4.夜の逢い引きはまだ早い。
ちょっとしたお色気(???)シーンがあるのです。
でも別にスケベじゃないと思います。
「はぁ……」
ため息をついて、ランヴァルトはぱたんとベッドへ倒れ込んだ。以前と違いベッドは軋む音一つ立てず、柔らかくランヴァルトを受け止めてくれる。
(今日はなんだか、疲れたな……)
湯浴みを終え体はぽかぽかと温まっているが、頭の奥は冷えていた。ここの所の気持ちの良い疲労感とは違い、今日はずっしりと重い体が厭わしくなる良くない疲れ方だ。
城を辞した後、ランヴァルト達はまっすぐグランフェルトの屋敷へと戻った。そこで待っていたのは両親の手紙と、何故かベック夫人からの夕食の誘い。
普段なら母からの手紙は嬉しくなるのに、城での事を思うと素直に喜べず。父からの手紙は差出人の名前を見ただけで胃が重くなった。その上で、ベック夫人である。
エルヴィーラが居ない間、ランヴァルトは夕食を前ノルデンフェルト公爵ととる事になっていた。マナーの再確認や公爵に相応しい会話術などの実践訓練である。緊張はするが、ランヴァルトにとっては必要な事。むしろ前公爵を付き合わせて申し訳ないくらいだ。彼の方は気にせず、「もっと頼って善い」と云ってくれているが。
その予定をキャンセルしてベック夫人と夕食などとれる訳がなく、前公爵との夕食会に夫人を混ぜる事などもっと出来ない。断る以外の選択肢がないのだ。
話を持って来てくれた新しい侍女に断るように云えば、彼女は穏やかな表情のまま「承知致しました」と頭を下げた。現家令も当然と云う顔で頷いていた。が、現侍女頭は少し厳しい顔で「わざわざそのような話を、旦那様へ直接持って来なくとも宜しい。何故その場で断らなかったのです」と詰問していたので、ランヴァルトが慌てて取りなしたが。
ベック夫人はグランフェルト家において何の権限も持たないが、三年前からここに住んでいる。傍から見ればランヴァルトと親しい間柄だ。その人からの話なら、念のために持ってくるだろう。侍女は悪くない。断りに行く彼女に、古くからの使用人達が悪い態度を取らないか心配なくらいだった。
(使用人たちは、ベック夫人とモニカに優しいからな……)
無論ランヴァルトとて二人には優しく接しているつもりだが、使用人達はより親身になっている気がする。二人の境遇にもかなり同情的だ。特にメイド達はモニカを「お嬢様」と呼んで可愛がっていた。まるで家の一員であるかのように。
(いや、間違いではない。間違いではないのだけれど……)
客人として家へ招いたが、もう三年も一緒に暮らしているのだ。家の一員と見られても当然である。
「それがよくない」とアルヴィドには云われ、エルヴィーラ側の人々からは「なんで赤の他人がでかい面してんだ」と云わんばかりの態度をされていた。それもまた、当然だ。
(……自分の勝手で招いた人たちを、またこちらの都合で追い出すのは……)
それが世間的に正しくとも、貴族としての常識でも、ランヴァルトは躊躇する。せめてモニカが健康体になり、嫁ぎ先も決まっているなら心置きなく送り出せるのだが。
(家での療養より、病院へ行った方がいいんだろうな……。でも、入院費を出すのはエルヴィーラ様だ……)
新しい医師の診察では、モニカは病を持って生まれたと云うより、虚弱で病気になりやすい体質であるらしい。家での療養も出来るが、専門の病院へ入り治療とリハビリ、魔力生成訓練を同時に行った方が良いと云われた。
しかしその手の専門病院は王侯貴族しか入れないような特別な場所で、他の病院より割高だ。そもそも入院自体、大変お金の掛かる事である。平民ならば一部の富裕層のみ、貴族でも金銭に余裕があるような“商売上手”でなくては難しい。
エルヴィーラならばぽんと出せる。何の躊躇も無く。彼女にとっては少女一人の入院費など、微々たるものだ。それは分かっていた。
けれど、エルヴィーラのお金はエルヴィーラの物で、ランヴァルトが自由にしていい物ではない。それも赤の他人の少女を入院させたいからお金を下さいなどと、口が裂けても云えるものか。
もう既に離れを改装して貰い、医者の手配やその他諸々、全て面倒を見て貰っている。この上でさらに入院費を下さいなどと、どの口で云えるのだ。
(……こう云う事も、聞くべきなのかな。相談した方が、いいのかな……)
ごろんと転がって、横向きになる。窓の外はすっかり暗い。
どんな些細な事でもエルヴィーラには話せ、とアルヴィドに云われた。ではモニカの事も相談するべきなのだろう。きっとそうだ。ランヴァルトは悩む事しか出来ず、解決策も用意出来ない。
エルヴィーラはランヴァルトが頼めば、快くお金を出してくれるだろう。これまでと同様に。それは想像に難くない。でも、それで善いのか。
(善くないよ)
自分の考えを、自分で否定する。女に金を出して貰って情けないとか、そう云う話ではない。人としての尊厳の話だ。自分で努力せず、相手に恵んで貰うばかりで善いわけがない。
(でもどうすれば……)
自分の情けなさをまた詰りたくなる。今日は本当に、厭な事ばかり考えてしまう。古傷を抉られ、肉親の厭な部分を知り、自分の蒔いた種すらろくに回収できない愚かさを思い知って、また気が塞いだ。
その時、鬱々とのめり込んでいく気分を変えるかのように、小型携帯用魔導通信機――通称・携帯が軽快な音を立てた。慌てて起き上がり、サイドボードへ手を伸ばす。
着信者名は、「エルヴィーラ」だった。
「エルヴィーラ様……」
城から帰る時はあんなに会いたかったのに、今は気まずい気持ちになる。厭なのではない、気まずいのだ。彼女に合わせる顔が無い。通信機越しなので顔は見えないが、そう云う事ではなく。言葉を交わす事すら気が重い。
