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カンナカムイの翼  作者: ななじぬぅす
第8章 蛇のカルマ
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第67話 異世界でうつ病を治せ

 季節の変わり目の頃にしてはよく晴れていた。浜風になびく髪をつかまえるのには手間どっても、ゾーイの薄桃色の髪には櫛を入れる必要もなかった。その手足と同じように長く真っすぐに伸びて艶やかで癖がない。


 ショコラは惚れ惚れとその髪の手触りを堪能しながら四本目の三つ編みブレイズを編み終えた。そのアクセントは草食動物の飾り毛のようにも見えて可愛らしい。


「わけのわからないこと叫びながら、櫓の木材壊してオロチに投げつけてたらしいんだ」


 白い砂浜に置いた椅子に座って、編んでもらったブレイズを満足げに手のひらにのせて眺める。髪を結ってくれるショコラに訴えた。


「ショコラお願いね、話聞いてあげるだけでもいいと思う」


「わかったよ。彼、ちょっと目が離せないね」



 椰子の並木の向こうから砂浜にチンチラとレンジが並んで姿をあらわした。チンチラがなにか振り回しながら駆けてくる。


「ゾーイ見てぇ、ちんちんみたいな形した石見つけたよ~」


 沈鬱な難民キャンプをネコマタの美少女が満面の笑みと卑語を振りまきながら走り抜ける。被災者たちの驚きを誘いながら、それらしい石の棒をかかげて走ってくる彼女はいかにも楽しそうだった。簡素な白いシャツからのぞくおなかと、根元まで見えそうな生足からまぶしい健康の光を放っている。


「ほんとだ、どうしたのこれ?」


 ゾーイが聞くとチンチラは、「そこの祠に飾ってあった」と椰子の並木の小道にある小さな祠を指した。二人はその見事な彫刻を愛でて大笑いしている。


「コンセイ様じゃないの、それ武器じゃないよチンチラ」ショコラも笑っている。


 それは古い民間信仰のひとつで、男根の形をした石に豊穣の祈りを込めたものだった。


 遅れてやってきたレンジがゾーイのライオンヘアに目をとめる。


「なんていうの、髪の毛編んだみたいなそれ、似合うよ、かっこいい」


 そう言って微笑みかけた。いつもならレンジが笑みを向けるとゾーイは必ず笑みで答えてくれるのに、今日は戸惑ったような表情を浮かべている。


 微妙な雰囲気を醸すレンジをチンチラが尻で跳ね飛ばすと、フラついて「なにすんだよ猫」と面白みのない反応。


「暗い!」チンチラが一言で切り捨てて、

「どうしたおい、元気出せよぅ!」と頭をこすりつけて詰め寄る。


 ゾーイがチンチラをうながして、魚の干物を並べにいった。


 レンジはショコラに力なく笑いかけて、鍋やるね、と目を伏せた。



 年季の入った日焼けの肌に白い歯が眩しい、いつも炊き出しを手伝ってくれる地元漁師のじいさんが、巨大鍋にシイラの切り身を放り込んでくれた。


「じっちゃん、今日も鼻毛が出てるよ」と話しかけると、

「消極的な奴に魚は捕れねぇ。出てるんじゃねぇ、出してんだよ」と陽気に笑う。


 元気だして回せ、とレンジの背中を叩いてどこかへ去った。


 レディオヘッドのCreepを歌いながら、元々は小舟の櫂だった木で巨大鍋をかき回す。気が滅入るようなしみったれた歌声が渚に響いた。


「レンジ、なによその歌」ショコラは堪らず料理場のテントへレンジを呼んだ。「やめなさい、こっちおいで」


 手伝いの被災難民の一人に鍋を任せて、のろのろとやってきたレンジはショコラの横に佇むと、

「俺、団子作りたい」と訴えた。


 ショコラは無言でいつもの石臼と棒をわたす。


 レンジはチンチラが放っていったコンセイ様を手にとってしばらく眺めてから、おもむろにそれで香辛料の実をすり潰そうとした。


 ショコラが「罰当たりなことしない」と云ってコンセイ様を取りあげる。


「ギン博士は? しばらく見ないけど」


「いつになったらドラゴンの研究に没頭できるんだ俺は、とか言いながらアカネマル・元カノ・キントキ閣下とデートしてるよ」


「怒られたからって、いやな言い方するんじゃないの」


「霊能士の浄霊を受けろって、なんだよそれいったい。それでこの戦争が終わったらマムルークかボブマーリーさんとこに修行にだすっていうんだよ、手に負えない、いい加減にしろだって。最後まで面倒みてくれよ」


