私がルドルフの方を振り向くとそこには彼の背にハンスが片手斧を突き立てているところだった。ハンスは刺さった斧をルドルフの背中を蹴りながら引き抜くと斜めに振って血を落とす。
ルドルフが地面を転がり、ハンスが彼に斧を差し向けながらゆっくりと近づいてきた。
「おいおいおいおい、嘘はダメじゃないか、ルドルフ・ラングハイム。全く痛みを感じないことはないだろう? せいぜい痛みに鈍くなるだけだよなぁ。この期に及んで娘にまで嘘をつくのか?」
「くっ!」
「それにこのハンス・E・ゲッフェルト様がお前の宿と背中に入れた魔法陣を知らないはずがないだろう? お前が舞空陣を発動させる少し前、オレも発動させていたんだよバカ目」
ルドルフの背に輝いていた魔法陣は傷つけられたことで効力を失い青白い光も消え飛んだ。
ハンスはルドルフに止めを刺そうと斧を振り上げるのを私は確認すると、剣を両手で握りしめ戦闘態勢をとる。しかしハンスは何を思ったのか途中で攻撃するのは止め、その斧を投げ捨てた。
そしてハンスは有ろうことかルドルフに手をかざすと傷を治し体力を回復させた。私はあっけにとられハンスの行動を口を開けて見ていたがルドルフも私と同じ表情をする。
ルドルフは背中の傷を触り、それが完全に塞がっているのを確認するとむくっと立ち上がった。さらに彼は私とハンスの方を交互に見て目を丸くする。
「お、おい、これはどういうことだ!? お前これはどういう……」
「――これはオレの宿『ヒール』だ」
ハンスはルドルフの言葉を遮り続ける。
「オレの寿命を相手に分け与えることで対象の人物の怪我や状態異常を回復させる力だよ。いまお前に二十年分の命を分け与えた。すぐに死んでしまっては面白くないからな」
「は? 狂ってる! それに二十年分だなんて何考えてるの?」
思わず私の口を付いて出た。あいつは何を言ってるの? 彼は私の質問に答えるように両手を上げ観客を指す。
「こんなに人が集まっているんだ、お前たちの残酷な死に方を見たくてな! メインディッシュを食べずに帰るバカがいるか? これからが面白いんだよ。それに……」
ハンスはニヤリと笑うと指を鳴らした。それが合図だったかのように彼の周りにはいくつもの小さな竜巻が形成され地面の砂を巻き込んでいく。
次第にその竜巻はハンス自身も飲み込み巨大な竜巻へと合体する。そして一歩先も見えない砂嵐がだんだんと収まってくるとハンスの声が闘技場全体に響いた。だが何かおかしい。ハンスの笑い声が二重に聞こえる。
砂嵐が完全に晴れ青空が見えてくると地面に大きな影が落ちていることに気づく。それは衛兵たちや観客たちも気づいたみたいでその影に釘付けになった。大きな翼が生えた巨大なトカゲの影が蠢く。
「まさか――!」
みんなの視線が一点に集中する。闘技場の二階席の上、一番高い柱の天辺にあいつはいた。
漆黒のドラゴン。陽の光を受けて鈍く光るそいつは口を耳元まで広げこう叫んだ。
『食事の時間だぁ!』、と。