けれど出ない訳には行かなかった。居留守など絶対に厭だ。
携帯の画面に触れる。ひんやりとした温度と、硬い質感を感じた。
これは、エルヴィーラの代表的な発明品の一つだ。“世界を変えた”と云われる三大発明品の一角に数えられている。
大型の物ならともかく、手の平に収まるほど小型で気軽に携帯出来るこの通信機は、全世界の王侯貴族の中でも極一部しか所持していない。それをランヴァルトが持てているのは当然、エルヴィーラより贈られたからだ。婚約が正式決定したその場で渡された。いつでも持っているように、と云い添えられて。
ベッドへ座り直し、姿勢を正す。「通話」と表示された緑の丸へ指先を触れさせ、そのまま上へ移動させる。ププ、と何かが途切れて繋がるような不思議な音がして、サァサァと流れる水の如き音が遠くから聞こえた。
「「もしもし、ランヴァルト様? エルヴィーラです。今、お時間宜しいですか?」」
「……はい、ランヴァルトです、エルヴィーラ様。大丈夫です。お話出来ますよ」
青色の薄い板から、エルヴィーラの声がする。少し音がこもっているように聞こえるが、間違いなくエルヴィーラの声だと分かるのが凄い。
最初はどうしてこの板同士で声が繋がるのだろうと不思議に思ったが、編み込まれ重ねられた魔導術式を見れば納得するしか無かった。正気を疑うような、緻密で繊細な術式のミルフィーユだった。世界最高峰の魔導技術の集大成である。それを、エルヴィーラはほぼ独力で完成させた。
また彼女との自分の落差に鉛を飲んだ。けれどそれを悟らせる訳に行かない。ランヴァルトはなるべく普段通りを心がけて返事をした。
けれどエルヴィーラは少し沈黙した後、こう云った。
「「何かありましたか? お声に元気がないようですが」」
「う……」
云い当てられて言葉に詰まる。何故ここで上手く誤魔化せないのか。正直者と云えば聞こえが良いだろうが、この場合は頭に莫迦がつくに違いない。
「「今日は登城なさいましたね。陛下に何かされましたか」」
「され……たと、云いますか、その」
今日の出来事をしっかり説明出来る気がしなかった。
ぐちゃぐちゃもやもや、頭も胸もスッキリしない。美味しい料理を食べても、気持ちよく湯につかっても、ふかふかのベッドに寝転んでも――エルヴィーラの声を聞いても、ランヴァルトの気分は少しも晴れていないのだ。
随分と、贅沢になった。少し前なら、アルヴィドが持ってきてくれるお菓子一つで喜んでいた癖に。
「「ランヴァルト様?」」
通信機の向こうから、柔らかなエルヴィーラの声がする。ランヴァルトを案じる甘やかな声を聞くと、全てを投げ出して頼ってしまいたくなった。
エルヴィーラなら、ランヴァルトの話を笑いもせず、呆れもせず、怒りもせずに聞いてくれる。そして助けてくれるだろうと確信して――いるからこそ、云えなくなって行く。
婚約者の女性に甘えすぎだと、自分の中にある最後の男気が叱りつけて来るのだ。
フロード王国は世界的に見て、男女差別の意識が低い傾向にある。「女の癖に生意気だ」とか「男の癖に情けない」と云う評価の仕方は、時代遅れだと扱われる事が多い。
しかしそうした見方が全く無い、と云う訳ではなかった。やはり、女に頼り切りの男は駄目な奴だと云われ、男を押さえつける女は烈女や猛女と呼ばれる。
その点で云えば、ランヴァルトは間違いなく情けない男だし、エルヴィーラは烈女の類いだろう。人々は口を揃えてそう云うに違いないのだ。
そこまで考えて、ランヴァルトは声に出さず笑ってしまった。今更世間の目を気にしている自分が、おかしかったのだ。
「エルヴィーラ様……」
「「はい、何でしょう」」
「……私は、自分が、情けないです」
「「何故です?」」
何故、と云われ、ランヴァルトは言葉に詰まった。今の考え全てを口にする事へ、まだ抵抗感を覚えている。
エルヴィーラは優しい。いつもランヴァルトの事を考えていてくれていた。こうして出張中にでさえ、ランヴァルトに通信を入れて話せる時間を作ってくれて、感謝しかない。
それでも、ランヴァルトの不安と恐怖は消えない。もっと深く、腹の底へと根付いて行く。
――本当にエルヴィーラは、ランヴァルトの事が好きなのだろうか。
エルヴィーラが思う以上に情けない男だと知ったら、離れて行ってしまうのではないか。
国王の事、両親の事、ベック夫人とモニカの事、昔からの使用人たちの事、その他色々、ランヴァルトを悩ませる話は沢山ある。
幾らエルヴィーラでも、いや、いつも忙しいエルヴィーラだからこそ、面倒くさくなって、ランヴァルトを棄てて行ってしまいやしないか。結局自分は一人でいるしかないのではないか。そんな詮なき事を、考えてしまう。
そうして、どんどん口が重くなって行くのだ。
(情けない……ほんの数日、離れただけなのに)
あの日、改めてランヴァルトを“最推し”だとエルヴィーラが云ってくれた日。珍しくランヴァルトは前向きになったのだ。そこまで云ってくれるエルヴィーラの為に頑張ろうと、少しでも役に立とうと誓ったのに。
今日の出来事で、また足下がぐらついた。所詮自分は、母親に棄てられ、居ても居なくてもどうでもいいと扱われた、何の力もない駄目な男なのだと。顔と血筋が良いだけの、価値のない男。
それが、ランヴァルトの全てだと、改めて思い知ってしまった。
この上でエルヴィーラに何を話せと云うのか。頼り切って、また自分の惨めさに押し潰されて行けと云うのか。
言葉が出ない。喉が渇く。視界がじわじわ昏くなる。エルヴィーラの声が、遠く、
「ランヴァルト様」
いや、――“近い”?
