旅人
私が彼と出会ったのは、十年程前の事だった。僅かな時間会話しただけの彼との記憶は、不思議な程、色褪せることなく脳裏に焼き付いている。
あの時の私は、親に叱られて家を飛び出したはいいが、行く当てがある訳でも無く、それでもただ家から離れたい一心で歩いていた。さして広くもない村ではあるが、一人で村の外に出るのは恐ろしかったし、ふらふらとする内に、村の中心にある行き慣れた市場に辿り着いていた。
市場の入り口に積まれた木箱に腰かけ、脚をぶらぶらとさせていると、不思議な人物が目に留まった。
とは言え、その人が胡乱な人物であったとか、奇行に及んでいたとか、そういった意味では無い。旅人だと一目で分かる身なりに、この土地では比較的珍しい色彩の人だった、という事だ。
この地方は冬が長く、年の半分は雪が残っているような土地だ。私を含め、住人達の多くは肌が白く、髪や瞳の色も薄い。その代わりと言ってはなんだが、凝った色の服や小物を好む傾向がある。だから、浅黒い肌に真黒な髪、実用一辺倒に見える質素な旅装のその人が、却って目についたのだろう。
その旅人は、私と目が合うと少しだけ驚いた顔をして、直ぐに目を逸らした。それは拒絶、と言うより、どこか困ったような、悲しそうな、懐かしい誰かに出会ったような、何とも複雑な表情に見え、子供心にも胸を衝かれるものがあった。
何とはなしに、市場の奥に進んでいく旅人の後ろ姿を見詰めていると、彼はある屋台の前で立ち止まった。そこは、飾り紐や綺麗な石なんかで作られた細工物を売っている屋台で、旅行者がちょっとした土産を選ぶには丁度いい店だ。私は、真剣な顔で商品を選ぶ彼の背後に忍び寄った。
彼は色違いの飾り釦を三つ手に取り、店主に声を掛けた。
「これとこれ、それと、これをくれ」
「有難うございます。一点百セキです。三点お買い上げなので、ちょいとおまけして、二百七十セキでようございますよ」
礼を言い、財布から金を出そうとする旅人の背後から、私は声を掛けた。
「あれ、高いよ? 何時もなら三つで二百四十セキでしょ?」
驚いた顔で振り返る旅人と、此方を「しっ!」と言って睨む店主に、私は、「おじさん、間違えちゃったのね」と、努めて子供らしさを繕い乍ら言った。
ばつが悪そうな店主に、旅人は二百四十セキを渡し商品を受け取ると、更に三十セキを財布から出した。
「これで、茶菓子でも食べてくれ」
旅人は店主の手にそれを握らせ、「行こう」と私を促した。
私と旅人は暫く無言で市場の奥へ進んだ。甘い乳茶を売っている茶屋の露店が見えて来ると、彼は私に聞いて来た。
「あのお茶は、幾らが相場か知ってるかい?」
「一杯三十五セキよ」
そうか、と呟いて、彼は露店で熱い乳茶を二杯買った。促されるまま、茶屋の隅に積まれた椅子代わりの木箱に座ると、彼は私の隣に腰かけ、乳茶の片方を差し出してきた。
乳茶を受け取り、私は彼を横目でそっと観察した。歳は、私の父さんと同じくらいか、少し上だろうか。一文字の眉や口元は少し怖そうに見えるが、思いの外優しそうな真黒な瞳が、魔術使いの爺さんが飼っている犬を連想させた。
穏やかな犬の様な旅人は、静かに口を開いた。
「助かった。でも、あんな事をしたらいけない」
あんな事? 首を傾げ椀を受け取った私に、旅人は少し考えてから口を開いた。
「あの屋台の店主と君は、顔見知りなんだろう? 店主の稼ぐ機会を奪ったと思われたら、後で困ったことになるかもしれない」
彼の言葉に納得いかない私は、頬を膨らませた。
「私、間違ってないでしょ」
彼は、また少し考えて言った。
「間違っていない。でも、正しいことが全てじゃない、こともある」
私はがっかりした。甘い乳茶が、途端に苦く感じられた。
「……おじさんも、母さんと同じだね」
今度は彼が首を傾げた。
「君の母さんと?」
私は頷いた。
旅人は、ただ黙って、手の中の茶碗から昇る湯気を見ている。沈黙に耐えられなくなったのは、私の方が先だった。
