第65話 魂を下向きに襲う力
マムルークたちは、なんとなく仲のいい者同士が適当に集まってそれぞれにくつろいで時間をやりすごしていた。広い共同スペースには簡素なテーブルと椅子、炊事場には茶などが置かれている。部屋の真ん中に唯一設置されている二対のソファは、誰よりも大きい態度であたりまえのようにリラックスし続けた結果、いつのまにかチンチラとゾーイが自然に占有するものとなっていた。
ゾーイはレンジを心配しすぎたのか彼の気分がうつってしまったのか、今日はお腹の調子が悪くなってしまって、ヌーの毛皮を被ってずっと横になっていた。彼女の長い足とソファの端に挟まれるようにして、ギンが携帯砥石で小刀を研いでいる。
八匹のオロチになすすべもない籠城の日々が続いて、空いた時間が増えている。暇を持て余している三人に、いつも活発な男パトラッシュが扉を開けるなり「レンジいるか?」と声をかけながら入ってくる。稽古の相手を探している様子だった。
「櫓、また怖い顔して外のオロチ眺めに行ったよ」チンチラが尻尾に櫛を入れながら答える。
「あぁ、やっぱりそっちか。最近いついってもいるよな、あいつ」
巨漢のパトラッシュがソファに腰をおろすと、反動で跳ね上げられたチンチラの胸が白いシャツの下で揺れる。
炊事場にいたランボーがきて、ハーブを浮かべた白湯をゾーイに手渡しながら誰にともなく聞いた。
「レンジ……大丈夫なのか?」彼の気が乱れているのはランボーも感じていた。「神経毒魔法受けた後遺症って考えられないかな?」
「中毒症状は出てるかもしれない。元々不安定ではあったんだ」ギンが小刀を皮の鞘にしまいながら言う。「アレクサンドリアでは自分でなんとかしようとはしてた」
「レンジって」パトラッシュは好ましそうな様子で語る、「能力もだけど、性格がちょっと不思議な印象だよな。なんか話してるとさ、普通はみんな仕草とか話し振りで、生まれ育ちとか感じるけど、あいつはなんていうんだろ、どこから来たのかなって思う時がある。確かに最近は調子悪そうだけどな、会ったことないタイプではある、もちろん嫌いじゃないぜ」
ランボーが「なんでも興味持っていろいろ聞いてくるけど、自分の話になるとすぐに切りあげようとするね」と言うと、
「そう!」
ゾーイとチンチラが同時に顔をあげて勢いよく賛意を示した。
パトラッシュが、「出身聞いたら、異世界から来たとかもごもご言ってたけどなんだよあれ?」と聞くと、
「それ、ほんとみたいなんだ」
チンチラが言って、ギンも頷いた。
「カンナビ……この世とあの世の境の人外魔境って言われるだけあるな」
パトラッシュは興味深そうに納得する。
扉が開いてレンジが戻ってきた。ギンの真似をしていつも持ち歩いている手拭いで吹き出した汗を拭いながら。暑くもないのに一人だけ汗をかいている。
部屋の真ん中にみんながたむろしているのを見ると、足を止めて佇んだ。注目を受けて恥ずかしそうな様子で、目を泳がせながら誰にともなく言った。
「橋のうえにタツノオトシゴが落ちてたよ、なんでかな……」
あまりにも興味の湧かないつまらない話題を振られて、みんなのあいだに軽い驚きとさらなる沈黙がおりる。
「海鳥が落っことしたのかもね、うん」
一人で納得している。そのけったいな様子を痛々しく思ったゾーイが、
「レンジ、ここ座って、お茶飲もう」と声をかけて足をおろして場所を空けた。
レンジは取り繕うように笑うと「櫓に行ってくる」と目を伏せて踵を返した。いま櫓から戻ってきたのに。
みんなのあいだにはなんとも言えない印象が残る。
「自分の気分で人に気を遣わせたくないんだよ、そういうところは買えるけどな」