「えっ」
こもって遠くから聞こえていたエルヴィーラの声が、すぐ近く、澄んで聞こえた。
いつの間にか俯かせていた顔を上げれば、目の前に、エルヴィーラが立っていた。
「は、」
「具合でもお悪いのですか。侍医を呼びましょうか?」
「え、いや、エルヴィーラ、様?」
「エルヴィーラですが」
目の前のエルヴィーラ首を傾げる。ランヴァルトは呆気に取られながら、彼女の頭から足下までをじっくりとっくり眺めてしまった。
――エルヴィーラである。左右対称の美しい顔立ち、輝く黄金の目、しっとりと濡れ下ろされた鉄紺の髪、ほんのり赤い白磁の肌。
どう見てもエルヴィーラである。服装はランヴァルトと同じ絹の寝間着で、これから就寝までのんびりする予定だったのか、ショールを一枚羽織っていた。
絹の寝間着――女性用だから、ネグリジェと云うべきか。濃い青色のそれは、ぴったりと彼女の肉体に添っている。普段着ているドレスも体のラインに合わせたものだが、それとは違う。体の凹凸が、薄く柔らかな絹地の形を変え、特に胸元をこれでもかと主張していて、
「――見てませんッッ!」
「ランヴァルト様?」
「僕は何も見てませんから!」
うっかり通信機を放り出して――無意識か、ちゃんとベッドの方へ投げていた――、両手で顔を押さえてランヴァルトは叫んだ。
何故テンペスト帝国へ出張中のエルヴィーラが、ランヴァルトの寝室に居るのか。その疑問すら吹っ飛ぶほど、ランヴァルトは慌てた。幻覚や夢ではなく、確かにエルヴィーラが目の前にいる。しかして、湯上がり後のしっとりとした艶めかしい姿をまじまじと見る事など出来ようか。
「すみません、驚かせましたか。ランヴァルト様の様子が普段と違いましたので、気になりまして。テンペスト帝国から飛んできたのです」
「と、飛んできた……?」
「転移術です」
「あ」
間抜けな声が出る。
魔導通信機に続くエルヴィーラの三大発明品は、転移魔導陣だ。遠く離れた場所を一瞬で繋ぐ、夢の技術。本来なら魔術・魔導に精通し、魔力も豊富な特級の術者でなければ使用出来ないものだが、エルヴィーラはそれを魔導へと落とし込んだ。奇跡の魔術と呼ばれた転移術を、魔力と金さえあれば誰でも使える魔導陣にしたのだ。
あの時は、本当に世界が引っ繰り返ったのではないかと思うほどの衝撃を受けた。聖地すら「あり得ない」と悲鳴を上げたと云うのだから、凄まじい話だ。
魔術を魔導へ落とし込む為には、その魔術を深く理解していなくてはならない。当然ながらエルヴィーラは、単独で転移術が使えた。しかし王侯貴族の住まいには、転移術を弾く術式が組み込まれている。そうでなくては貴人は常に、転移術使用者の暗殺に怯えなくてはならないからだ。
だが、その転移術防止魔導陣を作ったのも、エルヴィーラな訳で。
「…………エルヴィーラ様に出来ない事ってありますか?」
思わず出た言葉がそれだった。子供みたいな質問だ。
「それなりにありますが、人類が想像出来る範囲であれば実行可能だと自負しています」
「すごい」
もうそれしか云えない。ランヴァルトなんて、出来ない事だらけなのに。
顔を押さえたまま俯いて、ついでに背中も丸める。よく考えなくても、寝室で二人きりだ。未婚の男女が。しかもお互いに風呂上がり姿で。いくら婚約者同士とは云え、いや、婚約者だからこそこれはよくない。マナーに反する。世間から「はしたない」と思い切り顔を顰められる事態だ。
どうしよう、どうするべきか。エルヴィーラはランヴァルトの様子が変だと気にして、わざわざ来てくれたのだ。はしたないから帰ってくれだなんて、絶対に云えないし、云いたくない。彼女の姿を直視出来ないし、恥ずかしさと照れくささで卒倒しそうだが、それと同時に嬉しくて堪らないのだ。
転移術を使えばテンペスト帝国からランヴァルトの元まで一瞬だろう。それでも、かなり大量の魔力を消費する。これからゆっくりする所だっただろうに、出張先で気疲れしているだろうに、ランヴァルトの為に来てくれたのだ。
アルヴィドの言葉を思い出す。お前の為にそこまでしてくれる女性は、二度と現れないと。その通りだ。こんなにもランヴァルトの事を想って行動してくれる女性は、エルヴィーラしかいない。世界中どこを探したって、異世界にだって、エルヴィーラ以上の女性なんているものかと、ランヴァルトは本気で思った。
何か云わなくては。そうだ、まず感謝を伝えなくては。混乱しつつなんとか思考を収束させたランヴァルトの耳が、至近距離、すぐ隣りでベッドが軋む音を拾った。
え、と驚きのままに顔を上げ音の方を見れば、エルヴィーラが居る。エルヴィーラが、ランヴァルトの隣りに座っていた。
「――……」
「お顔の色がわる……いや、血色が良いですね。血の巡りに問題はなさそうで」
「ほああああああ?!」
「うわっ」
驚きのあまり変な雄叫びを上げてしまう。宜しくない。とても宜しくない。風呂上がりでネグリジェをまとった女性が、男の座るベッドの隣りへ腰を下ろすなど。絶対に宜しくない。駄目な奴だ。
文字通り泡を食ったランヴァルトは無意味に手をわたわたさせると、そのままベッドから滑り落ちた。珍しく、エルヴィーラも驚きの声を上げているが、ランヴァルトの方がその百倍は驚いたと自信を持って云える。
もう照れ臭いやら恥ずかしいやらみっともないやら惨めやら、あらゆる感情がぐっちゃぐちゃになった。もう勘弁してくれ、と云う奴だ。
起き上がる事も出来ず、床に倒れたまま顔を押さえ、ぷるぷる震えるしか無い。悪いスライムでは無い。情けない男が一匹いるだけである。
「え、エルヴィーラさま……」
「何ですか、大丈夫ですか、医者はいりますか?」
「大丈夫じゃ……ないですが、医者は、いりません……。なんて云うか、もう、勘弁して下さい……」
「何事ですか」
「……あの」
「はい」
「とても、感謝しているんです……」
「はい?」
