第70話 四十過ぎの童貞は国を滅ぼす
情勢が動いてもマムルークたちは冷静だった。ランボーの厳命で、不用意な動きや言動にいたるまでが徹底的に統制された。睡眠と食事のスケジュールが決められて、飲酒は禁止された。
定期の会合が毎日おこなわれて、現時点でわかっている政治情勢と街の情報の周知、作戦行動のシミュレーションが話し合われた。いつでも実戦がおこなえるように、厳戒体制に入っている。
レンジたちは事実上、マムルークと一緒にいることで守られていた。ガスコインも外国籍の軍隊には手出しできない。
ダルエスサラームの街は朝も夜も狂騒していて、なにが起きてもおかしくない状況だった。特権階級と金持ちへの襲撃は絶え間なく、暴力と排除は見境がなくなっている。民衆は、経済力や居住地、見かけの出身や職業にあらゆる因縁をつけ合って互いに差別の対象にした。
議会は機能不全を起こし、閣僚たちは沈黙し、亡命の準備を始めた。いつどんな勢力が暴力を駆使して押し寄せてくるかわからない。内部からも壊れ始めた街はいよいよ風雲急を告げる気配で、軍人の出番を予感させた。
戦争状態がレンジを正気の側に揺り戻した。厳しく統制されて緊張した生活が始まると、精神はかえって落ちついた。海辺への出入りもできなくなって、不快な群衆の目を見なくてもすむようになった。西の櫓を出入り禁止になってオロチから離れたことも良い影響を及ぼしている。体も少し軽くなってよく動くようになってきた。
しかし、ショコラを売ろうとする連中のことを考えるといらついてなにも手につかなくなるし、オロチは夢に出てきて心を乱した。
レンジは必死に心をつなぎとめようと足掻きを続けた。
共同スペースではみんな戦備えの格好をしていた。一方レンジは寝巻き姿のまま、隅の窓際に置いた木箱を机がわりに、正座して一心にペンを走らせていた。
例の麻薬を売った金で仕入れた高価な大剣を背負ったゾーイが、「写経終わった?」と声をかけてくる。
混乱で店仕舞いすることになった旧市街の古本屋が投げ売りした『完本 女神マンジャロ様かく語れり』を、彼女はいつのまにか手に入れていた。
読み物を探していたレンジに見つかって、ゾーイはしぶしぶ本を貸すことを許したが、増補分でカンナカムイのカーマスートラとの呼び名も高い性愛の巻は、頑なに貸し出しを拒否した。
ゾーイは本の傍線を引いた箇所を見られるのを恥ずかしがって、早く返せ、と言わんばかりに何度も写経の進捗を聞いていた。
レンジは写経するだけだからと、性愛の巻以外を頼んで借りて、かく語れり、の決まり文句は飛ばして本文をひたすら書き写すことに没頭していた。年増とおぼしいこの女神は、あらゆる事柄に偏見に満ちた箴言を残していた。
「ちょうどよかったゾーイ、これどういう意味?」
レンジがペンで指さした箇所は、「女神マンジャロ様かく語れり『四十過ぎの童貞は国を滅ぼす』」の文言に線が引いてあり、ゾーイの字で、童貞は比喩、未成熟な魂、と書いてある。
「わあ!」と声をあげて顔を赤くしたゾーイがマンジャロ様を持っていってしまった。
「迷惑王子の調子はどうだ?」
手裏剣の手入れをしているチンチラに、ギンが聞いた。
「博士聞いて」と彼女は楽しげに語りだす。
「アーチ橋の途中でこそこそしてるからなにやってるのかと思って声かけたの。それでボクが近づいたらぱってなにか隠したの。う~とかあ~とか言って見せてくれないから、帰るふりして気配消してのぞいたらやっぱりまた絵描いてんの、うける」
「ちょっとは上手くなってたか?」
「ボクびっくりしたよ」チンチラはスミレ色の目をまん丸くして言った、「前より下手になってた」
「馬の足五本描いてた頃よりか?」
「そう、もう絵が下手になる病気か呪いを受けてるのかもしれないよ」
結局、ゾーイに本を没収され、チンチラに笑われて絵もやめてから、レンジの針は正気を通りこして反対側の狂気に振れてしまった。
街中で暴徒が投げている発煙筒に異様な関心を寄せていた。火薬の匂いとともに勢いよく吹きあがる煙と激しく揺らめくピンクの炎を目にすると、興奮と平穏が同時に訪れた。
「発煙筒はどこだ、発煙筒を持ってこい!」と騒いでいる。
レンジは明らかにそのうち体か精神を壊して死にそうな様子だったが、いよいよ情勢が悪化と混乱を呈してきてマムルークたちも臨戦態勢をとっている。レンジにばかりかまってもいられない。
そのうちパトラッシュが「これでもつけとけ」と拾ってきた発煙筒の抜け殻を二本、手拭いでレンジの頭に巻きつけた。寝不足で血走った目で、頭に発煙筒を立てたレンジの風貌は鬼気が迫ったが、本人はそこそこに気に入った様子だった。
その日もギンから、不測の事態を想定した行動を、自分が死んだ場合も含めて指導された。それら想定される危機の管理においてそのすべてが、レンジ、おまえはとりあえずなにもするな、だった。
「何通りも作戦聞かされたけど、結局俺は出禁のままじゃないか! ずっとじゃないか!」
「またうるさくなってきたぞ、こいつ」ギンが身振りでゾーイを呼んだ。
のべついちゃもんをつけ続けてみんなにうるさがられている。
「発煙筒はどこだ! 発煙筒をもってこい!」
ゾーイが後ろからレンジの腰に手を回す。
「ほらレンジ、静かに、ちゃんと話聞いて」
いちいちどうでもいいつっこみを入れたり、話を遮って割り込んでくる躁状態のレンジをゾーイがたしなめた。街もレンジもいつ激発してもおかしくない。




