第87話 The Serenity Prayer
天守閣のテラスにショコラを招いて、アカネマルはいつ以来かもう覚えてもいない、久しぶりの休憩をとっていた。
「レンジに責任をとる大人に会ったことがないって言われて、ギンが泣いたって話聞いた?」
「士魂があって情に厚くて若い子に好かれるから、博士も出世しないね」
「ドラゴンオタクだし、まだ境内うろうろしてるみたいよ」
ギンはオーパーツを探してイズモ神殿の境内を一日中ずっとうろうろしていた。
二人は笑って、しばらく周りの男たちの寸評をして盛りあがった。
「レンジがね、弟子にしてくれって」
「可愛いわね」
「心が鬼みたいに荒ぶって一時も定まらないの、いまはゾーイがもってる。オロチにとり憑かれて一時は緊急だったけど、想いを残してこの世にはとどまった」
「彼岸で生きるにはまだ若い」
「あなたもね」
中型の快速帆船が一隻、遠く、北東の水平線に姿を見せた。それは海路の復旧を知らせるもので、アカネマルが待ち望んでいた船だった。
水平線から目線を落とすと、港は相変わらずの混乱を呈している。右往左往する民衆であふれかえっていた。また大規模な暴動が起こるのは時間の問題だった。
逃げるか、誰かを責めるほかにやることはないのか。眺めれば眺めるほど徒労感がつのる、力が果てしなく抜けていくような風景だった。
「ひどい世界、子供なんてぜったい産みたくない」
アカネマルがつぶやいた。
「いっそ皆殺しにしようって、よく思うわ。国も人も滅ぼして、空も海も大地も、獣たちに返してあげればいい。わたしたちよりもきっと上手くやる」
「あなたは衆愚と床を共にする果てしない道を選んだ」
ショコラの言葉に、アカネマルは目眩のする疲労をおぼえた。
「小心とケチだけが取り柄、目先の食い物と金がすべて、毛が抜けた猿どもが、これ以上なにやれってのよ」
アカネマルの止まらない人類への罵倒を、その手を握ってそっと制して、ショコラは人差し指で天を指して言った。
「空から見たら、人の命は平等、生きてるだけで十分」
アカネマルは親指を下に向けて、
「あたしは地を這ってクソにまみれて生きてる。命に条件、優劣と値段をつけるのも仕事のうちよ」と言い放つ。
ショコラはわずかに眉をしかめた。しばらく沈黙して、港を眺めながら言った。
「悪霊に憑かれた豚の群れが海に堕ちていく」
聖女の少し荒れた言葉遣いに、心の揺れを見る。彼女だって悲しい。アカネマルは自分の弱音を恥じた。
「あれはわたしたち」
ショコラが言葉を続ける。
「善を望んでも果たせない、愛を望んでも得られない、延々同じ過ちを繰り返して、世の終わりを望むほど深く傷ついて苦しんでいる」
ショコラは美しい仕草で十字を切って合掌すると、祈りを捧げた。
「人の力で変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる平穏を、神と人の仕事を見分ける智慧を、お与えください」
アカネマルはそっと顔を寄せて、ショコラの頬を流れる憐れみの涙に口をつけた。仄かに熱い涙は心に深く落ちて波紋を広げた。
「ショコラ、あたしと一緒にきて」
「政治家と一緒の道は行けない」
ショコラがおっとりと拒絶すると、アカネマルは目を閉じて泣くのをこらえた。