「僕なんかを、心配して、テンペスト帝国から、転移術でわざわざ、来て下さって……」
「はい」
「でも、駄目です」
「駄目ですか」
「その格好と、ベッドへ腰掛けるのは、いけません……!」
「どんだけ情けなくとも自分は男で、どれほど優秀でも貴女は女性なのですよ」とまでは云えなかった。なんだか凄く情けなくて、場違いな発言に思えたからだ。
現状を見れば正しい。正しいと思う。けれど、なんか違うと思えてしまった。エルヴィーラ相手にランヴァルトはケダモノになれる訳がない。しかし、強い好意を持って慕う女性が湯上がりの寝間着姿で自分のベッドへ腰掛けるなど、刺激が強すぎた。直視したら死ぬ、くらい脳へダメージがある。
それをどうにか伝えようと、息も絶え絶えに云ったのだが。
「ほう」
どこか面白がっているような響きの、声が返ってきた。きし、と小さくベッドが軋む音。それから床へ仰向けになっているランヴァルトの体の上へ、確かな重みと柔らかさ。特に胸、いや鎖骨のあたりに、ずっしりと重量がありながら、それでいてもっちり柔らかい物が乗っている。
花の蜜に似た、甘い香りがした。
「……え」
ついうっかり、顔に当てていた両手を外して、目を開いてしまった。
そうして目の前――息が掛かるほどの至近距離に、エルヴィーラの顔がある。劫火の瞳が、きらきら光って、ランヴァルトを見ていた。
化粧をしていない、エルヴィーラの顔である。
派手な美人は化粧を落とすと地味顔などと云う話を聞いた事はあった。それ、嘘でしょうと、今のランヴァルトなら云える。常にアイシャドウばっちり、隙の無い完璧な化粧をしているエルヴィーラは今、すっぴんな訳だが。
バッサバサの睫も、印象的な瞳も、毛穴の見当たらないすべらかな肌も、血色の良い頬と唇も、何もかもが眩しく美しい。世の女性が嫉妬で憤死しませんか、と云わんばかりの、輝く美貌だ。
「え」
「お可愛らしいこと」
「え」
「あまり愛らしい事を云わないで頂きたい。……これでも、我慢しているのですから」
エルヴィーラが、ランヴァルトの上に乗っている。服越しとは云え、ぴったり密着して。楽しげな表情で、ランヴァルトの顔を上から覗き込んでいた。
つまり、鎖骨に当たっているずっしりむっちりしたものは。
「―――っ?!」
瞬間的にランヴァルトはパニックになった。声にならない悲鳴を上げたし、体は震え上がって脳髄が軋んだ幻聴を聞く。
心の空き容量が完全に無くなった。猫に追い詰められたネズミの方がまだ冷静なのでは、と云うレベルだ。
首から上へ血が集まって、顔が熱い。耳の奥で血流の音がごうごうと鳴っていた。
エルヴィーラの手が、ランヴァルトの頬を撫でる。「ミ゜」とまた変な声が出た。
「人のルールは細かくて面倒で無意味なものが多いと思いませんか」
微笑みながら、エルヴィーラが云う。初めて見る笑顔だ。慈悲に溢れた淫蕩な笑みとでも云うべきか。
「誰かの体裁の為の、どうでもいいルールがとても多いのです。あれはいけない、これははしたない、それはダメ。下らないにも程がある。いくら人類が弱者で、ルールに沿っていなくては集団的生存が困難とは云え、無駄に無駄を重ねて意味を失っています。婚約期間など最たるもの。貞淑? それが何の役に立つのです。人類が生命である以上、種の保存の為に生殖活動は不可避でしょう。ホムンクルスのようにフラスコで育つならまだしも、人類は母胎で育まれるしかないのですから」
「はぇ……」
ランヴァルトの脳みそはもう役に立っていない。なんかむずかしいこといってる、くらいしか理解出来ていなかった。
「しかし、無駄ではない所もあります。必要性の高いもの、必然性があるもの。そう、既成事実とやらを作ってしまえば、不合意の相手でも自分のものに出来ると云うのは、中々に合理的で面白い理屈です。その概念を作り育てた奴らは心底莫迦だと思いますが、役には立ちます。莫迦とハサミは使いよう、と異世界の言葉にあるそうですが、なるほどなるほど。異世界人は上手い事を云います。無駄なルールも利用法次第で役に立つのです」
ランヴァルトは「あれ?」と思った。なんと云うか、上手く言葉に出来ないが。ものすごく不味い状況な気がする、と。
「あなたの不安も、困惑も、迷いも、全て喰べてあげましょう。大丈夫。何も怖くないですよ。……目を閉じていれば、すぐに終わりますから」
もはや彼女にとって、ランヴァルトは完全にただの獲物に成り下がっている。
それに気付いてしまったが、今の状況で出来る事があるのか。エルヴィーラをはね除ける事すら、ランヴァルトには出来ない。布越しでも触れられないと云うのに、どうすればいいと云うのだ。
近付いて来るエルヴィーラの顔を見つめる事しか出来ず、完全に思考能力が死んでいる。蛇に睨まれた蛙ってこう云う状況を云うのか、などと変に冷静な脳の一部分が考えていた。
――ある種、絶体絶命のピンチをランヴァルトは迎えていたが、それはいとも容易く終了を迎える。
「ねー、ちょっとだんなさまぁ。あの小母さんうっせーんだ、け、ど……」
「ヴェルト! いけません! ノックくらいなさ、い……」
ばーんと軽快に寝室の扉が開いて、ヴェルトとヘイスが入って来た。二人はランヴァルトとエルヴィーラの状態を認識すると、語尾を儚く消していく。
なんと云うか、第三者から見ても云い訳無用の状態だ。エルヴィーラを慕っている双子からすれば、目を覆いたくなるか悲鳴を上げる状況ではないか。
しばし、無音が空間を支配する。世界から全ての音が消えたと錯覚してしまいそうだ。
「……」
「……」
「……」
「……あのさー」
最初に声を発したのは、ヴェルトだった。苦虫をダース単位で噛み潰したような顔をして、エルヴィーラに向かって云う。
「姐さん……流石にゴーカンはねーわ。引く」
「血反吐吐くまでぶち喰らわすぞクソガキ」
ランヴァルトは正気になった頭で、「エルヴィーラ様、そんな低い声出るんですね……」と思った。