「ギン博士たちと一緒にいたいんだね」


 レンジは不満げに鼻を鳴らして、ぐりぐりと香辛料をすり潰す。ゾーイの話どおり、ずいぶん落ち込んでいるというか、やさぐれている様子だった。


「ミューズを追い出されたのもおまえのせいだとか言われた」


「どうして?」


「友達が有名なテロリストだったんだ。そんな奴には見えなかったけどなぁ…………いやそんな感じだったかな、言われてみれば」


 覇気がない、血の巡りも鈍っていそう。レンジの若さでは本来起こるはずのない失調が起きているのがわかる。


「ゾーイが、君が病気かもしれないって心配してるよ、どうしたらいいかなって、優しい子」


「……なんて答えたの」


 ショコラは答えずに続ける、

「彼女の表現だと、ときどき君の心が灰色の砂漠みたいに乾いて、感情と表情が波打たなくなって」


「乾いて、波打たない……」


「声が届かなくなるって」


 砂浜に並べた天日干しの台に、被災難民達と一緒に魚を並べているゾーイの容姿は際立っていた。


「呼んでも呼んでも、内側に収縮して遠ざかる感じだって」


 あの暗い渦巻銀河、あんな暗くて不快で重い渦巻きをゾーイが感じている? すまない気持ちでレンジはへこむ。


「元気だぜ~俺はいつだって~」力なく虚しい口調で言った。


「そのままだと悪霊を呼び寄せてしまう。戦闘の陶酔や一時凌ぎの依存や酩酊では逃げきれない」


 ショコラの言葉にレンジは急に手を止めて、石の棒と臼を置いた。目を閉じて、深く震えるため息をつく。


 わかっている、そんなことは。あの暗い渦巻、なにをやっても消えない、必死になってなんでもやったのに。


 胸の内の黒い怪物、異世界まで追いかけてくる。


 ショコラが額の汗をぬぐってくれた。いつのまにか全身が脂汗と冷汗で濡れている。


「ショコラ、どうしたらいい」


 吐く息がさらに震える。


「もう、治らないのかな」


 レンジは涙声でつぶやいた。


 ショコラがそっと肩を抱いてくれた。

「別の世界に来て人の縁や環境が変わっても、君の心は同じ輪廻を巡ってる。だから、同じ人生を繰り返す」


 ショコラは、震えるレンジが落ちつくのをじっと待った。目を閉じて、風と波の音に集中して、ゆっくり呼吸するようにレンジをうながして、語り始める。


「深い海の底にはマリンスノウっていう雪が積もるんだって、海の生き物が生きた痕跡」


「マリンスノウ……ラッコのうんことかサメの死骸とか?」


「まあね」


 綺麗なイメージで説教をしようと思ったのに、レンジの想像力は貧弱だった。


「浅い海で見たこと聞いたこと、言葉も想いも、起こったことの全てが雪になって海の底に積もる。その深海の風景が、レンジの世界、心だよ」


 レンジは見るともなく海を眺める。この季節の海は青が濃い。今日は空気が澄んでいて対岸のザンジバル島までくっきりと見える。


「人の心の底の底の深海世界は、ナーランダの学者の研究ではアラヤシキって名付けられてる。そこには空鯨も泳いでるって、よくわからないけど。レンジ好きでしょ、空鯨」


「好き、なんか不思議だから」


「深海の雪景色が変わらなければ、君の暗くて重い業の渦巻きからは自由になれない」


 ショコラはその深い青い目でレンジを見つめる、そして心を覗く。


「異世界に転生しても、自由になれない」


 ショコラの言葉を受けて、レンジはカンナビの空と海の青に押し潰されるような幻想を感じた。


「深い海の底に雪が降るには千年かかる、景色が変わるには万年かかる」


 レンジは海を見つめたまま、ずいぶん長い間ショコラの話を吟味した。その間、無意識に持ちあげた石の臼と棒が早く回ったり遅く回ったりして心の逡巡や葛藤が見てとれた。香辛料は素晴らしい勢いで出来上がっていく。


 ショコラはその横顔を覗きこむ。少年にも青年にも見える、必死に考えている表情は可憐にも見える。突然振り向いたレンジが言った。


「で、具体的に俺っちはどうしたらいいの?」


「え? どうしよう、かな……おれっち」


「ゾーイにはなんて答えたのさ?」


 もどかしげに、図々しくも切れ気味にレンジが問いただす。


 彼氏に美味しいものでも食べさせてから金玉を握って余計なことを考えさせるな、そのうち治るから、多分、と伝えてセックスのやり方を教えた。と言える雰囲気ではない。


 ショコラは虚空に目を泳がせた。


 レンジは期待を込めてショコラの滑らかに光る黒い肌、神秘の青い瞳をうかがう。天から言葉を降ろす女神の風情に見えたが、実際はこの場をとり繕う適当な言葉を探しているだけだった。


「言葉で君の頭に理解させることはできるよ、でも体験しないと悟りにはならないから、ね」


 ね、ってなんだよ。レンジは、極めて不満、の表情で聖職者へ疑念の一瞥を投げてからカンナビの東海岸に目を戻す。「千年、万年……」とつぶやいている。


「レンジ?」ショコラが心配げに声をかける「よぉよぉ」


「千年なんておっさんになっちゃうよ! 俺は今日明日にでも元気になりたいんだ!」


 突然叫びだした。レンジは血走った目でコンセイ様を握りしめると、苦笑いするショコラに詰め寄った。


「あの二人みたいに、こんなくだらない棒ひとつで大笑いしながら毎日過ごしたいんだよ!」


「だからやめなさいって、それもつの」


 説教は失敗に終わったらしい。


「千年とは言わないけど、近道はないの。安易で楽な方は堕落するって言ったでしょ」


「じゃあ遠回りでもいいから、もういい加減俺を弟子にしたらどうよ! どうすれば治るんだよぉ!」


 レンジが叫ぶと周りの難民たちがあきれて笑っている。


「うるさいなぁ、もう」


「うるさいってなんだよ!」


 ショコラはちょっと思案してから、自分の胸を袈裟のうえから両手で鷲掴みにして、寄せたり上げたりして谷間を盛りあげた。さらにブレイズヘアをもって鬣風に広げながら言った。


