3 こだまの主
それでね、六部はちょっと考えて、法華経の一番大事なところをずうっと、何べんも繰り返して読むことにしたんだそうだ。
狐狸妖怪だって、一緒に何べんも唱えればお経を覚えるかもしれない。これが今夜だけのことだって、繰り返し一生懸命お唱えすれば、ほんの少しでも功徳をつめるだろう。そしたら、来世には妖怪じゃなくって、もう少しいいところに生まれ変われるかもしれない。
仏門に入った身として、相手が何であろうが、ご縁があったら導いてやらなきゃって思ったんだね。
六部と小さな声は、ずうっと、お経の同じところを読み続けた。
そのうち、旅の疲れも手伝って、六部は、一瞬、うとうとしてしまったんだそうだ。
はっと気がつくと、自分の声が止まっている。小さな、不思議な声だけが、一生懸命お経を唱えていた。
そこで、六部は、勇気を出して声を掛けたんだ。
「もし、そこでお経を唱えるのはどなたかな」
はっとしたように、小さな声は止まった。
「どなたかな。一夜限りのご縁とは言え、私からお経を習えば、仏様の前では私が兄弟子、そなたが弟弟子ということになろう。兄弟子に、名は申せぬか」
優しく問いかけた六部の声に、意を決したように、こだま石様の影から姿を現したのは、一匹の老いた三毛猫だった。
三毛猫は、六部の前にひざを折って頭を下げて、言った。
「わたくしは、お玉と申す、この家に飼われておった猫でございます。じい様とばあ様によう可愛がっていただいて、人の世で長く過ごしすぎたゆえ、お恥ずかしいことに猫又になってしまいました」
見ると確かに、茶と黒のまだらの尻尾と、白に黒ぶちのついた尻尾、二本がくるりと三毛猫の身体に巻き付いている。
「あさましくも生きながらえ、妖の身となり果てまして、このお堂で、いたずらにこだま返しをしておりました。ばあ様がのうなって、悲しんでいたじい様が、わたくしのこだまで喜んでくれたことが忘れられず」
「さようであったか」
六部は深くうなずいた。
「今日あなた様のお導きをいただきまして、畜生のわたくしも、仏様の弟子の末席に入れていただくことができました。本当にありがたいことでございます」
お玉はふたたび、深々と頭を下げた。
「じい様も、他の者も、そなたのこだまで助けられた者も多かったのであろうな」
「さようでございましょうか。ですが、悪気のないいたずらも、長く続けば、村の衆に迷惑をかけることもありましょう。そのせいで、六部様にはご足労をおかけしました。仏様と六部様にお導きいただいて、わたくしも、ようやくここを離れることができるようです」
お玉は、その場で前足を畳んで、あごを下ろし、小さく香箱を組んだ。香箱って、知ってる? 前足を胸の下にたくしこんで、腹ばいの姿勢で座る、猫独特の姿勢さ。
「村の衆に、六部様からお伝えください。お玉はこの村に生まれて、本当にようございました。お世話になりました」
そこで、六部ははっとして目を覚ました。
お経を読みながら、眠ってしまっていたのに気づき、頭をかきかき、不思議な夢もあるもんだと辺りを見回すと、この小屋に来た時には確かに六つだったこだま石様が、七つになっている。
一番端っこの、小さなこだま石様が、朝陽をうけて、ちかっと光った。
真っ白い他の六つのこだま石様とは違って、その石には、黒と茶色のまだら模様があってね。そして、猫が座って尻尾を身体に巻き付けたときのように、両側の下のあたりに、すうっと一本ずつ、茶と黒のまだらと、白地に黒ぶちの細長いふくらみがついていた。
六つのこだま石様と、七つ目のお玉石様は、この村の子宝と家内円満を見守ってくれている、と信じた村の衆は、六部が村に泊まった日をお玉の月命日に決めて、毎月その日にみんなで集まってこだま石様にお経をとなえる「こだま講」を作った。そうして、ねんごろに供養をしたそうな。