多分、考えるべき部分はそこじゃない。
*** ***
「いくら婚約者つったって、犯罪は犯罪でしょー。不合意ならゴーカンだよゴーカン」
「うるさい」
「まぁご丁寧に防音と気配遮断の結界までかけて。これで出入り口を封印してたら言い訳無用で犯罪ですよ、御前。厭ですよ私は。御前を警備隊に突き出すなんて」
「うるさい」
「えぇっと……」
双子の乱入により絶体絶命のピンチを脱したランヴァルトは、その二人に挟まれてソファに座っていた。エルヴィーラはふて寝している。ランヴァルトのベッドで。
やめていただきたい。移り香でもしようものなら、そのベッドで眠れなくなってしまう。
「俺しょうじき、「青鈍大顎殺戮大蛇」が「わたあめ鶏」のひよこ食い殺そうとしてる図にしか見えなかったもん」
「うるさい」
「見る人の心を痛める光景ですね。私には清らかな乙女に襲いかかる卑劣な暴漢に見えましたが」
「うるさい」
こちらへ背中を向けたまま、エルヴィーラは拗ねた声で「うるさい」を繰り返す。なんだか幼い子のように見えた。ちょっと可愛い。
「てかさー、テンペスト帝国ほっといていいわけ? 姐さんいつも、相手が泊まる場所用意してくれたらそこで過ごすのが礼儀だって云って、ちゃんと泊まって来るじゃん」
「帝国の侍女に一言云って来た」
「それ、向こうがパニックになってる奴」
「早く帰って下さい、御前。筆頭秘書様がくも膜下あたりで出血起こす前に」
「死ぬ奴じゃーん」
何か物騒な会話がなされているが、ランヴァルトはどうコメントすれば善いか分からない。気の利いた言葉など、この状況で云える訳もないが。
しかし、ヴェルトが気になる事を入室時に云っていた事を思い出した。この空気を変えるため、ランヴァルトは勇気を持って声を出す。
「あの……」
本気で蚊の鳴くような声が出た。
凄い。人ってこんな小さい声が出せるのか。
「声ちっさー」
「いかがなさいました、旦那様? やはり御前を訴えますか」
「いえそうではなく」
獣人族である故か、耳の良い二人はランヴァルトの掠れ声を拾ってくれたようだ。
「ヴェルトが入ってきた時、気になる事を云っていたな、と」
「俺なにか云ってたっけ?」
「えぇー……?」
「あぁ、ベック夫人の事ですよ」
「え、ベック夫人?」
双子とベック夫人に面識はあるが、ヴェルトがうるさいと感想を持つ程関わりはあっただろうかと、ランヴァルトは首を傾げた。
ヴェルトとヘイスは、ランヴァルトと一緒でなくては離れへ行かないし、ベック夫人はエルヴィーラ側の人々を避けがちだと思っていたが。
「あー。姐さんが防音結界も張ってたから、わかんなかったか。あのねぇ、だんなさま。さっきからあの小母さんが乗り込んで来ててね、だんなさまに会わせろって騒いでんの。そんでうっせーからどうにかして貰おうかなーって」
「ベック夫人が?」
「そうなのです。離れのメイド達を引き連れて、エントランスで大騒ぎですよ。家令殿と侍女頭殿が対応してますが、旦那様に会わせて貰えないなら帰らないとかなんとか」
「うっぜぇし魔術で吹き飛ばしてもいいんだけどさー。流石にだんなさまの知り合いだし? 勝手にやったら悪いかなーって」
「思いとどまってくれてありがとう……!」
ヴェルトの言葉にランヴァルトは本気で感謝した。
この時間に訪ねて来るベック夫人は確かに非常識だが、だからと云って吹っ飛ばして善い訳では無い。好き勝手振る舞っているように見えて、ヴェルトにもブレーキはあるのだ。
「……それならヴァルタル爺――ノルデンフェルト前公爵がどうにかするでしょう。貴方は部屋から出ないように」
むっくり、背を起こしたエルヴィーラがそう云った。ちょっと不機嫌な声だ。
「え、でも」
「この時間に会うのは宜しくありません。会えば調子に乗ります、あの手合いは」
「そう、ですか……」
会うべきと云うか、事態を収めるべきではとランヴァルトは思った、エルヴィーラの意見は違うようだ。エルヴィーラにそう云われてしまっては、ランヴァルトは従うしかない。
また判断を間違えたようだと、肩がしゅんと落ちた。
「……ねぇ、姐さん」
またノルデンフェルト前公爵に迷惑をかけてしまうとさらに落ち込むランヴァルトの横で、ヴェルトまで不機嫌な声を出した。驚いてそちらを見ると、先ほどとは種類の違う、苦り切った顔をしたヴェルトがエルヴィーラを見ていた。
「だんなさまが大事なのは分かるけどさぁ、云い方ってあるじゃん。やり方もさぁ」
「……何が云いたい」
「姐さんがだんなさまを箱に入れてだぁいじに仕舞っておきたいのは知ってっけど、判断力まで奪うのやり過ぎじゃねーの? 俺、お人形の世話とか退屈でヤなんだけどー」
「――……あ゛?」
エルヴィーラから、もの凄く低い声が響いて来る。奈落の蓋でも開いたかな、と錯覚するような重低音に、ランヴァルトは心底びびり倒した。
思わず縮こまるランヴァルトの隣りで、ヘイスも体を強ばらせている。平然としているのは、ヴェルトだけだ。
「だんなさまが自分から箱に入るなら、別にいいよ。だんなさまが選んだなら、俺も文句ねーしぃ。でも姐さんが無理矢理押し込めんのは違うでしょ。もーちょっとさぁ、だんなさまの自主性をそんちょーしてやったらぁ? 今の姐さん、けっこーキモい」
「……云うじゃないか、仔熊風情が」
ベッドからするりと降りたエルヴィーラが、ソファの前に立つ。ヴェルトを見下ろす目は、氷山のように冷たい。
ヘイスの緊張が深まった気配を感じる。小さな声で、「ヴェルト」と諫めるように呼んでいたが、片割れは話を続けた。頭の後ろで両手を組んでふんぞり返り、これまた組んだ長い足を片方、ぷらぷら揺らしている。めちゃくちゃ尊大な態度である。上司の前でする格好ではない。
ヴェルトの神経って魔導超合金で出来てるのかな、とランヴァルトは現実逃避気味に思った。
