第59話 君の新しい物語
遥かな古代にザンジバル島に入植した人類が、魔獣や神獣との伝説的な戦いの末に橋頭堡を築いたのがダルエスサラームの地だった。それから一万年以上の時間をかけて西の大地溝帯へ、北のサバンナ、南のジャングルへと進出していった歴史がある。
広大な街の構造は三層に分けられる。おおまかに東の海から内陸側に向けて三重の城壁で仕切られている。三ノ丸と二ノ丸にはザンベジ川から運河が引かれて物流の便が図られている。人口の丘に作られた本丸地域には庁舎と壮麗な宮殿が立ち並び、その東にはカンナビ最大規模の港湾を見下ろすことができる。どちらかといえば海に開いた街だった。
戒厳令下で戦時の喧騒に侵されているとはいえ、音に聞こえた街の優美と洗練の伝統は感じることができる。住民に大事に愛でられてきた古い街並みがその愛情に応えるように、しっとりとした落ちつきと優しげな空気を醸していて、レンジの心は落ちついた。平時に観光できたらきっと素晴らしい。
街の北東、貿易の物資を一時保管する煉瓦の蔵が立ち並ぶ地域が、ザンジバル島の被災者を収容するキャンプになっている。地区はすでにスラム化が進んでいた。自警団と軍隊が警備を行なっていて、地区への夜間の出入りは禁止されていた。
港で人に聞くと、ショコラの居場所はすぐにわかった。彼女は有名人で、難民達にはもちろん、ダルエスサラーム住民や港湾での作業に従事する人々にも慕われて敬意を受けていた。
そろそろ気温もずいぶん下がって朝夕が冷える季節になっている。北の砂浜の所々に焚き火が焚かれている。テントの合間に広場の集会所のようになっている一角にショコラはいた。
「ショコラぁ!」
チンチラが大声で彼女を呼んで駆け寄っていく。
ショコラはブレイズヘアを揺らして立ちあがる。白い袈裟のうえに羽織った青い衣が海風にはためいている。そのいっぱいに広げた両腕にチンチラが飛びついた。
レンジも駆け寄って再開を喜びあった。
「レンジじゃないの! たくましくなったね」
「ショコラ、元気そうでよかった、彼女はゾーイ」ショコラにゾーイを紹介する。「カンナカムイの民で一緒にギン博士のところにいる。留学生みたいなもんかな」
「カンナカムイの女の子!?」
ショコラが目を丸くする。どこでも一目置かれるゾーイだった。
チンチラの頭を抱えながらショコラは笑顔でゾーイに話しかける。
「ゾーイ、よろしく」
ショコラは被災者向けの病院の運営と炊き出しの仕事を中心に行なっていた。行政とのパイプ役にもなっている様子だった。
「アカネマルがなにかと援助してくれて助かってはいるんだけど、戦争が始まって被災者の救助は後回しになってる」
難民キャンプには停滞感と無力感が漂っていた。テントの布が海風にはためく音が物寂しい印象を与える。
「ショコラ、なにか手伝うよ」
ゾーイは一目で彼女を気に入ったみたいだ。
「ありがとう。そろそろ炊き出しの時間、早いんだけど暗くなる前に配っちゃわないと」
レンジはショコラと並んで、スープと一緒に配るための団子を作る作業に従事した。トウモロコシを挽いた粉を水と塩で練る。一生懸命やってはいるが、レンジの作る団子の形は不揃いだった。
「出陣前にアカネマルと食事してね、君のこと話したよ」
「なんて?」
「不思議な出自の子だって」
ゾーイとチンチラは、巨大なドラム缶のような器で煮られている魚介と野菜のスープに、どぼんとチキンを放り込んでから二人がかりでかき混ぜている。二人の話し声、笑い声は難民キャンプの沈鬱な雰囲気にのまれることはなかった。
レンジは自分で練った大きさが違う団子を二つ並べて眺めた。大きい団子を削ってそれを小さい団子に分けて大きさを合わせようとしたら、団子が崩れてばらばらになってしまった。結局一つに練り直してそれを真ん中から半分に分けたら、また大きいのと小さいのができた。
見かねたショコラは彼に石のすり鉢と棒を与えて、ひたすら木の実をすり潰して香辛料を作る作業に従事させた。
しばらく作業に没頭する。ごりごりと石の棒を回しながらレンジは告白した。
「転生したんだ、別の世界から。その世界で俺は病気になってたらしいんだ。それまでできてたことがなにもできなくなって、体もうまく動かなくて、頭も回らなくて、悪いものばかり見えて、悲しくて死にたくなった……」
