第85話 カンナカムイの翼
ゾーイがカラマーゾフ倶楽部の最後の一人を討ちとった。火を消して本丸へ退却するように、アカネマルが大声で命令を繰り返している。
イズモ神殿の周りには、最初の一匹に続くオロチが次々に寄ってきていた。境内に入り込んでいる個体もいる。八匹を牽制するのは無理がある。軍隊は住民を誘導する以外にできることがない。犠牲者は刻々増えていった。撤退する兵士たちが、レンジにも早く引くように声をかけていく。
混乱する境内でレンジだけが一人佇んで動いていない。焚き火と松明がすばやく消火されて、宵闇の空に瞬く星と、オロチが発する紫の光と眼光だけが際立った。
レンジは太刀を放り捨てた。もう一歩も動けそうにないくらい体が重い。
赤毛を掴んで、自分が切り落としたレッドの首を持ちあげた。人の頭はずっしりと重かった。首の切り口からぽたぽたと血が滴っている。
こんなに痩せて、疲れて、俺の友達は。
「レッド」
声がかすれる。耐えられないほどの渇きに襲われた。首から垂れ続ける血を指に受けて、舌を湿らせた。レッドの血が沁みて涙があふれた。
奇妙な遍歴の末にたどりついたのは、かつて通った道。レッドを殺し、レッドの目に映った自分を殺した。宵の口に星が光り始めた空を見あげてレンジは泣いた。
鳥居を薙ぎ払って破壊したオロチが、じっとレンジを見据えた。
追いつかれた、黒い怪物に。
レンジは生首を手に下げたまま夜空を仰いで大泣きしていた。
もういやだ、だれか助けて。
ギンはその悲壮な光景に肺腑をえぐられる思いがする。退避するのも忘れてレンジを見つめることしかできない。チンチラが大声で、逃げるように声をかけているのが聞こえる。
天地が鳴動を始めた。地面が揺れて地鳴りが響く。宵闇の星空が渦を巻いている。レンジの周りに星の光が集まり始めた。足元からは大地を這う黒い影が伸びる。
なにかが起きている。なにか超自然の圧倒的な現象が起きている。ギンは我に返って明晰を取り戻すと、状況を鑑みた。
星が夜空で渦を巻いて、泣きじゃくるレンジの周りに流れ集まっていく。黒い影は大地を離れて空間を広がり始めている。それは中空で巨大な翼の輪郭を現しつつあった。
「ドラゴンがくる!」ギンは叫んだ。
オロチが翼の影を恐れて逃げ始めている。天地の鳴動はさらに激しくなり時空を揺さぶる。神殿全域が超自然現象に恐慌をきたし始めた。
黒い翼は上空を覆い、爆音と共に強烈な白光が走り始める。ドラゴンの輪郭が現れた。怯えたオロチは狂ったように、逃げ遅れた住民と兵士を踏み潰しながら散り散りに逃げていく。
ギンは戦慄しながら相反する想いに心が乱れた。追い続けたドラゴンが降臨する。もしかしたら、俺を別の世界に連れていってくれるかもしれないドラゴン。しかしレンジとの出会いから始まった旅は終わる。ダルエスサラームはその近郊の都市もろとも滅びてしまう。
時空が裂けて、大地に激震が走る。重力が反転して、火の粉と瓦礫、砂利が空に上がり始めた。
空が落ちる。
「ゾーイ! レンジを呼び戻せ!」
ギンが叫ぶより早くゾーイはレンジを呼びに走っていた。
あれはカンナカムイの翼。呼んでいる、やっぱりだ、わたしをずっと呼んでいたのはレンジだ。
子供のように泣いているレンジの手から首をもぎ取って投げ捨てた。
赤い目の中にいる。焦点が合うと、ゾーイの香りがして、自分の名前を呼ぶ彼女の声が聞こえる。
「レンジ!」
呼びかけに応えようとしたら、唇がふさがれた。
「聞こえるよ、レンジ、わたしを見て」
自分を呼ぶ声、呼んでいる自分の声。押しつけられた胸から心臓の鼓動が伝わってくる。音に寄せられて汗に濡れる胸を触った。ゾーイはレンジのその手をしっかりと強く抑える。レンジの頭を抱えてさらに強くキスをする。
時空の鳴動が止んで、神殿周辺の混乱する人々の騒めきが耳に届き始めた。
「おいおい! お尻まで触ることないだろ! エロいぞ!」
チンチラの声だ。レンジはほとんど無意識にゾーイの胸と尻を揉んでいた。
「ずらかるわよ!」
アカネマルが号令をかけた。オロチは爆弾で吹き飛んでいる外壁付近まで逃げていた。さらに怯えて遠くへ逃げようとしている。
軍と生き残った住民に総動員がかけられて、本丸の水路と門を塞いで、オロチの侵入を防ぐ突貫工事が始まった。
ギンは神殿の境内に最後まで立ち竦んでいた。ゾーイがレンジを呼び戻して荒ぶる時空を鎮めた。夜空は何事もなかったかのように元の静謐を取り戻している。追い求めているドラゴンにここまで迫ったのは初めてだった。