「俺はさー、いつだって姐さんの味方だよ。姐さんには返し切れない恩があるし、大好きだし、すっげぇ大事だもん。だからさぁ、それ違うでしょ、って思ったら云うよ。姐さんがムカついても、殴られても、黙れって云われったって、俺だけは云うから」
「私が間違えていると?」
「姐さんは間違えないよ。今の判断だって、正解なんでしょ。でもさぁ、経緯って大事じゃん。お膳立てされた道だけじゃぁつまんねーよ」
「意味が分からない。考えは正確に述べろ」
「だんなさまにも経験を積ませてやれって事ー。そりゃ頼りないし、情けないし、小心者なだんなさまだけどさー、何も知らない箱入りのまま、さらに箱を分厚くして鍵までかけるのは酷いんじゃねー? だんなさまがそうしてくれって云った訳でもないのに」
「いらん瑕なら最初から付けない方がいい」
「瑕がついたらだんなさまの価値が下がるって云いたいわけ?」
「――……そうじゃない。人は弱いのだから、余計な瑕は、」
そこでエルヴィーラが黙った。ヴェルトへの苛立ちを浮かべていた顔から、すぅと表情が抜け落ちる。
――無表情だ。いつも感情豊かなエルヴィーラしか知らないランヴァルトは、背筋へ悪寒を覚えた。それくらい、“完璧な無表情”だった。
人形のよう、ではない。いや、ある意味近い。その無の表情は、感情のある人ならば決して出来ない類いの物だと、ランヴァルトは悟った。人でないもの。人より高みに居る“なにか”が見せるものだ。
ランヴァルトの脳裏に、【怪物】の文字が過ぎる。そうして慌てて掻き消した。
――エルヴィーラは決して、【怪物】ではないのだから。
「……」
「姐さん。ちゃんと云えよ。周りを真似した言葉じゃなくって、姐さんの言葉でさー」
「……」
「なんでそんなに、だんなさまを大事にするのか。だんなさまを手元に置きたいのか。どうしてだんなさまを“最推し”にしたのか。ちゃんと云いなって。そうじゃなきゃ、姐さんの気持ちは宙ぶらりんで、だんなさまいつまでも不安なまんまだよ。……ぶち犯して物にしようとか、腐れ蛮族の発想だかんね」
「ぶっ」
思わず噎せたランヴァルトの背中を、ヘイスがよすよすと撫でてくれた。
ヴェルトの言葉選びが酷すぎる。上司と云うか、女性に向かって云ってよい言葉じゃない。
「マジで誰の入れ知恵ー? 姐さんの発想じゃないでしょ」
「オデット」
「おーけー。あの莫迦女、一回とことんまで絞め上げとく」
「ヴェルト。女性には優しくしませんと」
「俺、男女平等主義ー」
「男女平等の言葉がここまで物騒に響くって早々無いですね」
「うっせー。……だんなさまもさぁ、気になってんでしょ? 姐さんが何考えてんのか」
「え……あ、はい。そう、ですけど……」
前に一度質問した時、「貴方が私の“最推し”だから」と云う答えを貰っていた。あの時は聞き慣れない単語と、その後続けられた言葉に翻弄されてそれ以上聞けなかった。
そもそもの話。
「なんで……僕が“最推し”なんでしょう……」
何故、何もして来なかった、何も出来なかった自分が、エルヴィーラの“特別”なのか。それが分からないから、根本的な不安が解消されないのだろう。
ランヴァルトにとってエルヴィーラは長く特別視する存在だった。子供が絵本の英雄に憧れるようなものだ。ずっとずっと、夢見るようにエルヴィーラへ憧憬を抱き続けて来た。
だがエルヴィーラが一体いつからランヴァルトを”最推し”として扱うようになったのか、またその切っ掛けが何なのか、一切分からないのだ。
ランヴァルトとエルヴィーラが対面で会話したのは、あの夜会で彼女からプロポーズされた時が初めてである。それまでランヴァルトが遠くから彼女を見つめる事はあれど、視線が交わった事はなく。エルヴィーラの商売にランヴァルトが関わった事も当然ない。
幼い頃に会っていた、と云うロマン溢れる過去もない。ランヴァルトが登城するようになった頃、彼女は幼き実業家として国の各地を飛び回っていたのだ。勿論、祖父から紹介された事もない。
本当に、何もない。まさに青天の霹靂、寝耳に水、驚天動地。
誰も彼もが驚いたと云うけれど、一番驚いたのは誰であろう、ランヴァルト当人だ。
「……」
無表情のまま、エルヴィーラはじっとランヴァルトを見る。視線で穴を開ける事が出来るのなら、ランヴァルトは今頃原型を留めていないくらい穴まみれだ。それくらい強い視線だった。耐え切れなくなって、思わず視線を逸らしてしまう。
情けなく俯くランヴァルトの頭へ、エルヴィーラの声が降って来た。
「明日」
「……?」
「明日、帰還します」
「えっ」
「姐さん、滞在予定って明後日までじゃないっけ?」
「皇帝陛下と話を付けて、明日にはここへ、戻ります」
「え」
「その時、お話します。私が貴方を選んだ理由を。最初から、全部」
ランヴァルトは顔を上げる。見上げた先には、変わらず無表情のエルヴィーラが立っていた。
ただ、煌めく瞳の奥に、ランヴァルトは誠実な光を見た気がしたのだ。
「ヘイス。予定変更を。昼過ぎ、茶の時間には戻る」
「かしこまりました」
ヘイスへ視線を向ける事無く、端的な指示が出される。音も無く立ち上がったヘイスは、綺麗な所作で頭を下げて、エルヴィーラの命令を受諾した。
「ヴェルト」
「なーにぃ」
エルヴィーラは無言で踏み出しヴェルトの前まで来ると――ガツンッ、とその脳天へ拳骨を落とす。痛みのあまり声も出ないのか、ヴェルトは両手で頭を押さえると無言のまま悶えた。
「無礼、それで許す」
どうやら、暴言吐きまくりだったヴェルトは許されたらしい。ランヴァルトもほっとした。ヴェルトの発言は乱暴ではあったものの、ランヴァルトを庇ってくれているものだった。その言葉のせいで彼が重い罰を受けたらどうしようと不安に感じていたが、拳骨一つで許されたなら何よりだ。
いや、本人はめちゃくちゃ痛そうだが。こんなにのたうち回っているヴェルト、初めて見た。