「自分の行いと言葉が世界に波紋を広げるから、いつもお洒落して汚い言葉を使わない。自分も楽しく生きていくために、周りの人が気分良く過ごせるように丁寧に丁寧に気を配る。カンナカムイではみんなそうしてる、あたりまえすぎて疑問に思ったこともないっちゃ。身体はいつだって健康になろうとするし、人は必ず幸せになろうとするからレンジだって大丈夫、心配いらない、よね?」


 ショコラが手を離すとぱたぱたと長いブレイズが元に戻る。


「さっきゾーイがそう言ってたよ」


「似てないけど可愛いです」


「おいこら」


 ショコラは胸の位置を軽く揉んでなおしてから、コンセイ様を取りあげてレンジの胸に突きつけて言った。


「君の患いは喪神の病」


「また難しいこと言ってるっちゃ!」


 わめくレンジを無視して辛抱強くショコラは続ける。


「なにをやってもだめだ、無駄だって、太陽の下で起こることのすべてが虚しくて風を追うようなことだって。そう思ってしまう時点で、君はまだ見つけていないし、選ばれてもいない」


「誰に?」


「ゾーイに」


「あぁ!」レンジは頭を抱えて嘆いた、「やっぱり、変な人に思われてるの俺? ゾーイがそう言ってた? くっそ、もう嫌だ、なにもかも虚しい」


「そういう話じゃないの、しっかりあの娘に目を合わせなさいって言ってるの」


「さっぱりわかりません師匠」


「アカネマルも言ってたけど、君ほんと生意気だよね。わたしこう見えて実はけっこう偉いんだよ」


「知りませんね」


 異世界育ちのレンジに権威は通じない。


「呼び合ってるのに目線が合ってないのよ」


「たしかに体とか……」レンジは素直に白状した、「見ちゃうけど……」


「なにも見えてない」


「なんでさ?」


「オロチばっかり見てるから」


「あいつが俺を見るんだよ」


「君が見るからだよ」


「そんなばかな!」


「そういうもんよ」


 ショコラはコンセイ様をかついで言った。


「どのみちその病は一人で治すことはできない」


 さらにコンセイ様で自分の肩を叩きながらレンジに静かな目を向けた。


「なってみる? 弟子」


「よろしくお願いします、師匠」


 レンジは頭をさげて素早く弟子入りを試みた。


 ショコラはコンセイ様の先をまたレンジの胸にのせて言った。


「始めから、今も、終わりの時まで、世界は完璧で欠けているのはあなたの心」


 彼女の言葉遣いが変わった、言葉がでてくる場所が変わったのか。


「さしあたって二つ、生涯守ってもらうよ」


 一生? レンジはすでにびびり始めていた。


「不殺を誓いなさい」


「なんで?」


「殺人と希望は矛盾するから」


「もう戦争に参加しちゃったけど」


「二度と参加しちゃだめ」


「戦争はそこでやってるし、俺のこと殺そうとする奴もいたよ。そんな奴またいたらどうするの?」


「君は自分をなんだと思ってるの?」ショコラは静かにレンジを見つめたままだ。


「人が死ぬのも、国が滅びるのも、大地が裂けて海が干あがるのも、太陽が東から登らなくなることだって、この宇宙ではよくあること。なにもできはしない、人間は人間でしかない」


「どういう話? よく、わからない……」


「二つ目」レンジの戸惑いも無視してショコラは続ける。


「世界にも人にも自分にも、賢しらに条件をつけるのをやめなさい。君が小賢しく条件を並べ立てるほど、愛から遠ざかることになる」


 レンジはまたなにか喋ろうとして、ショコラの瞳に押されて沈黙した。


「この地上に正しい人はいない、一人もいない、みんなだめなのよ。わたしたちには、信じることのほかに、できることはなにもない」


 レンジの胸に当てたままのコンセイ様をまた自分の肩にかついで言った。


「いい? 殺すな、条件をつけるな。わかった?」


 わかるわけはないけど、この感じ、レッドにも感じた。深淵を垣間見るような怖さと魅力。


「わたしとくるなら、天に生きることになる」


「天?」


「好みの言葉でいいよ、あなたの心の場所。あの世でも、彼岸でも」ショコラはゆっくりとレンジの頬に手を伸ばす。


「異世界でも」


 レンジは気がついたら一歩後ろに下がっていた、ショコラの言葉の迫力に怖気付いて。


 ショコラが耳元に顔を寄せて「覚悟が決まったらおいで」とささやいた。離れる時に、片目をつぶって微笑んだ。

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