「あんたは理屈ばかりだって。弟がお水を零したのを、私が片さないって文句を言うから、私がやったんじゃないでしょ、って言うでしょ? そしたら『そんな事が重要なんじゃない、あんたが片づけを手伝わないってことを言ってるの』って、怒るの。弟はまだ小さいでしょ、って。弟は怒られないのに、間違ったこと言ってない私が怒られるの。
私は弟と同じ位の歳には手伝いしてたって言ったら、『手伝うのなんて、当たり前でしょ』って。そう弟に言えばいいじゃないって言ったら、『本当にあんたは理屈ばっかり』って怒鳴るの。母さんは、父さんや弟には何も言わないのに、私にばかり怒るの……」
家を飛び出してきた原因を思い出し、口惜しく、歯痒く、腹立たしく、何とも惨めな気分に沈み込む。そのまま暫く、どろどろとした嫌な気分に迷い込んだ私は、旅人の存在を思い出し、気まずい思いで彼の表情を横目で伺った。彼もまた、真剣な顔で手の中の茶碗を見詰め、私以上に自分の心に迷い込んでいるようだった。
茶碗の中の茶が少し温くなってから、彼はようやっと口を開いた。
「君は間違ってない。俺にも、君の母さんは理不尽なように思える。でも、もしかしたら、君の母さんは違う事を言いたかったのかもしれない。君は兄弟姉妹の中で、一番年上か?」
「うん。違う事って、何?」
彼は、温んでしまった乳茶を一口飲んだ。
「俺は、君の母さんがどんな人か知らない。だから本当の処は分らない。でも、小さい子供の世話が大変だってことは俺も知ってる。片時も目を離すわけにはいかない。目を離せないから、他のやらなくちゃいけない事がどんどん溜まる。そういう時は、何一つ上手くいかないんだ。
屹度、君の母さんは、君に怒ったんじゃない。どうにも出来ない状況と、上手く出来ない自分に腹を立てているんじゃないだろうか。それで、君に助けを求めたんだ。君なら助けてくれると思っているから」
私は驚いた。子供の私に、大人が助けを求めたなんて信じられなかった。大人は、なんでも出来て、なんでも知ってるものなのだと思っていた。
「大人なのに? それって、おかしくない?」
と問う私に、彼は真剣な顔で問い返してきた。
「大人が助けを求めたら、おかしいのかい?」
旅人の静かな声は、にぎやかな市場の音に掻き消えることなく私の耳に届いた。
私の表情をどう捉えたのか、彼はふっと口元を緩めた。
「済まないな。大人は、子供が思うほど大人じゃない。少なくとも、俺はそうだ」
「おじさんも、助けて欲しいって思ったことあるの?」
旅人は少し考えて、曖昧に首を振った。
「助けて欲しいて言ってくれたら、とは何度も思ったよ」
旅人の何とも言えない表情は、私を動揺させた。どうしていいか分からなかった。
唐突に、この旅人は独りぼっちなのかもしれない、と思った。彼が助けたいと思った相手は、彼の傍に居ないのだろうか。
暫く無言のまま、私も旅人も手の中の茶碗を見詰めていた。
唐突に、彼が言った。
「寒くないのかい?」
ぼんやりとしていた私は、突然引き戻された現実に顔を顰めた。確かに私は厚着ではなかったが、外気はまだ寒さを感じる程でも無かった。
「おじさんは寒がり? それとも、もしかして、もう帰れって言いたいの? 家に帰ったって、どうせまた母さんに、何処に行ってたんだって怒られるのに。
私、悪いことしてないのに謝りたくない。もし、おじさんの言う通り、母さんが助けを求めてるんだとしたら、ちゃんとそう言うべきで、私を怒る理由にはならないわ。なのに、謝って、手伝いして、それって私ばっかり大変じゃない」
旅人は目を見開き、私の顔をまじまじと見詰めた。
「なに? 私、変な事言った?」
「いや、君の言う通りだ。君ははっきりものを言うんだな」
その口調は私を責めるものでは無く、寧ろ、少し笑いを含んでいるように感じられた。
「駄目?」
「いいや。やっぱり、うちの娘は大人し過ぎたなと思ってね。小さい頃からあまり我儘も言ってくれなくて、寂しく感じる事もあったから。
済まない、比べるみたいなことを言って。気を悪くしたかな?」
それから彼は、自分の事を話してくれた。故郷の南の海辺の村で漁師をしていて、子供は息子と娘の二人、今は事情があって、娘と二人で旅をしている、彼はそんなことをぽつぽつと語った。