「……ランヴァルト様」
「はいっ」
「あの婦人に会わない方が善い、と云う判断は、撤回しません。例え長く共に暮らして居ようとも、あの婦人は元貴族。使用人ですらない、赤の他人です。この夜と呼べる時間に会うのは、あまりに非常識と云えます。貴方の為にも、面会は拒否する事をお勧めします」
「……はい。分かりました」
ランヴァルトは先ほどとは違い、しっかりと頷いて答える。
当たり前の事を一から説明させて申し訳ないと思いつつ、これがエルヴィーラとしての誠意なのだと感じ取ったからだ。
どこからか扇子を出したエルヴィーラは、ぱっとそれを広げ、口元を隠した。またジィとランヴァルトを見つめてから、片手でネグリジェの裾を持ち、軽く腰を落として貴族の礼を取る。
「夜分にお邪魔致しました、ランヴァルト様。これにて私は下がります。……善い夢を。おやすみなさい」
「お、おやすみなさいっ。エルヴィーラ様も、どうか善い夢を……」
慌てて立ち上がったランヴァルトは、左胸に手の平を当て、左足を軽く下げて礼をした。
お互いに頭を上げる。エルヴィーラは最後ににこっと小さな笑みを浮かべると、瞬きの間に姿を消した。
空間をブレさせる事無く、魔素と魔力の摩擦音を立てる事無く、場の空気を波立たせる事無く。完璧で理想的な転移術の行使に、ランヴァルトは感嘆の息を吐いた。
「凄い……」
「えぇ全く。完全無欠の転移術、単独で出来る方は世界に五人と居ません」
去るエルヴィーラへ最敬礼を取っていたヘイスが、自慢げに云う。自分の主を誇らしいと思えるのは、善い事だ。ランヴァルトは一度だって、自分の使用人達にそう云った誇りを抱かせてやれなかった。
「マジいってぇんだけどー……」
一方でヴェルトは、恨み骨髄の声を出している。怨嗟の声だ。ちょっと怖い。
「貴方の自業自得でしょう、ヴェルト。ちょっと今日のはフォロー出来ません」
「うっせーよマジでぇ……。俺、頭蓋骨割れてない? 陥没してない?」
「え、そんなに痛いんですか? 見せて下さい」
確かに痛そうな音がしていたが、そこまでの苦痛を味わっていたとは。
急いでヴェルトの脳天を確認したが、大きなタンコブが出来てるくらいだった。へこんでない。盛り上がってる。でもかなり痛そうだった。
「えっと、治癒術かけましょうか? タンコブくらいなら治せますよ」
「マジ? さっすが旦那様、伊達に上位貴族やってねーわ」
「……ヴェルト」
「タンコブ狙うな! 陰湿すぎんだろ!」
「二人とも落ち着いて……」
治癒術は「貴族の義務教育」と云われる魔導だ。学べば学ぶほど効果が高まるので、普通の貴族なら骨折までは治癒出来る。それ以上となると、専門的に学んだ医療関係者くらいか。
平民は基本的な治癒術しか学べないので、切り傷や擦り傷、打撲の治療が関の山だと聞いた。それでも、寺子屋や私塾で下位治癒術を教え出してから、平民の死亡率はかなり下がったそうだ。
エルヴィーラにこさえられたタンコブを、再度殴ろうとするヘイスからヴェルトを守ってやりつつ、治癒術をかける。ものの数秒でへっこんだタンコブに、ヴェルトが手をやりながら意外そうな顔をしてランヴァルトを見上げた。
「丁寧に魔導術式編むじゃん、だんなさま。意外な特技はっけーん」
「魔導関係の成績は良かったんですよ」
貧乏貴族であったランヴァルトだが、国からの支援で王立学園には通えていたし、ちゃんと卒業も出来ている。治癒術を始めとしたいくつかの魔導では、優の成績を貰っていた。
これが独創性が求められる魔術になると、可になってしまうのだが。つらい。
「あぁ、だんなさまって決められた事やるのは得意でも、自分から何か生み出すって苦手だよね。なんか分かるー」
「う゛っ」
ここ一月近くの間に、すっかり人間性を看破されている。そんなに分かりやすいかと、自分の頬をむにむにと抓ってしまった。
「ヴェルト」
「ヘイスうっさーい。てか、今日の俺、褒められてもよくねー? だんなさまが籠の鳥どころか箱庭のお人形になるの、阻止したんだけどー」
「云い方とやり方があるでしょう! 我々は確かに他の護衛より御前から優遇されていますが、御前の不興を本気で買えばどうなるか分からないのですよ!」
「そん時は潔く腹切るよ。姐さんの為なら、俺の内臓くらい安いってー」
「それは勿論。私とて御前の為なら腹でも何でも切りますし、脳漿だってブチまけますけど」
「ひょあ……」
覚悟が決まりすぎてる二人に、怯えの声が出る。
ランヴァルトもエルヴィーラの為なら例え火の中水の中だが、内臓と脳みそ放出は考えた事なかった。
何が怖いって、この二人の場合、冗談やその場しのぎなどではなく、本気だと感じとれる事だ。本当に必要になったら、何の迷いも無く切腹でも脳天かち割りでもしてしまうのだと、ランヴァルトにも分かる。
そこまで慕われるエルヴィーラが凄いのか。覚悟を決められる二人が凄いのか。両方だな、とランヴァルトは思った。
「あ、だんなさま。だんなさまも明日までに考えといて」
「えっ」
「しゅくだーい。姐さんだけ考えるなんて、不公平じゃん。だんなさまも考えてー」
「えっと、エルヴィーラ様が僕を最推しに選んだ理由を、ですか?」
「ちげーって。姐さんに、「どうして結婚を受け入れたのか」ってちゃんと説明してー」
「え」
思ってもみなかった事を云われて、本気でランヴァルトは呆気に取られた。顔はきょとんと間抜けな事になっているだろう。
ソファの背もたれにぐてーっと懐きながら、ヴェルトは笑った。
「姐さんが焦った理由、ちゃんと考えて。あの姐さんがだよ? クソ莫迦女の言葉鵜呑みにして、だんなさまぶち犯そうとするなんて、正直異常なんだけど。それってなんでか分かる?」
「い、いいえ……」
「もー。だんなさまってほんと、自分の事で手一杯だねー」
「う、申し訳ありません……」
その通りなので、ランヴァルトはショボショボとへこみながら謝る。