ため息混じりにギンが言う。曇った表情の隣のゾーイをうかがう。こんな素晴らしい娘が好意を寄せてくれているのに、その顔を曇らせるなんて、あいつも大概だと思いもする。
ギンはゾーイの肩をそっと抱いてあげる。
「蛇にとり憑かれちゃったかな」
レンジが去った扉を見ていたチンチラが振り返って言った。
またゾーイに気を使わせてしまった。怪訝な表情を浮かべた彼女に申し訳ない気持ちがつのる。みんなのことは好きなのに、妙に居心地が悪くなって、また人の輪から逃げだしてしまった。自然に話したり笑ったりするやり方を忘れてしまったみたいだ。
レンジは長大な陸橋を無意味に往復して櫓に戻った。それだけで半日が費やされてしまった。
なんだかそわそわしてあせる。なにかやることがたくさんあるような気がしているが、特になにもない。なにもしていないのに疲れ果てている。
また見てるよあの野郎。
レンジが欄干から下を覗き込むとすでにこっちを見ていた。刀状の武器をを引っさげた特大の一匹。他のオロチがうろうろと徘徊を続けているのに、そいつだけはじっと動きを止めてひたすらレンジを見ている。
黒々とした蛇の胴体、灰色の蛇腹を経て人間の上半身、太古の暗黒を宿した赤紫に光る目。凶悪な爪が生えている手には武器まで持っている。アルーシャのやつは槍を持っていたが、八匹の得物は斧もあれば尖った瘤付きの棍棒もあってそれぞれだった。
人間の顔をしているのに意思が通じる気配がない。近づくだけで毒にあてられて死ぬ、勝ち目の見えない強大な敵。
なんで俺にはおまえなんだよ、おまえなんか大嫌いだ。陰気で暗くて俺の悪い感情を喚起する。
ただでさえ不調の極みで心身が疲弊しきっているのに、蛇の化け物のつきまとい行為まで受けている。
もう勘弁してくれ、なんの罰だこれは。
心身が果てしなく消耗していく、渦巻銀河の重力の底に落ちていく。
俺はまた動けなくなるのか?
なすすべがない。無力感にさいなまれてレンジはさめざめと涙を流した。
年配の高官らしい女性がその様子を心配してレンジの肩にそっと手を置こうとして覗き込んで、すぐに身を離した。なにか悲しいことでもあって泣いているのかと思ったら、泣いてはいるがその青年は不穏なことをぶつぶつとつぶやきながら凄い表情で睨みつけてきた。
さわるな、誰にもわかりはしない。
魂を下向きに襲う力、心と体を鈍らせる暗い力、俺をひとりにしようとする力。理解できない理不尽な力に抗して湧きあがるその感情は怒りだ。
俺を抑え込むな、殺すぞ。
不気味な蠢きを続けていた黒い怪物が八匹、同時に動きを止めて見上げた。せりだした櫓から外を見ていた高官たちが、オロチの挙動に動揺した声をあげて手すりから離れる。八匹のオロチが櫓の突端にいるレンジを見つめていた。
その不気味な挙動がレンジの逆鱗に触れる。
「なに見てんだこのヘビ野郎! 喰い殺すぞ!」
櫓にいた人々は会話を止めて、驚いてレンジに目を向ける。そして急に泣き出したり叫んだりする人に対する常識的な態度、すなわち見ないふりを決め込んだ。
「いい加減にしろてめぇ! こっち見るな!」
レンジは怒鳴りながら欄干にがんがんと膝蹴りを入れ始めた。鈍い音をたてて手摺りが砕け散る。飢餓状態のゴリラがバナナを引ったくるように、うが、うが、うが、と叫びながらその木材を次々とへし折ってねじり切ってはオロチに向けて投げ始めた。
「勝負してやる! 勝負しろ! やるぞ、殺ってやるぞおらぁ!」
遂には太刀を抜いて振り回しながら遥か下界のオロチを威嚇し始めるにいたると、櫓にいた軍属と兵士たちに取り押さえられて拘束された。