周囲をきょろきょろと探す私に、娘はまだ休んでるんだ、と旅人は少し笑った。旅の疲れで宿に残っているのかもしれないな、と私は考えた。そういえば、彼は屋台で飾り釦を三つ買っていた。赤いのと黄色のと空色のを、一つずつ。成程、あれは家族への土産なのかと、合点がいった。
私は安堵した。彼が独りぼっちだなんて、屹度、私の勝手な思い込みだったのだ。仕事か何かで娘さんと旅をしているけど、何処かの村には、彼の帰る場所があるのだ。余りお喋りではなさそうだが優しい夫。仕事で疲れた夫を温かい料理で労う妻。仲良く遊ぶ兄妹。もしかしたら、近所には老父や老母なんかも住んでいたりするのかもしれない。兎に角、そういったかけがえのない存在が居るのだ。
空想に浸る私の姿は、彼の目には、家に帰るのが余程嫌に見えたのかもしれない。
彼は時折考え込みながら、一所懸命に何かを伝えようとしていた。
「理不尽と立ち向かうのも許すのも、君の自由だ。違う人間同士が解り合うのは難しい。血の繫がりや年齢なんて関係ない。縛られる必要も無い。でも、人は誰かと繋がっているべきだと思う。出来るなら、自分を、他人を、許して許されて生きていく方がいい。過ぎた孤独が、世界を変えてしまう事もあるから」
彼の言う事は、よく解らなかった。まるで神官や魔術使いのする話みたいだと思ったのでそう言うと、彼は地面に視線を落とし、「俺にはとても務まらない」と首を振った。
「神官も魔術使いも、とても大きなものを見てる。目の前の事で精一杯の俺には、無理だ」
何故、彼の横顔は時折、こんなにも哀しそうに見えるのだろう。
「おじさん、本当は、独りぼっちなの?」
思わず言葉が口から零れた。しまった、と思ったが、一度口から出た言葉は消せない。
「もしかして、奥さんに怒られて帰れない? まさか、娘さんが迷子になっちゃったとか? それとも、何かに追いかけられて、帰れなくなっちゃった?」
私は問い続けた。お喋り出来る間は、大丈夫なように思えたのだ。一体、何が大丈夫なのかは分からなかったが。
彼は少しだけ笑い、懐かしむような眼差しで私を見た。
「誰にも怒られてないし、娘は迷子になったりしてない。心配してくれてありがとう」
彼の目は、私を通して、私では無い誰かを見ているのだと分かった。
少し腹が立った。私に誰かを重ねていることにではない。
「私の父さん、仕事で家を空ける事多いの。お前達が居るから頑張れる、でも、寂しくさせてごめんなって、帰って来る度に謝るの。本当は、私より父さんの方が寂しいんだと思う……多分……母さんもそうなの、かも。
きっと、おじさんの家族も同じだよ。おじさんと同じ気持ちでいるし、それを知ってるんだよ。だから、寂しくても、会えなくても、大丈夫なんだよ」
上手く言えず、もどかしかった。この人は、どうして自分だけが寂しいって顔をしているのだろう。理不尽に自分を傷付け、その痛みが相手を傷付けることになるかもしれないとは考えない。やっぱり、この人は母さんと同じなんだ。それが大人になるってことなら、なんて怖いんだろう、そう思った。
時間は勝手に流れて、子供を大人にする。例え、それを望んでいなくてもだ。その時の私には、それが分からなかった。
暫しの沈黙に、もしかしたら、彼を傷付けてしまったかもしれないことに思い至り、私は恐る恐る横目で彼を覗き見た。
だから、旅人が怒っても哀しんでも居ない事に、とても驚いた。
彼は、何かに気付いた様にポカンとしていた。それから真顔で頷いた。
「そうだな。会えなくて寂しいのは、俺だけじゃないんだな。俺の前では、いつも笑ってくれてたものな」
この時になって、彼の話の殆どが過去形で語られていることに、漸く気付いた。どんな事情かは分からないが、彼が釦を渡す相手は、既に彼を待っていないのかもしれない。
今度こそ私は青ざめた。名前も知らない子供の話を真剣に聞いてくれるようなお人好しの彼の傷に、不用意に触れてしまったのかもしれないと思うと、今度は申し訳なさと自分への腹立ちで、顔が熱くなった。
「あの……ごめんなさ……」
小声で言い掛けた私に被せる様に、彼は言った。