不思議な声は、その後はもう二度と聞こえなかったという。
◇
聞きごたえのある話に、わたしは、ほうっとため息をついてから尋ねた。
「じゃあ、今でも、こだま講ってあるんですか」
「今はやってないねえ。これから、やってもいいかもね」
「途絶えてたってことですか?」
「猫は人気だろう。村おこしになるかね。こだま講の日に、猫のお守りをお分けしたら、参拝客、来るかな。お姉さん、どう思う?」
スエノさんはしかつめらしい顔でお茶を一口飲んだ。
「それにしても、こんな本格的な民話を聞けるなんて、本当にありがたいですよ。記事にしていったら、追加でお聞きしたいことがあるかもしれないので、お名前とご連絡先を伺ってもいいですか?」
「こんなばあさんの話でも、お役に立つかねえ。名刺をお渡ししとこうか」
スエノさんは、にいっと笑うと、水筒の蓋を閉めてからおもむろにポケットに手を入れた。
名刺? ひなびた農村の老婦人が、畑仕事の最中に名刺を持っているとは。
かすかな違和感を感じながらも、わたしはうなずいた。
「ありがたいです。ぜひ」
自分の名刺も取り出して、型通りの交換をした。
受け取った名刺を見た瞬間、わたしの頭は真っ白になった。恐ろしい四文字が、目に飛び込んできたのだ。
『創作民話サークル・こだま
主宰
森辺スエノ(森本スエヨ)』
「……あの。この、創作民話って何ですか」
「今の、こだま様のお話。よくできてたろ。あたしの十八番なのさあ。評判いいよお」
「創作ですか」
「うん。モリヘ・スエノっていいペンネームだろ」
「ぺ、ペンネーム……?」
「モリヘは、ギリシャ神話の夢の神様、モルフェウスからもらったのさ。スペイン語ではモルフェオって言うんだ。ちなみに、スエーノはスペイン語で『夢』だね」
目の前がくらくらする。まさか、手ぬぐいで姉さんかむりをして、かっぽう着をかけ、地下足袋をはいたおばあちゃんから、スペイン語の講義を受けることになるとは思わなかった。
「なんだってこんな手の込んだことを」
「んー、ボケ防止? あとね、こんなところだと、観光資源も何もないだろう。村おこしのためには、受けのいいお話を積極的に発信していかないとね。ほら、猫、人気だし。SNSもやってるよ。インストゥルグラムに写真付きで投稿したりね。そうそう、WEB小説も人気だろ、このごろ。うちも書籍化を狙ってて、『もの書きになろう!』とかで発表してるんだ」
スエノさん(本名は森本スエヨというのだそうだ)は、名刺が入っていたのと反対側のポケットから出したスマホのカメラをこちらに向けて、からからと笑った。
「インストに載せる写真、撮ってもいいかい。雑誌の記者さんとお話ししたって記事をのせりゃ、ハクがつくねえ」
こうなると、どちらが取材を受けているんだかわからない。
「創作じゃ、伝説の記事になんないですよ……」
世にも恐ろしい話とは、こういうことを言うのだと思う。
◇
スマホやインターネットを使いこなし、創作民話で村おこしを試みるお年寄りサークルの活動を報じるささやかな記事は、半年ほど後になって、雑誌の巻末のほうに掲載された。連載小説担当の作家先生が「あと少し、あと少し」と言いながら締め切りを大幅に破ったあげく姿をくらましてしまったため、急に、埋め草記事が必要になったのだ。
編集長のやけくそ気味の了承をうけて、掲載許可を貰うため、わたしはスエノさんにインストのダイレクトメッセージで連絡を取った。ものの数分で快諾の返事をくれた彼女は、たいそうご機嫌だった。
スエノさんの民話は意外な好評を得た。味を占めた編集長のツルの一声で、「サークル・こだま」の創作民話の不定期連載が始まったのは、また、別の話。