言えた、病気のことは誰にも言えなかったのに。不思議だ、この人の前ではなにも隠せない。
「もう元気にはなったの?」
ショコラは転生うんぬんには興味は示さず、レンジの泣き言にも取り合わなかった。
「いまは……多分」
「それなら」ショコラはレンジのすり鉢に新たなハーブを放り込んで言った。
「自分の問題は忘れて人と世界と関係を結びなさい。そうすれば君の新しい物語が始まる」
「……どうしたら、関係を結べるのかな」
ショコラは青い目を見開いて、このバカはなにを言っているのか、そんなあたりまえのことも知らないのか、という驚きの表情でレンジを見た。
「好きな人や困った人に手を差し伸べればいいじゃない、そのための元気でしょ」
「俺、親しい人と初対面でも笑顔で挨拶してくれる人はまあ好きだけど、それ以外の人類はみんな嫌い」
不服を並べるレンジにショコラは笑って答える。
「じゃあ、好きな景色でも動物でも植物でも海でも山でもなんでもいいよ。君の両腕の届く範囲の好ましい世界が明日も生き残れるように、手を差し伸べなさい。元気で余裕があったらでいいから」
レンジは唸りながら一層激しく石の棒を回した。広がる華やかな香りとは裏腹に彼の表情はだんだんと険しくなっていく。
ショコラはそんなレンジを横目で見ながら、好ましく思う。この子はちょっと心配になるぐらい真剣に、どう生きるか、考えている。答えがでなくていらいらしている。
「精霊に満たされないときってあるよ、誰にでも」とショコラは言った。
チンチラが歌うビートルズの珍曲、イエローサブマリンが海辺に響いている。レンジが教えた現世の歌をチンチラはいたく気に入って、最近よく口ずさんでいた。ゾーイと一緒にサビを怪しい英語で何度も繰り返しながら、大きな木べらで巨大鍋をかき回していた。
異世界で聴く現世の歌はレンジの現実感を揺する。カンナビの海の青は相変わらず澄んでいて、季節の風は少し強く肌寒い。いつもは心を落ちつける波と風の音が、いまは心を揺らす。
「俺はどこから来て、どこへ行くんだろう?」
海の広さと大きさが、いまは心細い。
「マンジャロ様かく語れり」
「うお! ショコラもか!?」
「『起こったことはすべて良いこと』」
「あ、それボブマーリーさんも言ってたよ」
「君も毎日唱えなさい、わたしは未来に実現するいまよりもさらに素敵な世界を信じてる」
にっこり微笑んだショコラの頬に団子の白い粉が付いている。こんなに気さくな人なのに、この人といるとなにか深くて大きなものとつながるような厳粛な気分になる。
「ショコラ、俺を弟子にしてくれない?」
「だめよ」
「なんでさ!?」
彼女の即答にレンジは本気でがっかりした。
「信じられたら元気になれるよ、でも信じようと思って信じられるものじゃない、信じるふりもできない、自分に嘘はつけない、わかってるでしょ。楽をしようと思わないで、堕落すると必ず罰が下る」
レンジは不満そうに眉間に皺を寄せながら、また石の棒をぐりぐりと回し始めた。
ショコラは海の方へ目をやってふっと笑みを洩らす。さっきからゾーイが歌いながらも、ちらちらと目をやって二人を監視している。
「なに笑ってるの?」
レンジには答えずに、目が合ったゾーイにキスを投げた。
「ゾーイみたいな女の子が君に惹かれるってことは、まだあるのよ」
「なにが?」
「希望が」
「どういうこと?」
ショコラの言葉は飛躍していてよくわからないことがある、厳しく感じることもある、立ち止まって考え込んでしまう。この人はどんな道を歩んでいるんだろう。
「暗い男がモテるわけないじゃない」
「は?」
「お似合いだね、二人は。呼び合ってる、ちょっと妬けるよ」
その時、後ろから影が差して景色が大きく滑るように動いた。白い砂浜いっぱいを煽るように三角の尾鰭が揺れる。空鯨が泳いだ。
「来たぁ! 鯨ぁ!」
すり鉢を放りだしたレンジが、歓声をあげながら空鯨を追って砂浜に駆けだした。ゾーイとチンチラも笑いながら一緒に追いかけていく。
鯨の影はゆらゆらと波打ち際をしばらく泳いで、やがて青い海へ入って見えなくなった。