「その点はヴェルトの云う通りですね」
塩をかけられたアメヨビの如く小さくなるランヴァルトに、今度はヘイスがにこやかに声をかけて来た。なんだか、楽しそうな声だ。
「御前――エルヴィーラ様の言葉には王族も皇族も逆らえないだとか、世界一の大富豪からの求婚を断る訳がない、なんてそんな常識はどうでも宜しいのです。旦那様が、どうしてエルヴィーラ様のプロポーズを受け入れたのか。そこを、エルヴィーラ様にきちんとご説明下さい。エルヴィーラ様が暴走したままですと、直属の配下である私達がかなり大変なので。落ち着かせて欲しいです」
「僕が、エルヴィーラ様のプロポーズを受け入れた理由なんて、そんなの……」
分かり切った事だ。わざわざ説明するまでもない。
「僕が、エルヴィーラ様を」
「あ、ごめん。いま聞かせないで」
「えっ」
「我々が先に聞いたとあらば、冗談抜きで御前に耳を切り落とされます」
「えっ」
「もしくは記憶をなくせとばかりに、鈍器で殴られるよね」
「えっ」
「だからそれ、宿題ー。明日ちゃんと、姐さんに話してー。ぜんぶ。一から十まで、懇切丁寧に」
「あ、はい。分かりました……?」
「疑問形なのウケんだけどー。マジで頼んだよ、だんなさま」
「我々の健やかな職場環境は貴方様のお言葉次第です。期待しております」
「あ、はい」
「じゃぁもう寝よっかだんなさまー」
「さぁさぁ、健やかにたっぷり睡眠を取って、明日に備えて下さいまし旦那様」
「あ、はい」
二人に追い立てられて、さっさか寝る前の準備を済ませる。前から思っていたが、護衛が本業なのに二人とも、他人の世話が上手い。ランヴァルトは肌の手入れまでされて、寝酒を一口飲まされて、あれよあれよと云う間にベッドへ寝かされていた。
少し甘い香りがする気がしたが、起き上がっても二人から強制的に就寝させられそうだ。出来る限り嗅覚を意識しないようにするしかない。
「んっふふ、子守歌でも歌ったげよっかぁ、だんなさまー」
「い、いえ、大丈夫です。眠れます」
緊張を見せるランヴァルトの心理状態を読み取ったらしいヴェルトが、含み笑いをしながら子供相手のような柔らかな声で云う。さすがに恥ずかしいのでお断りすると、ヴェルトは「そう?」と笑いながら引いてくれた。
「……あのさー、だんなさま」
「はい?」
「俺さー、これでもだんなさまの事、けっこー気に入ってんだわ」
「あ、ありがとう?」
「疑問形ウケる。まぁ、だからさー、姐さんと上手く行って欲しいんだよ。姐さんの財産狙いのクソも掃いて捨てて便所に流したいくらい居るけどさー、姐さんの見た目とか性格とかにガチ惚れしてる奴も多いしさー。ほら、この前ぶん殴られた、うちの国のおーじ様とかー」
「あぁ……」
エルヴィーラへ面と向かって「なんでランヴァルトみたいな駄目な奴を選んだのか」と発言し、拳でぶん殴られた王子を、ランヴァルトもよく知っていた。
王太子殿下の長男、つまりランヴァルトにとっては従兄弟に当たる王子だ。年齢が同じでよく比較されたものである。その彼がエルヴィーラに惚れ込んでいると云う噂は、ランヴァルトでさえ知っていた。勿論、情報源はアルヴィドだが。
「でも、どいつもこいつも、気に入らねーの。うっぜぇし邪魔だなぁーって思うんだー。姐さんに近寄るんじゃねぇゴキブリ共が、ブチコロがすぞ、って思うしー。ぶっ飛ばせるもんならぶっ飛ばしたいもん。でもだんなさまには思わないよ。だんなさま、いい子だからー」
「ありがとう……?」
また含み笑いをしながら、ヴェルトは横になっているランヴァルトの頭を撫でた。他人に頭を撫でられたのはいつぶりだろうか。
ヴェルトはイヒヒッと軽快に笑った。
「それって多分、だんなさまが俺らの事じゃまだって思ってないからだなーって」
「? どうして二人が邪魔になるんです?」
初めて会った日からずっと側に居て助けてくれる二人を、どうして邪魔だと思えるのか。むしろ二人から「なんて情けない男だ」と呆れられていないか、内心では見捨てられてやしないか、ランヴァルトはいつも気にしている。
エルヴィーラと比べて、自分はあまりに弱い。常日頃エルヴィーラの側へ侍っていた二人からすれば、物足りない護衛対象だろうに。
「んっふふ、わかんないならいいんだけどー。だんなさまの情緒を育てるのは、姐さんの仕事かなー? それとも俺らの仕事かなぁ。ねぇ、ヘイス」
「御前も情緒豊かとは云えませんからねぇ」
「あー、基本は死んでるかんね、あの人の情緒。クラースのひぃじっ様は偉大だったって事かぁ」
ランヴァルトには分からない言葉が交わされた。気になる名前も出て来たので詳細を聞くべきだと思うのだが、酒が回ってきて眠気が瞼を下ろしにかかる。
うとうとし始めたランヴァルトに、ヴェルトがまた、んふ、とこもった笑いを漏らした。
「ま、全ては明日からだよ、だんなさま。二人とも、まーだスタートラインにも立ってないんだからさーぁ」
わしゃわしゃと頭を撫でられる感触を味わい、ヘイスがヴェルトの名前を呼ぶ声を聞きながら、ランヴァルトは眠りへと落ちて行く。
(……エルヴィーラ様の香りがする)
眠気が来るまで緊張を呼び起こした甘い香りは、睡魔に支配されたランヴァルトにとって安心毛布のような役割でも果たしたのか。
ランヴァルトはその夜、夢も見ない程熟睡をし、翌朝、最高の気分で目を覚ましたのだった。
魔力とか魔術とか魔導具とかある世界観なら、スマホくらいある。(暴論)
我々の世界と彼らの世界を端的に表わすなら、「文化の差はあれど、文明に差はない」って感じです。むしろ瞬間移動が限定的とは云え出来るので、こっちより進んでるまである。
ただし魔物の存在で大規模発展は難しいんじゃないかな。
一部の特権階級だけ、SFに近い生活してそうな世界。
そう云う世界観好きなんです……ファンタジーと科学がほどよく融合した世界すきぃ……。