「目の前のものだけが全てじゃない事を、俺は誰よりも知っているのに、直ぐにそれを忘れてしまうんだ。思い出させてくれてありがとう」
泣きそうな私を宥める為だったのかもしれないが、それだけでは無いと感じる、実の籠った言葉だった。
彼は、すっかり冷めてしまった乳茶を飲み干すと、ゆっくり立ち上がり、既に空だった私の椀を優しく取り上げた。
「引き留めてしまって悪かった。俺はもう行く。君も帰った方がいい。母さんが君を許せなくても、君が母さんを許せなくても、それは仕方がない。だが、寒さは身体に良くない。家に帰る辛さと、外に居る危険を秤にかけたら、家に帰る方が良いんじゃないだろうか。
でも、もしも、本当に家に帰れない程の状態なら、迷わず神官か魔術使いのところに行きなさい。君の為にも、母さんの為にもだ。彼等なら、決して悪いようにはしないだろう。だが、本当は君も母さんも、互いが嫌いな訳じゃないんだろう?」
屋台に椀を返し、此方を振り返った彼は、まだぼんやりと座っている私の処に戻って来て言った。
「ありがとう」
「えっ?」
何故、礼を言われたのか理解出来ず、私は彼を見上げた。
「俺の話に付き合ってくれて。君と娘が、少し似ているものだから、つい話し込んでしまった。君はずいぶんと心配してくれただろう? 妻と息子には……まだ会うことは出来ないが、いつか、ちゃんと伝えるよ。愛してる、愛してくれてありがとう、って」
そう言って軽く手を振り去ってゆく彼の背中は、急に消えることも無く、当たり前に雑踏に紛れて見えなくなった。
お茶が冷めるまでの邂逅は不可思議な余韻を残し、すっかり考え込んだ私は、無意識に家路に就いた。
案の定、母は帰って来た私に怒鳴り散らしていたが、私はさっきまでの出来事について考える事に忙しく、正直それどころではなかった。私が言い返さないのをどう感じたのか、母は無言で夕飯の支度を始め、何時もより遥かに大人しい私に、それ以上怒ることはなかった。
結局、夕食の後片づけを済ませ、寝具に包まり眠りに就くまで、私の頭はあの旅人に支配され続けた。
不思議だったのは、彼の娘は一体何処に居たのだろう、という事だ。当初は宿にでも待たせているのだろうと考えていたが、彼の去った方に宿屋はなかったし、魔術使いと神官の家も正反対の方角だ。娘を預ける様な知り合いが村に居るようにも見えなかったし、まさか彼の話の全てが妄想かとも疑ったが、彼の語った家族像は、血が通ったものだった。
事実を知る日が来るとは考えなかった。確認したいとも思わなかった。彼と二度と会うことは無いだろうことは判っていたし、事実、今日まで会えてはいない。何より、彼のことを誰にも話す気になれなかった。その内、彼の存在そのものが私の妄想の様にも思えてきて、やがて、乳茶を飲む際に時折思い出すだけになった。
母と私の関係は、正直、あれからも良好とまでは言えなかったが、以前より遥かにましになった。たとえ想いがあっても、上手くいくことばかりではない。それでも、誰かの気持ちに思いを寄せることの難しさ、必要性を知る事が出来たことは、無駄では無かった。大人でいることの大変さや、寂しさを気付かせてくれた彼との邂逅は、私を少しだけ変えたのかもしれない。
あの旅人と出会って数年後、私は隣村で木工職人をしている男に嫁いだ。無口で、穏やかに笑う、優しい男だ。そして、私ももうすぐ母になる。ふとした際に、雪崩のように襲い来る不安に押し潰されそうになる度、旅人の言葉を思い出すのだ。
『大人が助けを求めたら、おかしいかい?』
崩れそうになったら、夫に、誰かに、手を伸ばしてみよう。そして、誰かから伸ばされた手を、握り返せる人でいたい。
『大人は、子供が思うほど大人じゃない』
全くその通りだ。経験という積み重ねが、私の振る舞いを変えたとしても、それが大人である証では無い。だから私は、これから生まれて来る我が子に、伝えようと思う。
許し許されて生きる、優しい世界を沢山作りなさい、と。難しい時もあるだろうけれど、それでも、そうあろうとする姿勢は、決して無駄にはならないからと。
そして、私は願うのだ。
あの旅人が、もう寂しい眼をしていませんように。彼が、彼自身を許していますように、と。